***
登校した瞬間、ひそひそとした声が一斉に止まった。
その直後に、わざとらしく逸らされる視線。
周りの空気は最悪だった。
昨日の昼休み、先輩と一緒にいたところを見た誰かがまた掲示板に書き込んだんだろう。
でも、もう確認すらするつもりはなかった。
机に肘をついて考える。
"したくなるようにしてみろよ。俺を"
まずは、袖から。
「……先輩」
ーーいや、声かけてから引っ張るって変じゃないか?
「……無言で引く?」
ーーいや、怖いだろそれ。
「でも……タイミングはどうする?」
考えれば考えるほどわからなくなっていって、指先が自分の袖をつまんでいた。
「……いや、キモ……無理だろ、これ」
机に突っ伏しかけた時、頭上から声が降ってきた。
「お前、いつになったらまともに戻ってくれんだよ……」
秋人の声のトーンが少しだけ低くなった。
「またなんかあったろ」
「ないって」
さすがにそれ以上突っ込んでは来なかったけど、明らかに納得していない様子。
今日は、それどころじゃない。
視線は自然と時計に向かっていた。
あと、何時間?何分?
ーー早く、放課後になれ。
***
「なあ、春斗ーー」
「秋人ごめん、また明日!」
放課後のチャイムが聞こえて、こちらに向かって歩いてくる秋人にそれだけ伝えて急いで教室を出た。
そのまま足早にドーナツ屋へ向かった。
店の裏口に立った瞬間、なぜか少し緊張した。
ふうっと息を吐いてドアを開けると、甘い匂いが広がった。
「あ、春斗くん。おはよ」
制服に身を包んだ本間さんが笑顔で立っていた。
「本間さん、お久しぶりです」
「あはは、透でいいよ。それより春斗くん最近来ないから寂しかったんだけど?」
にこにこ笑いながら近づいてくる。
ふと、最後に出勤した日が、頭に浮かんだ。先輩とどんな関係ですか?
なんて、言えるはず、ない。
「せ、先輩の出勤日と同じなので」
「先輩、ねえ……」
くすっと笑って、今度は肩に軽く触れてきた。この人の距離感、苦手、かも。
後ずさろうと足を踏み出した時。
「おい」
店の奥から飛んできた声に、視線を向ける。
「慎也ほんとタイミング悪いなあ」
「うるせえよ」
やっぱこの二人……
なんて、考えてもわかるはずない。
今日俺は、先輩の袖を掴むんだ。
店の奥の水道で、手を洗っている先輩の背中が見える。
「い、今だ」
ゆっくり先輩に近づいていく度に、鼓動も速くなっていく。
あと、一歩。
袖に手を伸ばしかけた時、タイミングがわからなくなって止まる。
バランスを崩しそうで、その変な体勢のままで固まって動けない。
なんとか体勢を整えようと、もう一歩踏み出した瞬間、つるっと足が滑った。
ーーやばい。
「うわっ!?」
バランスを崩して、そのまま前に倒れ込むと、ドンッと鈍い音がした。
気づいた時にはもう遅かった。
思いっきり先輩の背中にぶつかっていた。
「……っ、てえな」
「す、すみません!!」
慌てて離れようとして、体勢が上手く整わないままアタフタしている俺。
そんな俺を、先輩はただじっと見ている。
「お前、なにしてんの」
わかりやすく大きなため息をついた。
「い、いや……その……」
先輩の袖を引っ張ろうとして転けました、なんて言えるわけない。
「……なに、近づいてきてんだよ」
呆れたように言われて、何も言葉が出てこないまま固まる。
「邪魔。どけ」
慌てて一歩さがると、先輩はカウンターの方に歩いて行った。
「……失敗、した」
しかも、怒られたんですけど!?
俺が下手なのか。
あの記事が嘘なのか。
でも。
「……次だ」
立ち止まってる暇はない。
「おい」
声の先に視線を向けると、歩いて行ったはずの先輩が奥から俺を見ていた。
「早く来いよ」
「あ、はい!」
慌てて後を追いかけながら、ふと違和感に気づく。
ーーあれ?
