夢でキスした先輩は、俺にだけ毒を吐く王子様。

どれくらい時間が経ったのか、もうわからない。冷たい水に突っ込んだままの指先は、感覚が曖昧になっている。

"必ず終わらせます"
なんて言ったものの。

「……終わる気がしない」
このままだと、早く終わらせて、接客スマイルの先輩を拝みに行く予定が……でも。

「少しだけ…なら」

手を止めて、気づけば足が動いていた。
カウンターに近づくにつれて、女子たちがざわつく声が大きくなっていく。

そっと顔を出して覗くとーー
あの時と同じ完璧な王子様スマイルで淡々と、それでいて柔らかく接客している先輩。

「……やっぱ、完璧だ」

でも…なんか。
呆れた顔とか、毒を吐く時の低い声とか。
あれが、本当の柊木慎也なのかもしれない。
ーーあれは、俺しか知らない先輩なんだよな。

「…戻らないとっ」

小さく呟いてキッチンに戻った瞬間、背後から耳元に落ちる低い声に、びくっと体が跳ねた。

「おい」

いつの間にかすぐ後ろに立っていた先輩が、距離を詰めてくる。
洗い物の山は、確実に減ったが、まだ終わっていない。ーーやばい。

「お前さ、サボってたから終わってねえんじゃねーの」

「コソコソ俺を見るなって言っただろ」

……また、バレた。
でも、先輩と同じ空間にいて"見るな"なんて言われても俺にはできない。

「先輩を見て、やる気もらってたんです」

「……は?キモイ」

そんなの知ってる。
むしろもう、それでもいいと思っている自分がいる。
それより、この調理器具の山を片付けきれなかった事が悔しい。

「……すみません。間に合わなくて」

「まあ、一応使えなくはない」

ーーえ?それって。

「明日も来て、続きやれ」

そう言って、残りの皿やら調理器具を顎で指す先輩。
俺、嫌われてるわけじゃ、ない?
いや、先輩にとって俺はただの便利な雑用係なのかもしれない。
でもーー先輩の近くに置いてくれるだけで、十分だ。

「ありがとうございます!」

***

着替えて店の外に出た時には、時計はもう20時を回っていた。

「明日からは門で待たなくていい、勝手に来い。で、これ俺のシフト、来れる日はサポートに来い」

そう言って一枚の紙を差し出される。
受け取った紙を見ると、先輩のシフトが細かく書かれている。しかも、まだSNSには載っていない分まで。

「これ……いいんですか?」

「あ?お前、今更やめるとか言う気か?」

「ち、違いますっ!」

やめるはずない。
むしろその逆で、俺なんかが先輩に、こんなに近づいていいのか。という新たな不安が生まれた。

「あっそ。…じゃ、連絡先」

「へ?」

「連絡先だよ、ないと困んだろ」

そう言ってQRを俺に差し出す先輩。
ーーほんと、なんなんだこの展開。
微かにふるえる指で、QRを読み込んだ。

「じゃ、後でお前なんか送っとけ。あ、辞めるとか送ってきたら覚えとけよ」

そんなこと……

「送るわけないです!」

「あっそ。じゃ、帰るわ」

そう言って、紙袋を俺に押し付けて背を向けて歩き出した。

「ちょっ、先輩ーー」

俺の呼びかけに、足を止めることなく帰って行く先輩の背中を見送った。

「一緒には帰れない、か。」

そう言って先輩に押し付けられた紙袋の中を覗く。中には、三種類のドーナツ。キャラメル、いちご、チョコ。

……これ。
あの日、買ったドーナツと一緒じゃん。
覚えてたのか、ただおすすめだからなのかは、わからない。
ーーでも。

「……まじで……やばい」