一番遠い隣の席で、君と名前のない恋を綴る

「………よし。これで、私じゃない私になれる」
自室の鏡の前で、私は小さく息を吐いた。
顔の半分を覆っていた白いマスクをゴミ箱に放り込み、度のない伊達眼鏡を机に置く。慣れた手つきで薄くリップを引き、薄いピンクのチークを塗る。唇と頬にほんのりと色が差すだけで、鏡の中にいるのは、クラスの誰にも見せたことがない「夜」という女の子だ。
スマホを手に取り、お気に入りの角度で自撮りをする。背景が写らないように、でも窓から差し込む月光が綺麗に入るように。
SNSにアップすると、数秒で通知が跳ねた。
『夜ちゃんの今日のメイク、透明感があって好き』
『その色、すごく似合ってるね』
見知らぬ誰かからの「可愛い」という言葉だけが、私の乾いた心に沁み込んでいく。
学校での私は、ただの「小夜」だ。誰とも目を合わせず、声も出さず、背景の一部として息を潜めている、地味でさえないモブキャラ。
でも、この画面の中だけは、私は一人の人間として存在を許されている気がした。

通知の中に、ひときわ胸を締め付ける名前を見つける。
minato:『今日の写真も綺麗だね。夜ちゃんは、夜の光が良く似合う』
minatoさん。
一年前から悩み相談に乗ってくれている、私の大切な理解者。
彼がどんな顔をして、どこで何をしている人なのかは知らない。けれど、彼の綴る優しくて真っ直ぐな言葉に、私は何度も救われてきた。
夜:『ありがとうございます。minatoさんは、今日はどんな一日でしたか?』
すぐに返信が届く。
minato:『最悪。隣の席の女子がずっと下向いててさ、一言もしゃべってくれなくて。俺、嫌われてんのかなってちょっと凹んだ(笑)』
指が止まる。
………奇遇だ。私の隣の席の男子も、クラスで一番の有名人で、私とは住む世界が違うキラキラした人だ。名前は、佐伯湊。
もちろん、彼はminatoさんじゃない。あんなに眩しくて自信に満ちた人が、こんな夜更けに私みたいな地味な子の相手をしているはずがないから。
夜:『きっと、その子は緊張しているだけですよ。minatoさんが眩しすぎるから』
送信ボタンを押しながら。私は胸の奥の痛みを無視した。
明日の朝になれば、私はまた。あの分厚い眼鏡とマスクという「鎧」を纏う。
一番近くにいるのに、宇宙で一番遠い「隣の席」へ戻るために。

翌朝、教室の空気は昨日と何も変わっていなかった。
私は八時十五分、予鈴の鳴る直前に教室へ入る。うつむき加減で自分の席に座り、カバンから教科書を取り出す。
ガタッ、と隣の椅子が鳴った。
「おはよう、小夜さん」
心臓が跳ねる。佐伯湊だ。
彼はいつものように、眩しいくらいの笑顔で私に挨拶を投げかけてくる。
私はマスクの下で唇をかみ、眼鏡の奥で視線を泳がせながら、蚊の鳴くような声で答える。
「……お、はよう……ございます」
それ以上、会話は続かない。彼はすぐに後ろの席の男子とサッカーの話を始めた。
私は、スマホの待ち受け画面に映る、昨夜の自分の写真をそっとなぞる。
隣にいる彼は、私の隣にいる女の子が、昨夜自分が『綺麗だね』と送った相手だとは、夢にも思っていない。
私達は、世界で一番近い場所で、一番遠い嘘をついている。