一番遠い隣の席で、君と名前のない恋を綴る

翌朝、私は鏡の前に立っていた。
いつもなら顔の半分を隠す大きなマスクと、分厚い眼鏡。でも、今日の手元には、夜の静寂の中で私を支えてくれたパレットがある。
濃いメイクで自分を塗りつぶすんじゃない。
ほんの少しだけ、まつ毛を上向きにして、唇に淡い桜色の熱を灯す。
眼鏡を外した視界は、驚くほど鮮やかだった。
「………よし」
教室の扉を開けると、一瞬、ざわめきが止まった。
皆の視線が突き刺さる。でも、不思議と足は震えなかった。私は、私を隠すためにここにいるんじゃない。
自分の席へ向かうと、そこには既に佐伯君が座っていた。
彼は私を見た瞬間、目を見開き、それから今まで見たこともないような、柔らかくて眩しい笑顔を浮かべた。
「……おはよう、小夜。……すごく、綺麗だ」
初めて、さんをつけずに名前を呼ばれた。
私は頬が熱くなるのを感じながら、彼の隣に座る。
「おはよう、……湊君」
名前を呼び返すと、彼は少し驚いたあと、嬉しそうに顔を伏せて笑った。
私達はもう、スマホの画面を探る必要はない。
わずか五センチの距離。そこに、確かに彼がいて、私がいる。

授業中、机の下で、彼の手がそっと私の手に触れた。
指先が絡まり、熱が伝わってくる。
クラスのみんなには内緒の、でも世界で一番誇らしい、私たちの新しい関係。

放課後、私はスマホを取り出し、ずっとブロックしていた『minato』さんのアカウントを解除した。
そして、一通のメッセージを送る。

小夜:『隣の席に座ってくれて、ありがとう。大好きです』

目の前で、彼のスマホが微かに震える。
彼はそれを見て、悪戯っぽく笑いながら私の耳元で囁いた。

「俺の方が、ずっと前から大好きだよ。……夜も、昼も。君の全部」

窓の外に広がる青空は、どこまでも澄み渡っていた。
嘘つきだった私の夜は明け、今、光に満ちた本当の物語が始まった。