夢でキスした先輩は、俺にだけ毒を吐く王子様。

***

あっという間に放課後になり、気付けばもう店の裏口の前に立っている。

ドアの隙間からかすかに漏れてきた甘い香りに、一気に鼓動が早くなった。

昼のことがまだ抜けないまま着替えを済ませると、先輩はもうキッチンに立っていた。

「……先輩」

「おせえ。早く手、洗え」

「は、はい」

先輩……いつも通り。
昼のことはもう忘れたとか?
いや、まさか、な。

そんなことを考えながら、蛇口をひねった時ーー

「あっつ!?」

熱湯が勢いよく流れできて、思わず手を引っ込めた。

「何してんだ、ばか。気をつけろ」

先輩が眉を寄せながら、こっちに向かってくる。

「だ、大丈夫です……すみません」

情けない返事をしながら、今度は慎重に蛇口をひねって手を洗った。

ーー意識、しずきだろ。
自分でわかっていながらどうすることもできない。

「ほら、早く来いよ」

「は、はいっ」

慌てて先輩の後を追うと、桜色の生地が入ったボウルを指さした。

「これ、昨日と同じ。大きさ揃えろよ」

手を伸ばして、生地に触れると、お昼に食べた新作のドーナツの香りが、ふわっと広がってきた。

「これ……今日のやつですか?」

「ああ。昼のやつ」

先輩は、手を止めずに答えた。

ーーやっぱり。
さっき食べた、あの味。
まだ発売してない新作のドーナツ……きっと俺が一番最初に食べたやつ。
嬉しさが、今頃になって込み上げてくる。

手元では生地を丸めながらも、視線はどうしても先輩に向いてしまう。
作業している横顔、慣れた手の動き。

さっき俺は、先輩とーー

「……お前さ」

先輩が突然口を開いて、はっとした。

やばい、俺。
また見惚れてた。

「昼のこと、気にしてんの?」

「……っ」

図星すぎて何も言えず、生地を持ったまま固まった。

「意味、わかってるって言ってたよな」

そう言って少しづつ距離を詰めながら、先輩は続けた。

「なら、あれくらいでフリーズしてんなよ」

さらっと言って、再び作業に戻った。

ーーなんだよ、それ。
先輩、ずるすぎる。
あんなの……意識するに決まってる。

止まっていた手を、無理やり動かすだけで精一杯だった。

***

そのまま黙々と作業を続けていると、油の前に立つ先輩が、生地を一つずつ油に落とし始めた。

それと同時に、じゅわっと心地のいい音と、甘い匂いが広がってきた。

「ほら、味見」

手元を動かしながら、揚げたてのうちの一つを手に取って、俺に差し出した。

「あ、ありがとうございます」

受け取ったドーナツを一口かじる。
ふわっと広がる甘さの後に、ほんのり香る桜。

「……やっぱ俺、これ、好きです」

「だろうな。……春斗、だもんな」

「え?」

思わず間抜けな声が出た俺を一瞬だけ見て、先輩はふっと笑った。

"春斗、だもんな"

もしかして、"春"だから桜?
いや、そんなわけない。
たまたまだろ。

でもーーやっぱり俺、無理だ。
このままの距離なんて、いやだ。
先輩に、もう一度触れられたい。
そして今度こそ、離される前に俺も……

***

今日の仕事を終えて店を出ると、空はもう薄暗くなっていた。

さっきまでの甘い匂いと、熱のこもった空間から解放されて、まるで現実に戻ってきたような不思議な感覚になる。

"「俺、片付けてから帰る。お前もう帰れ」"

そう言われて外に出てきたはずなのに。
……このまま、帰りたくない。

「……待って、みようかな」

ぽつりと呟いて、店の前の壁に背を預けた。

今日こそは。
ーー先輩と、一緒に帰りたい。

ぼんやり足元を見つめていると、店の扉が開いた。
顔を上げると、出てきたのは先輩ではなく本間さんだった。

「あれ、春斗くん?」

「あ……本間さん、お疲れ様です」

「お疲れ。外で待ってるの?」

にこっと笑いながらすっと近づいてくる。その自然さが、やっぱり苦手かも。

「あ、いや……その……」

「慎也、でしょ?待ってるの」

「……はい」

ーー慎也。
今まで気にならなかったけど、初めて会った時から、本間さんも先輩を名前で呼んでる。

「そっか」

くすっと笑う本間さん。
余裕のある表情が、余計に気になって仕方ない。

ーーなんでこんなに気になるんだろう。でもやっぱり、聞くしかない。

「あ、あの!」

自分でも驚くくらいの大きな声に、本間さんは、不思議そうにこちらを見る。

「本間さんは……先輩と……どういう関係なんですか?」