国境付近の林は、風に揺れる枝葉の音だけがかすかに響いていた。
「……状況は、かなり厳しいと?」
低く問いかけると、向かいに立つ男が短く頷く。
年上の密偵は周囲へ視線を巡らせながら、声を落とした。
「玄武国は、すでにこの一帯に兵を集め始めている。数も、想定より多い」
やはり、という感覚が胸の奥に沈む。
「思ったより、動きが速いな」
自身に言い聞かせるように呟いてから、凌越は小さく息を吐いた。
「ああ。ここ数日の変化だ。……時間は、そう残っていない」
その言葉の意味は明白だった。
戦は、もう避けられない流れに入っている。
わずかな沈黙が落ちる。
そのとき、ほんのわずかな違和感が空気をかすめた。
凌越の視線が鋭く動き、同時に密偵も息を呑む。
「来ます」
声が落ちた直後、林の奥から黒い影が滑り出た。
五人。
全員が黒装束に身を包み、顔を覆っている。足音も気配も、極限まで殺されていた。
——玄武国の刺客。
互いに確認するまでもなかった。
刃が閃く。
「行ってください」
凌越は短く言い放つ。
「ここは俺が引き受けます」
密偵が一瞬だけ迷いを見せたが、すぐに状況を理解したのだろう。
「……すまない」
踏み込んできた刺客の刀を弾き、そのまま間合いを外して林の奥へと駆け出す。
一人が追おうとした。
それを見逃さず、凌越は懐から小刀を抜いて投げる。ためらいのない一閃が正確に軌道を描き、刺客の進路を遮った。わずかに動きを止めた隙に、密偵の姿はすでに視界から消えている。
これでいい。
凌越は静かに刀を構えた。
踏み込みと同時に刃がぶつかる。
一合で理解した。
——手練れ。
重さも速さも粗がない。少数で確実に仕留めるための精鋭だ。
間合いを詰め、最短で一人の体勢を崩す。次の一撃で動きを奪い、さらに一人。数は減るが包囲は崩れず、残る三人が間を詰めてくる。
呼吸を整える余裕はない。だが動きは鈍らない。受け、流し、返す。刃を交わすたびに間合いを制し、さらに一人、確実に動きを奪う。
気づけば、残るは二人になっていた。
そのとき、肩に鋭い衝撃が走る。
遅れて熱が広がった。
「……っ」
視線を走らせると、木陰に伏せていた影が見える。
吹き矢。
(毒、か……)
瞬時に判断する。
体の奥がじわりと重くなり、指先の感覚がわずかに鈍る。完全に動けなくなるほどではないが、長引けば確実に削られる。
二人の刺客が間合いを詰める。
ここで仕留めきるか、それとも——
一瞬で結論を出す。
踏み込まず、距離を取る。
刃を弾き、牽制しながら後方へ抜ける。追撃は来るが、深追いはしてこない。
——時間稼ぎ。
そう判断した瞬間、さらに距離を取った。
林を抜け、開けた場所へ出る。息が重く、視界の端が揺れる。
(……長くは持ちそうにない)
馬を繋いでいた場所が見えた。手綱を掴み、そのまま跳び乗る。
「行くぞ」
かすれた声でそう言うと、馬はすぐに駆け出した。
背後の気配は遠ざかる。
だが、体の奥を侵す感覚は消えない。完全に無効化できるほど甘い毒ではない。
(王宮までは……持たないか)
冷静に結論を出す。
ならば、最も近い場所。
迷うまでもなかった。
明蘭の店。
処置ができ、信頼できる人間がいる場所。
そのとき、ふと、遠慮深げな顔が脳裏をよぎる。
——戦争が嫌だと言っていた、不安げな表情。
(……こんな姿は、見せるべきではないが)
だが、すぐに思考を切り捨てる。
そんなことを言っていられる状況ではない。
視界がかすみ、呼吸が浅くなる。
「……っ」
小さく息を吐き、手綱を握る力を強めた。
倒れるわけにはいかない。
少なくとも、辿り着くまでは。
―――――――――――――――――
夜半過ぎ、凌越は遠のく意識をなんとかつなぎ止めたまま、明蘭の店へとたどり着いた。
馬からは、ほとんど転げ落ちるように降りる。踏ん張りもきかず、体を引きずるようにして戸口まで辿り着き、震える手で呼び鈴を鳴らした。
(……頼む、気づいてくれ)
今にも崩れそうなところで、扉が開く。
そこに立っていたのは、姫香だった。
「越さん?!!」
その顔を見た瞬間、張り詰めていたものが一気にほどける。
かろうじて保っていた意識が、静かに崩れ始めた。
「ちょ、あの、越さん、どうしたんですか? 大丈夫、しっかりしてください!」
声が遠い。
視界の端で、姫香の顔がみるみる青ざめていくのだけが、かすかに分かる。
支えようとしているのだろう。
だが、力の抜けた体は思うように止まらない。
――このまま倒れるわけにはいかない。
倒れ込む瞬間、最後の力でわずかに体勢をずらす。姫香を押し倒さないように、ぎりぎりのところで踏みとどまり——
そのまま、意識が途切れた。
