夢でキスした先輩は、俺にだけ毒を吐く王子様。

「せ、先輩……いま、名前……」

あまりに驚いてやっと絞り出した言葉に、先輩は眉を寄せた。

「は?昨日お前が言ったんだろ。"名前で呼べ"って」

「あ……」
ーーお前に戻ってる。
さっきは、確かに名前だったのに。

"名前で呼んでほしい"とは言った。
でも、まさかほんとに呼ばれるなんて思ってなかった。一瞬だったけど、ちゃんと"春斗"って……

「ほら、ぼーっとしてねえで食えよ」

その言葉に、はっとして顔を上げると、もう何事もなかったみたいにいつもの調子に戻る先輩。

でもーー今なら渡せる気がする。
さっき名前で呼ばれた、その勢いのままなら。

「あ、あの……先輩」

「あ?」

「これ……俺、先輩に渡したくて」

差し出した袋を、無言で受け取る先輩。

「なに?」

「あ、開けてみて……ください」

袋を開ける先輩を、緊張しながら見守った。
キャラメル色の小さなトートバッグを軽く持ち上げる先輩。……やっぱり、似合う。

「あ、えっと……その……手作り、です」

「……重」

「えっ」

先輩の一言に、一瞬頭が真っ白になる。
やっぱり、迷惑だった?

「まあ……嫌いじゃねえけど」

「……っ、ほんとですか!?」

思わず身を乗り出すと、先輩は鬱陶しそうに顔をしかめた。

「近えよ」

「す、すみません」

ーー受け取ってくれた。
それが嬉しくて、距離を忘れていた。

「あのさ、これ、やっぱお前?」

そう言って先輩が向けたスマホの画面を覗くと、表示されていたのは、見慣れたSNS。

アカウント名ーー"kuro-shiro"。

でも、なんで?

「それ……俺ですけど……」

「やっぱり」

「お前、勝手にフォローしてきただろ」

「あ……はい……」

否定できない。初めて先輩を見つけた日。
こんな会話が出来る日が来るなんてまだ思ってなかった。

ーーってことは、
"〚この色、悪くない〛"
あの一言。あの時、救われた言葉。

「やっぱり……先輩だったんだ」

思わず小さく呟くと、先輩は呆れたように俺を見た。

「は?なんだよ」

「い、いや……なんでもないです」

心の奥ではもうはっきりしていた。
ちゃんと気づいてくれていた。
それが、どうしようもなく嬉しい。

「……ま、いいや」

そう言って、先輩はトートバッグを軽く持ち上げた。

「さんきゅ。使うわ」

いつもより少し柔らかい声で言うと、バッグを軽く肩にかけた。

ーーあれ?なんか。
先輩が近くなった気がする。
距離、縮まった、かも。

そう思った瞬間、なぜか鼓動が速くなる。

さっきまでのやり取り。名前で呼ばれたことも、バッグを受け取ってもらえたことも、全てが一気に押し寄せてきてーーもう、止められなかった。

「……先輩」

気づいた時には、手が動いて、先輩の腕を掴んでいた。

「なんだよ」

びくり、と先輩の動きが止まった。

「俺……意味、わかってます」

「……は?」

眉をひそめる先輩。
俺自身も何を言っているかわかっていない。
でも、言葉は続いた。

「先輩、言ったじゃないですか」

"意味、わかってからやれ"

「あれ……わかります」

全部、わかっているわけじゃない。
でもーーわかりたいって思ってる。
先輩と同じところまで。

そして、キス、できるまで。
その一心だった。

「……だから、俺、ちゃんとーー」

最後まで言い切る前に、掴んだままの俺の腕が、ぐいっと引かれた。

「っ……!?」

視界がぶれた、と思った時にはーー強く、抱き寄せられていた。

「……っ、せんぱーー」

胸に押し付けられて、最後まで言葉が出ない。
心臓の音がぶつかるくらいに近くて、先輩なのか、自分なのか、わからない。
先輩の腕は思っていたよりずっと強くて、逃げることを許さない。

「意味、わかってるとか……調子乗んな」

押し殺したような先輩の声が、頭の上から落ちてくる。その声はいつもより荒かった。

「言ったよな?黙ってられないって」

「……っ」

何も言えない。
でも、このまま離れたくない。
ーー離されたくない。
その矛盾に、頭が追いつかない。

だったらもう、このまま。
そう思って先輩の背中に腕を回しかけた時、ふっと力が抜けた。

「……悪い」

そう言って先輩の方から体を離して、一歩距離を取った。

「……え」

どういうこと?
俺、もうこのまま先輩とーー

「教室……戻れ。チャイム鳴るぞ」

俺の思考を遮るように、先輩は呟いた。

「あ……はい」

先輩の体温が残ったままで、小さく返事をするのがやっとだった。

廊下から昼休みの終わりを告げるチャイムが聞こえてきて、現実に引き戻されるみたいに、空気が変わった。

腕の感触も、近くで響く声も、全部。
夢で見た時とは全く違って……胸の奥に残った熱ごと、夢よりもずっと、忘れられなくなる気がした。

***

教室の扉を開けた瞬間、ざわついた空気が一瞬だけ止まった気がした。

噂が流れてから、ずっとこうだ。
ひそひそした声も、視線も。
どうでもいい。

席に着いた瞬間に、さっきの感触が一気に蘇って、無意識に袖を握りしめた。

授業が始まっても何一つ頭に入ってこないし、先生の声も、周りのざわつきも、全てが遠い。

「……やばい」

違う、やばいどころじゃない。
あのまま、離れたくなかった。
むしろ、離されたことが嫌だった。

「春斗!さっきの国語のノートーー」

いつの間にか授業は終わっていて、聞き慣れた背後からの声に、びくっと肩が跳ねた。

秋人がいつもの調子で近づいて来たかと思えば、俺の顔を見た途端に動きを止める。

「……え、お前、なにその顔」

「秋人……俺、やばい」

「は?」

「……もう、無理かも」

「は?」

「我慢、できない」

俺の言葉に、秋人は一瞬ぽかんとしてから、すぐに眉をひそめた。

「どうせ、また先輩だろ」

「……」

見透かされたみたいで、言葉が出ない。

「お前さ、前も言ったけど」

少し声を落として、キョロキョロと周りを見回してから続けた。

「噂、だいぶ落ち着いてるんだぞ?これ以上ややこしくすんの、やめとけ」

わかってる。
秋人はいつも俺のために忠告してくれてる。

でも、抱き寄せられた距離も、温度も、全部。
知ってしまったから、忘れられないんだ。

「無理なんだよ……止めらんない」

秋人はしばらく黙って俺を見てから、深くため息をついた。

「俺は、先輩のことはもう相談乗れねえって。変わってねえからな」

「うん」

流れてる噂のように、俺の頭がおかしいだけなのかもしれない。
むしろ、そうかもって思う自分もいる。

「でももし、先輩も、俺と同じだったら……」

自分でも何を期待しているのかわからない。でも、あの抱き寄せられた一瞬。
離れたくないと思ったのは、俺だけじゃなかった気がした。