自分でもまだわからないうちに、勝手に口から出た言葉。
後悔しかけた時、先輩がゆっくり口を開いた。
「……透と一緒にすんな」
それって、どういう意味?
思考が追いつかないまま、固まる。
先輩は少し距離を詰めてきて、続けた。
「お前それ、なんで嫌なんだよ」
ーーなんで、って。
そんなの自分でもわからない。
真正面から見下ろされて、息を飲むことしかできない。
「……」
なにか言おうと思っても、何も出てこなかった。
言葉にしようとすればするほどぐちゃぐちゃになっていく。
そんな俺を急かすように、先輩の言葉は追い打ちのみたいに続く。
「ほら、言えよ」
「……っ」
視線だけが泳いで俯くだけの俺を見て、先輩は小さくため息を吐いた。
「もう真面目に仕事しろ」
なんで本間さんは名前で呼ばれているのか。なんでそれが嫌なのか。
生地を丸める手は動いていながら、頭ではそればかりがぐるぐるして、考えれば考えるほど、わからなくなっていく。
「それ終わったら、これ洗って待ってろ」
ふいに声をかけられて、はっと顔をあげる。先輩は次の作業の準備をしていた手を止めて、俺を見ていた。
「ちょっと足りねえのあるから取ってくる」
そう言ってエプロンで軽く手を拭きながら、出口の方へ歩き出す。
「……え」
今このタイミングで行く?
隣にいた先輩が少しでも離れてく事が、すごく遠く感じる。
「……っ」
気づいた時には指先が勝手に動いていた。伸ばした指先で、先輩の袖を掴む。
ーーえ。
先輩の足が止まった。
「……なんだよ」
振り返らないまま、小さくため息を吐く先輩。
なにって……俺が聞きたい。
なんで俺、今、先輩を掴んでいるんだ。
すぐに離せばいいのに、指は言うことを聞かない。
もしかして、俺。
ーー離れたく、ない?
いや、違うだろ。
そんなわけない。
なのに、否定の言葉が出てこない。
「……離れたくねえの?」
静かに落ちた先輩の一言に、ドキッとした。見透かされてるみたいで思考が止まる。
「ち、……ちがっ」
否定しようとしたけど、言いきれない。
これ以上何も言えないまま、ただ固まる。
数秒の沈黙の後、先輩が口を開いた。
「ほんと、わかりやすいな」
くすっと、喉の奥で笑って、そしてゆっくりと袖を掴んだ俺の指を外した。
「ほら、仕事しろ。二分で戻る」
「……はい」
小さく返事をして、再びボウルに手を伸ばした。
離れたくないって思った一瞬。
理由なんてわからないけど、先輩の袖を掴んだ感触が、ずっと残ってる。
……これ、なんなんだ。
***
扉が開く音に、びくっと肩が揺れた。
顔を上げると、材料の袋を両手に抱えてキッチンに入ってくる先輩。
そのまま自然な動きで作業台に立って、続きを始めた。
ーーほんとに、二分で戻ってきた。
ボウルを洗う手は動かしているのに、意識は全部隣にいる先輩に引っ張られていた。
水の音に紛れて、ちらっと横を見る。
さっきまでのやり取り全てが、まるで何もなかったみたいに、淡々と作業を続けている。
そんな先輩に声をかける勇気は出なくて、またちらっと見た瞬間。
「……お前、何回見んだよ」
「っ!?」
完全にバレてる。
慌てて視線を戻して、無言で手を動かす。
……あれ?
俺が洗っている水音以外の気配が、消えた。
「……え?」
先輩の方に視線を向けると、手を止めて、俺を見ている。
視線を逸らそうとしても逸らせない。
「お前さ、あれ、無意識?」
「え?」
「俺の袖、掴んだやつ」
ーーやばい。
言葉が、出てこない。
そんな俺を見透かしているみたいに、先輩の言葉は続く。
「……それとも、わざと?」
だって、あれは。
「……先輩が言ったから」
「あ?」
「キス、したくなるようにしてみろって……」
自分で言ったのに、言葉に詰まる。
「で?」
先輩の短い一言に、ますますわからなくなる。
「あ……でも、さっきのはほんとにわざとじゃなくてーー」
必死で言い訳をしようとした時、遮るように先輩の声が重なった。
「お前さ」
近くで響く声に顔を上げると、いつの間にか目の前に先輩がいて、思わず息を飲んだ。
「あんま調子乗ってっと、俺、そろそろ黙ってられないけど」
そう言ってまた一歩、距離を詰めてくる。反射的に後ずさろうとした時ーー腕を掴まれた。
「……っ!」
軽く触れられてるだけなのに、そこだけ熱を持っているような感覚。
掴んだ腕をぐっと引かれて、さらに距離が近づいた。
ーー近すぎる。
「こういうこと、してほしいんだろ?」
目の前に落ちた先輩の声に、頭が真っ白になるどころか、夢と重なる。
ーーやばい。
逃げたいのに、抵抗しきれない。
「ちょっ……せ、先輩」
名前を呼ぶだけで精一杯で、視線の置き場すらわからなくなる。
「違うの?」
そう言って試すように顔を近づけてくる先輩は……余裕、なの?
逃げたいのか、逃げたくないのか、自分でもわからない。
「……っわかんない、です」
「……だろうな」
掴まれていた腕が離されて、ふっと力が抜けていく。
先輩はふっと笑って続けた。
「そういうのはな……意味、わかってからやれ」
そう言って作業台に戻ると、再び手を動かし始めた。
腕に残ってる熱と、先輩の言葉がぐちゃぐちゃに混ざる。
ーー意味なんて、わかってる。
じゃあ、わかってやったら。
……先輩は、キスしてくれるの?
「それ、まだ終わんねえの?」
「あ、もう終わります」
先輩を横目に、俺も手を動かしてはいる。
でも、頭の中はさっきのことでいっぱいだった。


