どうせ届かないのに、それでも好きになった——宮廷武官と薬師の恋

越の家の台所で夕食の準備をしながら、私は何度目かのため息をついた。

……やっぱり、今日、来なかった方が良かったかも。

お師匠様が友人と1泊2日の旅行へ出かけることになって、予定が決まった時に、夕食を越さんと一緒に食べる約束をした。今日はあらかじめ許可ももらっていたので、店を少し早めに閉めて、買い物をしてからそのまま彼の家へ来ている。

今まで、ちゃんと手料理を食べてもらう機会なんてほとんどなかったから、せっかくだし作りたいと自分から言ったのだ。味の好みも分かるかもしれないし、「楽しみだ」と言ってくれたのが嬉しくて、昨日まではあんなに浮かれていたのに。

鍋をかき混ぜながら、小さく息を吐く。

頭に浮かぶのは、昨夜見た夢だった。

お母さん。

お父さん。

お姉ちゃん。

お兄ちゃん。

元の世界の、大好きだった家族。

友達もいなかったし、もちろん恋人なんていなかった。だから、あの世界での私の居場所って、きっと家族がほとんどだったと思う。

交通事故に遭って、死んだことになっているなら、まだ納得できる。でも、もし行方不明だったら――そう考えてしまうと、胸の奥がぎゅっと痛んだ。

夢の中で、家族はずっと私を探していた。

名前を呼んで。

泣きながら。

私は今、こんなに幸せなのに、家族は今も私のために泣いているのかもしれない。

そう思った瞬間から、ずっと胸の奥が苦しくて。

お師匠様は、多分、朝から私の様子がおかしいことに気づいていたと思う。それでも何も聞かず、いつも通り旅行へ出かけていった。

こっちへ来たばかりの頃は、お師匠様の前で泣いてしまうことも何度かあった。

不安で、寂しくて、帰れなくて、そんな私を、お師匠様はただ受け止めてくれた。

だから今、私はここに立っていられるんだと思う。

そこまで考えてから、深く息を吐き出した。

だめだ。

ちゃんと切り替えないと。

せっかく楽しみにしていたのに、越さんに心配をかけちゃう。

私は完成した料理を卓へ運ぼうと皿を持ち上げた。

その時、玄関が開く音と一緒に、「ただいま」と聞き慣れた低い声が響く。

そこまでは良かった。

でも、その声を聞いて顔を見た瞬間、もう駄目だった。

「おかえり……」

そこまで言ったところで、急に視界が滲む。

慌てて下を向き、何とか涙を止めようとするけれど、うまくいかない。

だめ。

なんで、今。

「何かあったのか」

近づいてくる気配と一緒に、心配そうな声が落ちてくる。

私は慌てて首を振った。

「な、なんでも……」

声が震えてしまう。

私、何やってるんだろう。

仕事で疲れて帰ってきてる人の前で泣くなんて。

そう思った瞬間だった。

ふわっと、体が包み込まれる。

「……っ」

気づけば、越さんの腕の中だった。

「わ、私……」

驚いて顔を上げると、すぐ近くに心配そうな表情があった。

越さんは何も言わず、私の頬を伝った涙を指でそっと拭う。

「大丈夫だ」

ただ、それだけだった。

慰めるでもなく、無理に理由を聞くでもなく、それでも、いつも通りの低い声は本当に安心できて。

張り詰めていたものが、一気に崩れていく。

結局、そのまま越さんの胸に顔を埋めて、しばらく泣き続けた。

――――――――――――

姫香の泣き声が、少しずつ落ち着いていく。

越は胸元にしがみつく体を抱き寄せたまま、小さく息を吐いた。

昨日見た夢のこと。

置いてきた家族のこと。

自分だけが幸せでいることへの罪悪感。

ぽつりぽつりと零れる言葉を聞きながら、越は以前、明蘭に言われた言葉を思い出していた。

――姫香が元の世界に置いてきたものは重い。それを受け止めきれないようなら、あの子の傍にはいないで欲しい。

