「いらっしゃい」
段の家を訪ねると、玄関先で段と静華が迎えてくれた。
「今日はありがとうございます」
姫香が軽く頭を下げると、
「そんなに緊張しなくていいよ」
段が苦笑交じりに言う。
そのときだった。
「あ、ゆえ!」
奥からぱたぱたと小さな足音が聞こえてきて、女の子が勢いよく飛び出してくる。
そのまま迷いなく越へ抱きついた。
「あぁ、雪。元気そうだな」
越は自然な動作で雪の頭を撫でる。
「うん!」
嬉しそうに返事をしてから、雪はふと姫香へ視線を向けた。
「あれ? 薬屋さんのお姉ちゃん」
「こんにちは、雪ちゃん」
姫香が笑いかけると、雪は越に抱きついたまま、二人の顔を交互に見比べる。
それから、遠慮のない声で聞いた。
「このお姉ちゃんと結婚するの?」
姫香は思わず固まった。
けれど越は平然とした顔のまま、
「まぁな」
と答える。
そのまま、雪の頭をぽんぽんと軽く撫でた。
姫香は一気に顔が熱くなる。
雪はそんな姫香をじーっと見つめていた。
「ほら、越さん。そのままじゃ動けないでしょう」
静華が苦笑しながら雪を自分の方へ引き寄せる。
「はーい」
少しだけ不満そうに返事をしながらも、雪は素直に静華のそばへ移動した。
「少し大事なお話があるの。先に宿題を終わらせてきなさい」
「わかった」
雪は頷いてから、もう一度越を見る。
「ゆえ、宿題終わるまで帰らないでね」
「あぁ」
越が短く返すと、雪はようやく満足したように頷いた。
それでも少し名残惜しそうにしながら、自分の部屋へ戻っていく。
「すごく懐かれてるんですね」
姫香がそう言うと、越は雪が去っていった方を見ながら、
「まぁ、生まれた頃から知ってるからな」
と答えた。
……それだけじゃない気もする。
きっと、雪ちゃん、越さんのこと大好きなんだろうな。
ふとそんなことを思って、姫香は少しだけ申し訳ないような、不思議な気持ちになる。
慌てて気持ちを切り替えるように、持っていた包みを差し出した。
「あの、今日はよろしくお願いします。それで、これ、よろしければどうぞ」
「気を遣わなくてよかったのに」
段はそう言いながらも、姫香から菓子の包みを受け取る。
「立ち話もなんだから、入って頂戴」
静華に促され、四人は居間へ向かった。
卓を囲み、温かい茶が運ばれてくる。短い雑談を挟み、少し空気が落ち着いた頃、静華が姫香へ視線を向ける。
「これから、少しずつ準備していかないとね」
「はい」
頷きながら返事をするものの、“結婚準備”と言われると、まだどこか実感が薄い。
すると段が越へ視線を向けた。
「式場とかは、まだ考えてないのかい?」
「あぁ。小さくていいとは話しているが」
越がそう言って姫香を見る。
姫香も小さく頷いた。
「あまり大げさなのは、ちょっと……」
「まぁ、二人らしいね」
段はどこか納得したように笑う。
「それなら、清嵐殿あたりがちょうどいいかもしれないわね」
静華がそう口にした。
「清嵐殿?」
姫香が聞き返すと、段が返事をくれる。
「小さいけど、ちゃんと格式もある婚礼場でね。武官の婚礼でもよく使われるところだよ」
越は少し考えるようにしてから、
「あぁ、あそこか」
と小さく呟いた。
それから姫香へ視線を向ける。
「今度、見に行くか」
「お願いします」
姫香は少しだけ嬉しそうに頷いた。
「婚礼衣装は、まだ何も考えてないのよね?」
静華がそう聞くと、
「あぁ、玉蘭衣舗で見繕えればと思っている」
と越が答える。
「玉蘭衣舗?」
姫香が首を傾げる。
「そこがいいわよ。私の婚礼衣装もそこだったし、選んでる時が一番楽しかったわね」
静華は懐かしそうに笑った。
「確かに、楽しそう……」とつぶやく。
結婚式の衣装かぁ。
似合うのがあるといいな。
そんなことを考えてから、気になっていたことを静華へ質問する。
「あの、女性側が準備しなきゃいけないものとかってあるんですか?」
「そうね。婚礼衣装は女性側が用意することが多いけれど――」
「え、そうなんですね。じゃあ自分で――」
最後まで言い切る前に、
「衣装のことは気にしなくていい」
越が静かに言い切った。
「でも……」
姫香が戸惑ったように視線を揺らす。
「前も言ったが、必要なものはこちらで用意したいと思っている」