今日は先輩、いつもの店頭の制服じゃない。
エプロンは付けているが、いつもの格好とはまた少し違う。
そのまま案内されたのは、店のさらに奥。さっきまでいた場所とは別の、広めのキッチンだった。
甘い匂いと油の匂いが混ざった空気。
作業台が並んでいて、奥には大きなフライヤーも見える。
「今日は俺、店頭立たねえから」
「え?」
「透が立つ」
さらっと出た名前に、一瞬だけ意識が引っかかった。
「俺はこっちで調理。で、お前はその雑用」
そう言いながら、手際よくエプロンの紐を結び直す先輩。
ーーやっぱり、ドーナツは先輩が作ってたんだ。
「これ、丸めて形整えろ。大きさ均等な。雑だと弾くから」
「は……はい」
指で示された先には、大きなボウルと、並べられた生地。
ボウルの中の生地に手を入れると、ふわっと柔らかい感触が指にまとわりつく。
ちぎって、丸めて、並べる。
単純だけど、力加減が難しい。
「……むず」
小さく呟きながら、なんとか一つ目を置いた。
その横で、先輩は何も言わずに別の作業を始めている。
視線を向けるたびに、自然と目が追ってしまう。
透、か……。
当たり前のように名前で呼んでた。それに比べて、俺は。
ーーお前。
手元の生地を丸めながら考える。
呼び方が、引っかかる。
……二人の関係も。
気づいたら、口が動いていた。
「……俺のことも、名前で呼んで欲しいです」
言った瞬間、自分で何を言ったのか理解して手が止まる。
同時に、先輩の動きもぴたりと止まった。
「あ?」
低い声で呟いて、ゆっくりこちらに視線を向けた。
「お前はお前で十分だろ」
「やだ……」
ぽつりと漏れた言葉に、自分でも驚いた。
「は?なんだよ、いきなり」
呆れると同時に驚いたように俺を見る先輩。でも、なぜか引くことは出来なかった。
うまく説明なんて出来ない。
「だって……本間さんのことは、名前で呼んでる……」
登校した瞬間、ひそひそとした声が一斉に止まった。
その直後に、わざとらしく逸らされる視線。
周りの空気は最悪だった。
昨日の昼休み、先輩と一緒にいたところを見た誰かがまた掲示板に書き込んだんだろう。
でも、もう確認すらするつもりはなかった。
机に肘をついて考える。
"したくなるようにしてみろよ。俺を"
まずは、袖から。
「……先輩」
ーーいや、声かけてから引っ張るって変じゃないか?
「……無言で引く?」
ーーいや、怖いだろそれ。
「でも……タイミングはどうする?」
考えれば考えるほどわからなくなっていって、指先が自分の袖をつまんでいた。
「……いや、キモ……無理だろ、これ」
机に突っ伏しかけた時、頭上から声が降ってきた。
「お前、いつになったらまともに戻ってくれんだよ……」
秋人の声のトーンが少しだけ低くなった。
「またなんかあったろ」
「ないって」
さすがにそれ以上突っ込んでは来なかったけど、明らかに納得していない様子。
今日は、それどころじゃない。
視線は自然と時計に向かっていた。
あと、何時間?何分?
ーー早く、放課後になれ。
***
「なあ、春斗ーー」
「秋人ごめん、また明日!」
放課後のチャイムが聞こえて、こちらに向かって歩いてくる秋人にそれだけ伝えて急いで教室を出た。
そのまま足早にドーナツ屋へ向かった。
店の裏口に立った瞬間、なぜか少し緊張した。
ふうっと息を吐いてドアを開けると、甘い匂いが広がった。
「あ、春斗くん。おはよ」
制服に身を包んだ本間さんが笑顔で立っていた。
「本間さん、お久しぶりです」
「あはは、透でいいよ。それより春斗くん最近来ないから寂しかったんだけど?」
にこにこ笑いながら近づいてくる。
ふと、最後に出勤した日が、頭に浮かんだ。先輩とどんな関係ですか?
