教室での私たちの距離は、わずか五センチ。
机と机が並ぶその隙間は、私にとっては断崖絶壁のように深く、遠い。
二時限目の授業中、私は必死にノートに写していた。分厚い眼鏡の奥で、黒板の文字が歪む。マスクの中にこもる自分の吐息が熱く、肌に張り付く感覚が不快だった。
「………あ」
ペンケースからシャーペンの芯を取り出そうとして、手が滑った。小さなケースが床に落ち、乾いた音を立てて佐伯君の足元まで転がっていく。
心臓が跳ねた。拾わなきゃ、と思うのに、体が硬直して動かない。
「はい、これ。小夜さん」
彼が指先でケースを拾い上げ、差し出してくれる。
「あ、……えっと……ありがとうございます……」
下を向いたまま、消え入りそうな声で答えるのが精一杯だった。彼はふっと目を細めて笑い、「いいよ、それくらい」と、壊れ物に触れるような優しい声で言った。
(……やめて、佐伯君)
その優しさが、今の私には何よりも痛い。
彼は知らない。隣に座るこの「根暗で地味な小夜」が、夜な夜なメイクで自分を飾り立て、ネットの海で承認欲求を満たしている、嘘つきな「夜」だということを。
彼が昨夜、スマホ越しに『夜ちゃんは、内面も外見も透き通っていて綺麗だね』と綴った相手が、目の前の、前髪で顔を隠した不審な女子だなんて、お互いに想像もしていない。
家に帰り、私は逃げるように眼鏡を外し、マスクを脱ぎ捨てた。
鏡に映るすっぴんの自分は、ひどく色あせて見えた。私は取り憑かれたようにパレットを広げ、肌に色を重ねていく。
ピコン、とスマホが鳴る。
minato:『今日、隣の子が少しだけこっちを見てくれたんだ。なんだがそれだけで、午後からの練習、頑張れた気がする。夜ちゃんのおかげかな』
スマホを握る指が、かすかに震えた。
………また、偶然だ。
minatoさんの周りにも、私のような「喋るのが苦手な子」がいるんだろうか。そして彼は、その子のことをこんなに温かく見守っているんだろうか。
夜:『その子、きっとすごく喜んでいると思いますよ。minatoさんの優しさは、ちゃんと届いています』
送信ボタンを押しながら、胸の奥がチリリと痛む。
私の隣の佐伯君も、今のminatoさんのように、私の返事を「嬉しい」と思ってくれただろうか。いや、そんなはずはない。
minatoさんの言葉に救われるたび、私は彼に会いたいと願ってしまう。
でも、もし私が普段は「地味で暗い女子」だと知ったら、miantoさんはきっと、今のような優しい言葉を撤回するだろう。
「……私は、嘘つきだ」
鏡の中の、綺麗に飾られた「夜」が私を嘲笑っている気がした。
佐伯君がくれる光と、minatoさんがくれる温もり。
そのどちらからも一番遠い場所に、本当の私は一人で立っていた。
机と机が並ぶその隙間は、私にとっては断崖絶壁のように深く、遠い。
二時限目の授業中、私は必死にノートに写していた。分厚い眼鏡の奥で、黒板の文字が歪む。マスクの中にこもる自分の吐息が熱く、肌に張り付く感覚が不快だった。
「………あ」
ペンケースからシャーペンの芯を取り出そうとして、手が滑った。小さなケースが床に落ち、乾いた音を立てて佐伯君の足元まで転がっていく。
心臓が跳ねた。拾わなきゃ、と思うのに、体が硬直して動かない。
「はい、これ。小夜さん」
彼が指先でケースを拾い上げ、差し出してくれる。
「あ、……えっと……ありがとうございます……」
下を向いたまま、消え入りそうな声で答えるのが精一杯だった。彼はふっと目を細めて笑い、「いいよ、それくらい」と、壊れ物に触れるような優しい声で言った。
(……やめて、佐伯君)
その優しさが、今の私には何よりも痛い。
彼は知らない。隣に座るこの「根暗で地味な小夜」が、夜な夜なメイクで自分を飾り立て、ネットの海で承認欲求を満たしている、嘘つきな「夜」だということを。
彼が昨夜、スマホ越しに『夜ちゃんは、内面も外見も透き通っていて綺麗だね』と綴った相手が、目の前の、前髪で顔を隠した不審な女子だなんて、お互いに想像もしていない。
家に帰り、私は逃げるように眼鏡を外し、マスクを脱ぎ捨てた。
鏡に映るすっぴんの自分は、ひどく色あせて見えた。私は取り憑かれたようにパレットを広げ、肌に色を重ねていく。
ピコン、とスマホが鳴る。
minato:『今日、隣の子が少しだけこっちを見てくれたんだ。なんだがそれだけで、午後からの練習、頑張れた気がする。夜ちゃんのおかげかな』
スマホを握る指が、かすかに震えた。
………また、偶然だ。
minatoさんの周りにも、私のような「喋るのが苦手な子」がいるんだろうか。そして彼は、その子のことをこんなに温かく見守っているんだろうか。
夜:『その子、きっとすごく喜んでいると思いますよ。minatoさんの優しさは、ちゃんと届いています』
送信ボタンを押しながら、胸の奥がチリリと痛む。
私の隣の佐伯君も、今のminatoさんのように、私の返事を「嬉しい」と思ってくれただろうか。いや、そんなはずはない。
minatoさんの言葉に救われるたび、私は彼に会いたいと願ってしまう。
でも、もし私が普段は「地味で暗い女子」だと知ったら、miantoさんはきっと、今のような優しい言葉を撤回するだろう。
「……私は、嘘つきだ」
鏡の中の、綺麗に飾られた「夜」が私を嘲笑っている気がした。
佐伯君がくれる光と、minatoさんがくれる温もり。
そのどちらからも一番遠い場所に、本当の私は一人で立っていた。