その声音は淡々としていたが、譲る気はまったく感じられなかった。
すると段が苦笑する。
「越の場合、その辺は素直に甘えておいた方がいいと思うよ」
「そういうものなんですか?」
「そういうものだ」
越があっさり答える。
静華もくすりと笑った。
それから、ふと思い出したように口を開く。
「その代わり、守り布を作るのはどう?」
「守り布?」
姫香が不思議そうに聞き返した。
「婚礼の時に用意する人、結構多いのよ。正装につけたり、普段から持ち歩いたりする、小さなお守りみたいなもの」
「これだよ」
そう言って、段は懐から小さな布袋を取り出した。
綺麗な刺繍の入ったそれは、日本のお守りに少し似ている。
「綺麗な刺繍、これ、静華さんが?」
「えぇ。汚れてきたから、これは、去年、作り直したものだけど。良ければ、作り方教えるわよ」
越の方を見ながら、姫香は少しだけ躊躇うように口を開いた。
「私、手芸とか苦手で……上手くできないと思うんですけど。でも、越さんのために作ってみたいなって」
すると越は、ごく自然な口調で、
「あぁ、楽しみにしている」
と返した。
その優しげな笑みに、姫香は一気に顔が熱くなる。
――この笑顔、反則だと思う。
慌てるように静華へ視線を戻す。
「……えっと。よろしくお願いします。」
「えぇ、もちろん。まずは一緒に材料を買いに行かないとね」
そのときだった。
「宿題終わったぁ!」
ぱたぱたと足音を立てながら、雪が部屋から飛び出してくる。
そのまま一直線に越へ駆け寄ると、ぎゅっと抱きついた。
「あぁ、頑張ったな」
越は慣れた様子で雪の頭を撫でる。
雪は満足そうにしながらも、越の腕にしがみついたまま、先ほどと同じようにじーっと姫香を見つめる。
……なんだろう。
その視線に、姫香は内心苦笑する。
――これ、やっぱり恋敵扱いされてる気がする。
「雪、お席に座りなさい。お菓子、あげないわよ」
静華が呆れたように声をかけると、
「はぁい……」
雪は渋々といった様子で返事をし、子ども用の小さな椅子へ向かった。
それでも、ちらちらと越と姫香の方を交互に見ている。
そんな雪を見ながら、段が苦笑交じりに口を開く。
「ほら、雪。姫香は越のお嫁さんになるんだよ。仲良くしないと、越がお家に遊びに来てくれなくなるぞ」
「えっ」
姫香は思わず固まる。
いやいや、それは雪ちゃんなりに、越さんを取られたくないだけだと思うし……。
どう声をかければいいのか分からず戸惑っていると、
「そうだな。雪が姫香と仲良くしてくれたら、遊びに来やすい」
越がさらりと言った。
「あの、越さん、それは……」
姫香は一人でおろおろする。
案の定、雪はむっと頬を膨らませてしまった。
けれど段も静華も、「また始まった」というように苦笑しているだけだ。
越に至っては、「いつものことだ」と肩をすくめるだけだった。
……いやいや。
3人にはいつものことでも、私は十分気まずいんですけど。
それに、こんな可愛い女の子に嫌われているのは寂しい。
そんなことを思っていると、不意に雪がこちらを見た。
「ねぇ、薬屋のお姉ちゃん」
「え?」
「あれ、弾けるなら、お嫁さんって認めてあげる」
雪が指差した先には、部屋の隅に置かれたピアノがあった。
こっちでは“鍵琴”って呼ぶんだったよね、たしか。
「もう、雪。無理なこと言っちゃだめよ」
静華がたしなめ、段も苦笑している。
なんだか、収拾がつかなくなってきた気がする。
そう思いながらも、姫香は雪へ視線を向けた。
「あの……弾けたら、仲良くしてくれるのかな」
雪はぱちぱちと目を瞬かせる。
「お姉ちゃん、弾けるの?」
「雪ちゃんくらいの頃から習ってたから、ちょっとだけ。あまり上手くはないけど」
「え、聞きたい!」
さっきまでむくれていたのを忘れたのか、雪は身を乗り出した。
「お母さん、あんまり上手くないから!」
「上手くないって、まぁ、そうだけど」
静華が苦笑いで返す。
その横で、段が感心したように姫香を見た。
「でも、鍵琴の習い事なんて、すごいな。上流貴族か演奏者くらいしかやらないからね」
「え?」
姫香は思わず首を傾げる。
「もしかして、姫香って元の世界では身分が高かったのかい?」