なんて、言えるはず、ない。
「せ、先輩の出勤日と同じなので」
「先輩、ねえ……」
くすっと笑って、今度は肩に軽く触れてきた。この人の距離感、苦手、かも。
後ずさろうと足を踏み出した時。
「おい」
店の奥から飛んできた声に、視線を向ける。
「慎也ほんとタイミング悪いなあ」
「うるせえよ」
やっぱこの二人……
なんて、考えてもわかるはずない。
今日俺は、先輩の袖を掴むんだ。
店の奥の水道で、手を洗っている先輩の背中が見える。
「い、今だ」
ゆっくり先輩に近づいていく度に、鼓動も速くなっていく。
あと、一歩。
袖に手を伸ばしかけた時、タイミングがわからなくなって止まる。
バランスを崩しそうで、その変な体勢のままで固まって動けない。
なんとか体勢を整えようと、もう一歩踏み出した瞬間、つるっと足が滑った。
ーーやばい。
「うわっ!?」
バランスを崩して、そのまま前に倒れ込むと、ドンッと鈍い音がした。
気づいた時にはもう遅かった。
思いっきり先輩の背中にぶつかっていた。
「……っ、てえな」
「す、すみません!!」
慌てて離れようとして、体勢が上手く整わないままアタフタしている俺。
そんな俺を、先輩はただじっと見ている。
「お前、なにしてんの」
わかりやすく大きなため息をついた。
「い、いや……その……」
先輩の袖を引っ張ろうとして転けました、なんて言えるわけない。
「……なに、近づいてきてんだよ」
呆れたように言われて、何も言葉が出てこないまま固まる。
「邪魔。どけ」
慌てて一歩さがると、先輩はカウンターの方に歩いて行った。
「……失敗、した」
しかも、怒られたんですけど!?
俺が下手なのか。
あの記事が嘘なのか。
でも。
「……次だ」
立ち止まってる暇はない。
「おい」
声の先に視線を向けると、歩いて行ったはずの先輩が奥から俺を見ていた。
「早く来いよ」
「あ、はい!」
慌てて後を追いかけながら、ふと違和感に気づく。
ーーあれ?
今日は先輩、いつもの店頭の制服じゃない。
エプロンは付けているが、いつもの格好とはまた少し違う。
そのまま案内されたのは、店のさらに奥。さっきまでいた場所とは別の、広めのキッチンだった。
甘い匂いと油の匂いが混ざった空気。
作業台が並んでいて、奥には大きなフライヤーも見える。
「今日は俺、店頭立たねえから」
「え?」
「透が立つ」
さらっと出た名前に、一瞬だけ意識が引っかかった。
「俺はこっちで調理。で、お前はその雑用」
そう言いながら、手際よくエプロンの紐を結び直す先輩。
ーーやっぱり、ドーナツは先輩が作ってたんだ。
「これ、丸めて形整えろ。大きさ均等な。雑だと弾くから」
「は……はい」
指で示された先には、大きなボウルと、並べられた生地。
ボウルの中の生地に手を入れると、ふわっと柔らかい感触が指にまとわりつく。
ちぎって、丸めて、並べる。
単純だけど、力加減が難しい。
「……むず」
小さく呟きながら、なんとか一つ目を置いた。
その横で、先輩は何も言わずに別の作業を始めている。
視線を向けるたびに、自然と目が追ってしまう。
透、か……。
当たり前のように名前で呼んでた。それに比べて、俺は。
ーーお前。
手元の生地を丸めながら考える。
呼び方が、引っかかる。
……二人の関係も。
気づいたら、口が動いていた。
「……俺のことも、名前で呼んで欲しいです」
言った瞬間、自分で何を言ったのか理解して手が止まる。
同時に、先輩の動きもぴたりと止まった。
「あ?」
低い声で呟いて、ゆっくりこちらに視線を向けた。
「お前はお前で十分だろ」
「やだ……」
ぽつりと漏れた言葉に、自分でも驚いた。
「は?なんだよ、いきなり」
呆れると同時に驚いたように俺を見る先輩。でも、なぜか引くことは出来なかった。
うまく説明なんて出来ない。
「だって……本間さんのことは、名前で呼んでる……」


