一番遠い隣の席で、君と名前のない恋を綴る

放課後の図書室は、凪いだ海のように静かだった。
私は図書委員の当番で、カウンターに座って本の返却処理をしていた。分厚い眼鏡の奥で、バーコードリーダーの赤い光だけを見つめる。ここなら、マスクをして黙々と作業をしていても不自然じゃない。

不意に、入り口の引き戸がガラリと鳴った。
入ってきたのは、佐伯君だった。
「……あ、小夜さん。今日、当番なんだ」
心臓が不規則なリズムを刻む。私は小さく頷き、すぐに手元の名簿に目線を落とした。
佐伯君は私の隣の席に座るクラスの人気者だ。けれど、私のスマホの中にいるminatoさんではない。……そう、何度も自分に言い聞かせる。言い聞かせていないと、たまに佐伯君とminatoさんの面影がかぶってしまうから。
minatoさんは、もっと繊細で、思慮深くて、夜の静寂が似合う人だ。
目の前で、クラスの男子と笑いながらサッカーの話をしている佐伯君とは、名前が同じだけの別人。
そう思わなければ、私は彼と五分も同じ空気を吸っていられない。
「これ、返却。……あ、あとさ、この本探してるんだけど、どこにあるか分かる?」
彼が差し出したのは、古い星図の本だった。意外なチョイスに、私は思わず顔を上げる。
「……えっと、……こっち、です」
私は立ち上がり、書庫の奥へと彼を案内する。
狭い棚の間で、彼の肩と私の肩が触れそうになる。佐伯君から、微かに石鹸のような清潔な香りがした。
「小夜さんってさ、いつも図書室に居るよね。本、好きなの?」
「……はい。……静かなので」
「分かる。俺も、たまにこういう静かなところに来たくなるんだ。……誰にも言えないけどさ」
彼は少しだけ寂しそうに笑って、本を手に取った。
その横顔を見て、胸の奥がチリリと焼ける。
(……今、miantoさんが言いそうな言葉)
一瞬だけ頭をよぎった疑惑を、私は慌てて振り払う。
そんなはず、ない。佐伯君は学校の王子様で、私みたいな影の薄い女子に、夜な夜な悩み相談なんてするはずがないのだから。

その夜、自室で「夜」になった私は、指を震わせながらメッセージを打った。

夜:『今日、学校で好きな人と少しだけお話ししました。私、緊張しすぎて、変な顔してなかったかな……』

返信はすぐだった。

minato:『大丈夫。一生懸命話そうとしてくれる子のことを、変に思う奴なんていないよ。……実は俺も今日、図書室で隣の子と話したんだ。少しだけ、声が聞けて嬉しかった』

視界が、じわりと滲む。
minatoさんの言葉は、いつも私の欲しい言葉をくれる。
でも、minatoさんが話した「図書室で隣の子」が私であるはずがない。彼には彼の「図書室」があり、私は佐伯君にとっての「隣の席の女子」でしかないのだ。
私達は、お互いの正体を知らない。
ただ、暗闇の中で響き合う声だけを、本物だと信じている。