「い、いえっ、違います!」
慌てて首を振る。
「私の世界には身分制度はありませんし、鍵琴を習ってる人も結構いましたから」
「世界が違えば、色々違うのねぇ」
静華がしみじみと言う。
「そうだな」
段も感心したように頷いた。
「ねぇ、弾いて、弾いて」と雪ちゃんが椅子からおりて、姫香の服をつかむ。
「あら、私も、聞いてみたいわ。」
「あの、本当に上手くないですから。それに、私の世界の曲しか弾けないので」
どうしよう、本当にたいしたことのない演奏だけどと、つい越さんの方を見る。
「俺も、聞いてみたい」
越に思ったより真剣な声でそう言われて、少しだけ胸が跳ねる。
自分の世界のことに興味を持ってくれたのが、なんだか嬉しくて。
「あ、えっと……じゃあ、少しだけ」
立ち上がり、鍵琴の前へ向かう。
すると静華が先に歩み寄り、蓋を開けてくれた。
「みててもいい?」
いつの間にか、雪もすぐ隣まで来ている。
「うん、もちろん」
そう返しながら椅子へ腰を下ろす。
……何を弾こう。
暗譜している曲なんて、そんなに多くない。
それに、最後に弾いたのはもう2年以上前だし、指、動くかな。
少し迷った末、姫香は小さく息を吐いた。
――子犬のワルツなら。
昔、何度も弾いた曲だし、なんとかなるかも。
姫香はそっと鍵盤へ指を置いた。
――――――――――
姫香が弾く鍵琴の旋律が、軽やかに居間へ広がっていく。
弾き始めてすぐ、姫香は内心ほっと息をついた。
――思ったより、指が覚えてるかも。
最後に弾いたのはもう何年も前だけど、この曲は小さい頃から何度も弾いていた。
もちろん、完璧とは程遠いけど。
それでも、不思議と弾いていると少しだけ緊張が薄れる。
なにより、どこか懐かしい。
鍵盤に触れていると、少しだけ元の世界に触れているような気分になる。
雪は、体を揺らしながら、きらきらした目で姫香の指を見つめていた。
静華と段も、不思議な旋律に興味深そうに耳を傾けている。
そして越は――
少し緊張したような顔をしながらも、どこか懐かしそうに鍵琴を弾く姫香の姿を、ただ見つめていた。
段の家を訪ねると、玄関先で段と静華が迎えてくれた。
「今日はありがとうございます」
姫香が軽く頭を下げると、
「そんなに緊張しなくていいよ」
段が苦笑交じりに言う。
そのときだった。
「あ、ゆえ!」
奥からぱたぱたと小さな足音が聞こえてきて、女の子が勢いよく飛び出してくる。
そのまま迷いなく越へ抱きついた。
「あぁ、雪。元気そうだな」
越は自然な動作で雪の頭を撫でる。
「うん!」
嬉しそうに返事をしてから、雪はふと姫香へ視線を向けた。
「あれ? 薬屋さんのお姉ちゃん」
「こんにちは、雪ちゃん」
姫香が笑いかけると、雪は越に抱きついたまま、二人の顔を交互に見比べる。
それから、遠慮のない声で聞いた。
「このお姉ちゃんと結婚するの?」
姫香は思わず固まった。
けれど越は平然とした顔のまま、
「まぁな」
と答える。
そのまま、雪の頭をぽんぽんと軽く撫でた。
姫香は一気に顔が熱くなる。
雪はそんな姫香をじーっと見つめていた。
「ほら、越さん。そのままじゃ動けないでしょう」
静華が苦笑しながら雪を自分の方へ引き寄せる。
「はーい」
少しだけ不満そうに返事をしながらも、雪は素直に静華のそばへ移動した。
「少し大事なお話があるの。先に宿題を終わらせてきなさい」
「わかった」
雪は頷いてから、もう一度越を見る。
「ゆえ、宿題終わるまで帰らないでね」
「あぁ」
越が短く返すと、雪はようやく満足したように頷いた。
それでも少し名残惜しそうにしながら、自分の部屋へ戻っていく。
「すごく懐かれてるんですね」
姫香がそう言うと、越は雪が去っていった方を見ながら、
「まぁ、生まれた頃から知ってるからな」
と答えた。
……それだけじゃない気もする。
きっと、雪ちゃん、越さんのこと大好きなんだろうな。
ふとそんなことを思って、姫香は少しだけ申し訳ないような、不思議な気持ちになる。
慌てて気持ちを切り替えるように、持っていた包みを差し出した。
「あの、今日はよろしくお願いします。それで、これ、よろしければどうぞ」
「気を遣わなくてよかったのに」
