夢でキスした先輩は、俺にだけ毒を吐く王子様。

その声は、確かに届いたはずだった。
一瞬だけ、先輩の視線が俺に向く。
でも、すぐに何事もなかったみたいに、ふっと逸らされる。
まるで最初から俺なんていなかったみたいに、周りの女子達との会話に戻った。

それでも、もう一歩踏み出す。
同時に、周りの視線が痛いくらいに俺に集まった。

「……先輩」

今度は、すぐ目の前で名前を呼んだ。
それでも先輩は、俺を見ない。
いつものように笑っている。

大きく深呼吸して、口を開いた。

「……キス、してください!」

その瞬間、ざわつきが一気に広がって、空気が変わった。

「最初は、かっこいいから、ただ触れたくて……キスしたいって思ってました」

ーー先輩の動きが、止まった。

「でも……それが、先輩じゃなきゃ意味ないって、気づいて」

怖くないわけじゃない。
でも、それよりもーー

「……俺」

先輩と関われなくなる方が、ずっと痛い。

「好きです」

言いきった瞬間、周りのざわめきと笑い声が、さらに大きくなった。

「でた、ストーカー」
「マジで言ったよ」

今になって、突き刺さって来る言葉。
急に恥ずかしさが込み上げてきて、逃げ出しそうになった時。

ぐっと腕を引かれた。

「っ……!?」

何が起きたのか理解する前に、体が前に引っ張られる。
視界の端に映っている先輩の横顔は、無表情で何も言わないまま、ただ前を向いて歩いている。

「ちょ、先輩……!」

呼びかけても振り返らないまま、ただ強く手を引かれている。

廊下を抜けた時、昼休み終了のチャイムが聞こえてきた。それでも足を止めずに引かれるままに歩いた。

理科準備室の中に入ると、ぱっと手が離される。
同時に振り返った先輩の目は、明らかに機嫌が悪かった。

「……お前、ふざけんなよ」

「え……」

何か言おうと思っても、先輩の目の前に立った瞬間、何も言えなくなった。
視線が合っただけで言葉が喉に詰まる。

「あの……昼休み、終わってますけど……授業、大丈夫ですか?」

伝えたい事はまだ沢山あるのに、やっと出てきた言葉は、そんな的外れなものだった。

「……は?」

先輩は呆れたように眉をよせて続けた。

「この状況で授業行くか?お前」

「そ、それは……そうですけど……あ、これ」

さっき購買で買ったパンを慌てて差し出した。

「先輩、お昼……食べましたか?」

俺の言葉に何も言わないまま、一瞬沈黙した後、先輩がふっと吹き出した。

「……ははっ、ほんとお前……ばかだわ」

呆れたようにそう言って笑った後。

ぐいっと俺の手を引いた。

一瞬で縮まる先輩との距離に、鼓動が速くなっていくのがわかる。
固まったまま動かない俺を、まっすぐ見下ろして呟いた。

「で、俺とどうしたいわけ?」

ーーどうしたい?
そんなの、決まってる。

「……キス、したいです」

先輩は、一瞬目を見開いてから再び笑った。

「お前、まじでそればっかだな」

「え……」

「キスしたいって、誰でもいいのかよ」

その言葉に、反射的に首を振った。

「……先輩じゃなきゃ、いやです」

「ふーん。で?なんで俺、なんだよ」

「それは……」

ーー好き、だから。
そう伝えたいのに、改めて言葉にする事が、急に恥ずかしくなる。

「俺は、理由もわかんねえやつとキスする気ねえよ」

そう言って、また一歩距離を詰めて先輩は続けた。

「ほら、言ってみ?」

ーー俺は先輩と。

「キス、したーーんぐ!?」

言いかけた時、口の中に何かを押し込まれた。
ーーメロンパン。
これで何度目だろう。
離れていた時間が一気に戻った気がする。
もごもごと口を動かす俺を見て、先輩は呆れたように言う。

「ちげーよ、ばか」

パンを飲み込んで顔を上げると、また一歩先輩が近づいてくる。

「お前、こういう時……なんて言うか知ってるか?」

「……え?」

「"好き"って言えよ」

先輩の声が静かに落ちてきて、今なら言える。
そう、思った。

ーー俺は、先輩の事が

「……好きです」

言い切った瞬間、視界が塞がれて。

逃げる間もなく、唇を塞がれた。

ーーえ。

「……い、今、キス?」

「あ?」

「……もう一回、したいです」

「は?調子乗んな、ばーか」

いつもみたいに突き放されてるはずなのに、距離だけは今までで一番近かった。

「ほら、次の授業は出るぞ」

「え?」

「"え?"じゃねえよ。既に今さぼってんだぞ、俺ら」

そう言って扉に向かって歩き出す先輩。

正直、授業どころではない。
離れたくない気持ちを抑えて、先輩の後に続いた。

「……さぼんなよ」

階段の手前で足を止めてそれだけ言うと、再び歩き出した。先輩の背中を見送って、渋々教室に戻った。

***

「お前、すげえな」

席に座ろうとした瞬間、後ろから肩を掴まれて振り返るとスマホを片手に興奮した様子の秋人。

「え?」

「まためっちゃ噂になってる。お前、ほんとに告ったんだな」

ーーやっぱり噂になった、か。
あんなところで告白したら噂にもなるよな。

「で、掲示板にさ、告ったあと先輩と消えたって書いてあるけど……どうだったんだよ」

興味津々な様子で、顔を覗き込んでくる。

どうって。
ーーキス、した。
なんて、そんなこと言えるはずない。

「……嫌われて、なかったよ」

「は!?マジで?」

一瞬固まったあと、秋人はさらに身を乗り出して、続けた。

「じゃあ……付き合うのかよ」

ーー付き合う。
先輩にまだ何も言われていない。
あのキスの意味すらわからない。

「……まだ、わかんない」

小さく呟くと秋人は俺の顔をじっと見た。少しの沈黙のあと、控えめに口を開いた。

「……まあ、でも嫌われてなくてよかったな」

それ以上は何も聞かずに俺の肩に手を置いて、自分の席に戻っていった。