——本当は、巻き込みたくはなかった。
「……状況は、かなり厳しいと?」
低く問いかけると、向かいに立つ男が短く頷く。
年上の密偵は周囲へ視線を巡らせながら、声を落とした。
「玄武国は、すでにこの一帯に兵を集め始めている。数も、想定より多い」
やはり、という感覚が胸の奥に沈む。
「思ったより、動きが速いな」
自身に言い聞かせるように呟いてから、凌越は小さく息を吐いた。
「ああ。ここ数日の変化だ。……時間は、そう残っていない」
その言葉の意味は明白だった。
戦は、もう避けられない流れに入っている。
わずかな沈黙が落ちる。
そのとき、ほんのわずかな違和感が空気をかすめた。
凌越の視線が鋭く動き、同時に密偵も息を呑む。
「来ます」
声が落ちた直後、林の奥から黒い影が滑り出た。
五人。
全員が黒装束に身を包み、顔を覆っている。足音も気配も、極限まで殺されていた。
——玄武国の刺客。
互いに確認するまでもなかった。
刃が閃く。
「行ってください」
凌越は短く言い放つ。
「ここは俺が引き受けます」
密偵が一瞬だけ迷いを見せたが、すぐに状況を理解したのだろう。
「……すまない」
踏み込んできた刺客の刀を弾き、そのまま間合いを外して林の奥へと駆け出す。
一人が追おうとした。
それを見逃さず、凌越は懐から小刀を抜いて投げる。ためらいのない一閃が正確に軌道を描き、刺客の進路を遮った。わずかに動きを止めた隙に、密偵の姿はすでに視界から消えている。
これでいい。
凌越は静かに刀を構えた。
踏み込みと同時に刃がぶつかる。
一合で理解した。
——手練れ。
重さも速さも粗がない。少数で確実に仕留めるための精鋭だ。
間合いを詰め、最短で一人の体勢を崩す。次の一撃で動きを奪い、さらに一人。数は減るが包囲は崩れず、残る三人が間を詰めてくる。
呼吸を整える余裕はない。だが動きは鈍らない。受け、流し、返す。刃を交わすたびに間合いを制し、さらに一人、確実に動きを奪う。
気づけば、残るは二人になっていた。
そのとき、肩に鋭い衝撃が走る。
遅れて熱が広がった。
「……っ」
視線を走らせると、木陰に伏せていた影が見える。
吹き矢。
(毒、か……)
瞬時に判断する。
体の奥がじわりと重くなり、指先の感覚がわずかに鈍る。完全に動けなくなるほどではないが、長引けば確実に削られる。
二人の刺客が間合いを詰める。
ここで仕留めきるか、それとも——
一瞬で結論を出す。
踏み込まず、距離を取る。
刃を弾き、牽制しながら後方へ抜ける。追撃は来るが、深追いはしてこない。
——時間稼ぎ。
そう判断した瞬間、さらに距離を取った。
林を抜け、開けた場所へ出る。息が重く、視界の端が揺れる。
(……長くは持ちそうにない)
馬を繋いでいた場所が見えた。手綱を掴み、そのまま跳び乗る。
「行くぞ」
かすれた声でそう言うと、馬はすぐに駆け出した。
背後の気配は遠ざかる。
だが、体の奥を侵す感覚は消えない。完全に無効化できるほど甘い毒ではない。
(王宮までは……持たないか)
冷静に結論を出す。
ならば、最も近い場所。
迷うまでもなかった。
明蘭の店。
処置ができ、信頼できる人間がいる場所。
そのとき、ふと、遠慮深げな顔が脳裏をよぎる。
——戦争が嫌だと言っていた、不安げな表情。
(……こんな姿は、見せるべきではないが)
だが、すぐに思考を切り捨てる。
そんなことを言っていられる状況ではない。
視界がかすみ、呼吸が浅くなる。
「……っ」
小さく息を吐き、手綱を握る力を強めた。
倒れるわけにはいかない。
少なくとも、辿り着くまでは。
―――――――――――――――――
夜半過ぎ、凌越は遠のく意識をなんとかつなぎ止めたまま、明蘭の店へとたどり着いた。
馬からは、ほとんど転げ落ちるように降りる。踏ん張りもきかず、体を引きずるようにして戸口まで辿り着き、震える手で呼び鈴を鳴らした。
(……頼む、気づいてくれ)
今にも崩れそうなところで、扉が開く。
そこに立っていたのは、姫香だった。
「越さん?!!」
その顔を見た瞬間、張り詰めていたものが一気にほどける。
かろうじて保っていた意識が、静かに崩れ始めた。
「ちょ、あの、越さん、どうしたんですか? 大丈夫、しっかりしてください!」
声が遠い。
視界の端で、姫香の顔がみるみる青ざめていくのだけが、かすかに分かる。
支えようとしているのだろう。
だが、力の抜けた体は思うように止まらない。
――このまま倒れるわけにはいかない。
倒れ込む瞬間、最後の力でわずかに体勢をずらす。姫香を押し倒さないように、ぎりぎりのところで踏みとどまり——
そのまま、意識が途切れた。
——本当は、巻き込みたくはなかった。