段はそう言いながらも、姫香から菓子の包みを受け取る。
「立ち話もなんだから、入って頂戴」
静華に促され、四人は居間へ向かった。
卓を囲み、温かい茶が運ばれてくる。短い雑談を挟み、少し空気が落ち着いた頃、静華が姫香へ視線を向ける。
「これから、少しずつ準備していかないとね」
「はい」
頷きながら返事をするものの、“結婚準備”と言われると、まだどこか実感が薄い。
すると段が越へ視線を向けた。
「式場とかは、まだ考えてないのかい?」
「あぁ。小さくていいとは話しているが」
越がそう言って姫香を見る。
姫香も小さく頷いた。
「あまり大げさなのは、ちょっと……」
「まぁ、二人らしいね」
段はどこか納得したように笑う。
「それなら、清嵐殿あたりがちょうどいいかもしれないわね」
静華がそう口にした。
「清嵐殿?」
姫香が聞き返すと、段が返事をくれる。
「小さいけど、ちゃんと格式もある婚礼場でね。武官の婚礼でもよく使われるところだよ」
越は少し考えるようにしてから、
「あぁ、あそこか」
と小さく呟いた。
それから姫香へ視線を向ける。
「今度、見に行くか」
「お願いします」
姫香は少しだけ嬉しそうに頷いた。
「婚礼衣装は、まだ何も考えてないのよね?」
静華がそう聞くと、
「あぁ、玉蘭衣舗で見繕えればと思っている」
と越が答える。
「玉蘭衣舗?」
姫香が首を傾げる。
「そこがいいわよ。私の婚礼衣装もそこだったし、選んでる時が一番楽しかったわね」
静華は懐かしそうに笑った。
「確かに、楽しそう……」とつぶやく。
結婚式の衣装かぁ。
似合うのがあるといいな。
そんなことを考えてから、気になっていたことを静華へ質問する。
「あの、女性側が準備しなきゃいけないものとかってあるんですか?」
「そうね。婚礼衣装は女性側が用意することが多いけれど――」
「え、そうなんですね。じゃあ自分で――」
最後まで言い切る前に、
「衣装のことは気にしなくていい」
越が静かに言い切った。
「でも……」
姫香が戸惑ったように視線を揺らす。
「前も言ったが、必要なものはこちらで用意したいと思っている」
その声音は淡々としていたが、譲る気はまったく感じられなかった。
すると段が苦笑する。
「越の場合、その辺は素直に甘えておいた方がいいと思うよ」
「そういうものなんですか?」
「そういうものだ」
越があっさり答える。
静華もくすりと笑った。
それから、ふと思い出したように口を開く。
「その代わり、守り布を作るのはどう?」
「守り布?」
姫香が不思議そうに聞き返した。
「婚礼の時に用意する人、結構多いのよ。正装につけたり、普段から持ち歩いたりする、小さなお守りみたいなもの」
「これだよ」
そう言って、段は懐から小さな布袋を取り出した。
綺麗な刺繍の入ったそれは、日本のお守りに少し似ている。
「綺麗な刺繍、これ、静華さんが?」
「えぇ。汚れてきたから、これは、去年、作り直したものだけど。良ければ、作り方教えるわよ」
越の方を見ながら、姫香は少しだけ躊躇うように口を開いた。
「私、手芸とか苦手で……上手くできないと思うんですけど。でも、越さんのために作ってみたいなって」
すると越は、ごく自然な口調で、
「あぁ、楽しみにしている」
と返した。
その優しげな笑みに、姫香は一気に顔が熱くなる。
――この笑顔、反則だと思う。
慌てるように静華へ視線を戻す。
「……えっと。よろしくお願いします。」
「えぇ、もちろん。まずは一緒に材料を買いに行かないとね」
そのときだった。
「宿題終わったぁ!」
ぱたぱたと足音を立てながら、雪が部屋から飛び出してくる。
そのまま一直線に越へ駆け寄ると、ぎゅっと抱きついた。
「あぁ、頑張ったな」
越は慣れた様子で雪の頭を撫でる。
雪は満足そうにしながらも、越の腕にしがみついたまま、先ほどと同じようにじーっと姫香を見つめる。
……なんだろう。
その視線に、姫香は内心苦笑する。
――これ、やっぱり恋敵扱いされてる気がする。
「雪、お席に座りなさい。お菓子、あげないわよ」
静華が呆れたように声をかけると、
「はぁい……」
雪は渋々といった様子で返事をし、子ども用の小さな椅子へ向かった。
それでも、ちらちらと越と姫香の方を交互に見ている。