姫香がいない時に、そっと告げられた言葉だった。

分かっているつもりだった。

自分も家族を失っているから、少しは痛みくらい理解できると思っていた。

けれど、違うのだと思い知らされる。

姫香には、今も帰れない場所がある。

もう会えないかもしれない家族がいる。

その重さを前にすると、かけるべき言葉なんて簡単には見つからなかった。

ただ黙って話を聞きながら、越は姫香の体を抱きしめる腕に少しだけ力を込める。

結局、自分にはこうして抱きしめることくらいしか出来ない。

その事実に、わずかな苛立ちすら覚えていた。

しばらくして、少し落ち着いてきたのだろう。

姫香は越の胸に顔を埋めたまま、小さく照れたように笑う。

「……泣きすぎですね、私」

「いや。泣きたい時は泣いた方がいい」

その返事に、姫香は少しだけ肩を揺らした。

「前から思ってたんだけど、越さんって過保護」

どこか嬉しそうな声だった。

「嫌か」

「全然」

姫香は小さく笑ってから、少しためらうように続ける。

「越さんこそ、呆れてない? 私、頼ってばっかりだし」

「いや。まだまだ、頼られ足りないくらいだ」

その言葉に、姫香は思わず吹き出した。

「やっぱり、過保護」

さっきまで泣いていたとは思えないくらい、普段の空気が戻ってくる。

姫香は深く息を吐いてから、そっと越を見上げた。

「……どうにもならないことぐらい、分かってるんです」

「それに、家族も、きっと私の幸せを願ってくれてるから」

今度は、涙は浮かんでいなかった。

「あぁ」

越はその言葉に、ゆっくり頷いた。

姫香は少しだけ迷うように視線を揺らしてから、小さな声で聞いた。

「だから……また、泣いてもいい?」

「もちろんだ」

そう言って、越はもう一度姫香の体をぎゅっと抱きしめた。

――――――――――――

すっかり落ち着く頃に、ようやく、自分が今どういう状況なのかを思い出した。

……いや、待って。

私、今、抱きしめられてる。

確かに落ち着く。

安心する。

でも、そういう問題じゃない。

意識した瞬間、顔が一気に熱くなる。

落ち着いていたはずの心臓まで、思い出したみたいに急にうるさくなった。

「あ、あの……越さん。もう、大丈夫です」

胸に顔を埋めたまま、なんとかそう言う。

すると越さんは、少しだけ楽しそうに私の顔を見下ろした。

「俺は、まだこのままでも構わないが」

「い、いえ、その……夕食の準備が」

慌てて言葉を返しながら、私はわたわたと視線を泳がせる。

越さんはそんな私を少し黙って見つめていた。

次の瞬間。

ふいに、額へ柔らかい感触が落ちる。

「……っ」

一瞬、何が起きたのか理解できなかった。

え。

今。

「あ、えっ、あの……!」

完全に真っ赤になって固まった私を見て、越さんが小さく吹き出す。

それからようやく腕を離すと、何事もなかったみたいな顔で台所へ向かった。

「美味しそうだ」

そう言いながら、出来上がっていた料理を卓へ運び始める。

私は呆然としたまま、そっと額へ手を触れた。

触れられた場所が、まだ熱い気がする。

でも、思わず頬が緩む。

越さんって、本当に私を甘やかすのがうまいと思う。

……でも。

私の方が一応年上なんだし、少しだけでも頼られる側になれるように頑張らないと。

「お、お茶入れますね」

誤魔化すみたいにそう言って、私は急いで茶器を準備し始めた。

湯気の立つ茶器を並べながら、ふと小さく息を吐く。

結婚したら、これが日常になるのかな。

そう思うと、なんだか少しくすぐったくて。

きっと、家族への想いが消えることはない。

これから先も、時々どうにもならないことに泣いて、たぶん困らせてしまう。

それでも――叶うなら。

私は、越さんの傍にいたいと思った。