そんな雪を見ながら、段が苦笑交じりに口を開く。
「ほら、雪。姫香は越のお嫁さんになるんだよ。仲良くしないと、越がお家に遊びに来てくれなくなるぞ」
「えっ」
姫香は思わず固まる。
いやいや、それは雪ちゃんなりに、越さんを取られたくないだけだと思うし……。
どう声をかければいいのか分からず戸惑っていると、
「そうだな。雪が姫香と仲良くしてくれたら、遊びに来やすい」
越がさらりと言った。
「あの、越さん、それは……」
姫香は一人でおろおろする。
案の定、雪はむっと頬を膨らませてしまった。
けれど段も静華も、「また始まった」というように苦笑しているだけだ。
越に至っては、「いつものことだ」と肩をすくめるだけだった。
……いやいや。
3人にはいつものことでも、私は十分気まずいんですけど。
それに、こんな可愛い女の子に嫌われているのは寂しい。
そんなことを思っていると、不意に雪がこちらを見た。
「ねぇ、薬屋のお姉ちゃん」
「え?」
「あれ、弾けるなら、お嫁さんって認めてあげる」
雪が指差した先には、部屋の隅に置かれたピアノがあった。
こっちでは“鍵琴”って呼ぶんだったよね、たしか。
「もう、雪。無理なこと言っちゃだめよ」
静華がたしなめ、段も苦笑している。
なんだか、収拾がつかなくなってきた気がする。
そう思いながらも、姫香は雪へ視線を向けた。
「あの……弾けたら、仲良くしてくれるのかな」
雪はぱちぱちと目を瞬かせる。
「お姉ちゃん、弾けるの?」
「雪ちゃんくらいの頃から習ってたから、ちょっとだけ。あまり上手くはないけど」
「え、聞きたい!」
さっきまでむくれていたのを忘れたのか、雪は身を乗り出した。
「お母さん、あんまり上手くないから!」
「上手くないって、まぁ、そうだけど」
静華が苦笑いで返す。
その横で、段が感心したように姫香を見た。
「でも、鍵琴の習い事なんて、すごいな。上流貴族か演奏者くらいしかやらないからね」
「え?」
姫香は思わず首を傾げる。
「もしかして、姫香って元の世界では身分が高かったのかい?」
「い、いえっ、違います!」
慌てて首を振る。
「私の世界には身分制度はありませんし、鍵琴を習ってる人も結構いましたから」
「世界が違えば、色々違うのねぇ」
静華がしみじみと言う。
「そうだな」
段も感心したように頷いた。
「ねぇ、弾いて、弾いて」と雪ちゃんが椅子からおりて、姫香の服をつかむ。
「あら、私も、聞いてみたいわ。」
「あの、本当に上手くないですから。それに、私の世界の曲しか弾けないので」
どうしよう、本当にたいしたことのない演奏だけどと、つい越さんの方を見る。
「俺も、聞いてみたい」
越に思ったより真剣な声でそう言われて、少しだけ胸が跳ねる。
自分の世界のことに興味を持ってくれたのが、なんだか嬉しくて。
「あ、えっと……じゃあ、少しだけ」
立ち上がり、鍵琴の前へ向かう。
すると静華が先に歩み寄り、蓋を開けてくれた。
「みててもいい?」
いつの間にか、雪もすぐ隣まで来ている。
「うん、もちろん」
そう返しながら椅子へ腰を下ろす。
……何を弾こう。
暗譜している曲なんて、そんなに多くない。
それに、最後に弾いたのはもう2年以上前だし、指、動くかな。
少し迷った末、姫香は小さく息を吐いた。
――子犬のワルツなら。
昔、何度も弾いた曲だし、なんとかなるかも。
姫香はそっと鍵盤へ指を置いた。
――――――――――
姫香が弾く鍵琴の旋律が、軽やかに居間へ広がっていく。
弾き始めてすぐ、姫香は内心ほっと息をついた。
――思ったより、指が覚えてるかも。
最後に弾いたのはもう何年も前だけど、この曲は小さい頃から何度も弾いていた。
もちろん、完璧とは程遠いけど。
それでも、不思議と弾いていると少しだけ緊張が薄れる。
なにより、どこか懐かしい。
鍵盤に触れていると、少しだけ元の世界に触れているような気分になる。
雪は、体を揺らしながら、きらきらした目で姫香の指を見つめていた。
静華と段も、不思議な旋律に興味深そうに耳を傾けている。
そして越は――
少し緊張したような顔をしながらも、どこか懐かしそうに鍵琴を弾く姫香の姿を、ただ見つめていた。


