次の火曜日、紬が店に入ったとき、朝比奈はレジの奥で伝票を束ねていた。
窓際の席は空いている。前よりも迷いなくそこへ向かい、鞄を足元に置く。メニューを開く前に、一度だけ店内へ目をやると、朝比奈はちょうど顔を上げたところだった。目が合う。けれど、それだけだ。軽く顎を引くような、引かないような、曖昧な反応を残して、朝比奈はすぐに別の客の方へ向かった。
その何でもなさに、紬は少しだけ安心する。
前回、あんなふうに誕生日の話題に触れられてから、この店へ来るのをやめようかとも思った。けれど結局、火曜日の放課後になると足が勝手に駅前へ向いていた。来なければ気になるし、来たら来たで少し落ち着く。自分でも面倒な状態だと思う。
注文を済ませてしばらくすると、朝比奈が水差しを持ってテーブルの横に立った。
「氷、足りる?」
「大丈夫です」
「ん」
短いやり取り。
そのあとで、朝比奈のエプロンのポケットの中で、スマホが一度震えた。
ぶぶ、と短く鳴るような振動音。
朝比奈は手を止めなかった。隣の席の皿を下げ、厨房に声をかけ、別のテーブルへ伝票を運ぶ。けれど、ポケットの振動はそれで終わらなかった。
数分後、また一度。
さらに、そのあともう一度。
それだけなら、誰にでもある。
けれど三度目の振動が鳴ったとき、朝比奈はほんの一瞬だけ眉を寄せた。その表情はすぐ消えたが、紬にはそれが妙に目についた。
料理が届き、紬はスプーンを動かしながら、無意識のうちに通路の方を見ていた。朝比奈は相変わらず無駄のない動きで店内を回っている。忙しそうではあるが、慌てているようには見えない。なのにポケットの中のスマホだけが、彼の外側から勝手にせかしているみたいだった。
店内が少し落ち着いた頃、奥の席から「朝比奈くん、十分入っていいよ」と声がかかった。
朝比奈は短く「はい」と返し、テーブルの上の空いた皿を一度に二枚持ち上げて下げてから、手を洗い、ようやく紬の向かいの席へ来た。今日は紙コップではなく、小さなグラスに入ったアイスティーを持っている。座る前にポケットからスマホを出し、画面を見る。その数秒のあいだに、また一件通知が増えたらしかった。
「忙しそうですね」
思っていたより自然に声が出た。
朝比奈は視線を画面に落としたまま、「ん」とだけ返す。
「そんなに来るんですか、連絡」
「来るときは来る」
「友達、多いとか」
半分は冗談のつもりだった。
けれど朝比奈は顔を上げると、少しだけ目を細めた。
「その言い方だと、多くなさそうに聞こえる」
「……実際、多くなさそうだなって」
「失礼だな」
そう言いながらも、怒っている感じはなかった。朝比奈はスマホをテーブルの端に伏せて置く。黒い画面が、すぐにまた淡く震えた。
「友達じゃないですか」
「半分くらいは違う」
「半分?」
「店の連絡とか、家とか」
家。
その一言に、紬は少しだけ意外さを覚えた。朝比奈は学校では、家のことを匂わせるタイプには見えなかったからだ。ひとりで完結しているみたいな雰囲気がある。少なくとも、誰かに急かされる側ではなく、急かす側の人間に見えていた。
「家って……門限とかですか」
「いや」
朝比奈はグラスの縁に指をかけたまま、少しだけ首を振る。
「妹。今日は塾の日だから、終わったら連絡しろって言ってある」
「妹いるんですか」
「いる。中一」
さらりと言われて、紬は小さく瞬きをした。
中一の妹がいる朝比奈、というものを、頭の中でうまく想像できない。けれど、思い返せば朝比奈は子どもにフォークを渡すときも自然だった。ああいうのは、慣れている人の手つきだったのかもしれない。
「迎えに行くんですか」
「たまに。今日は母親が遅いから、たぶん俺」
「たぶん」
「まだ確定してない」
言ったそばからスマホがまた震える。朝比奈は画面を見て、短く息を吐いた。その息はため息と呼ぶには小さすぎたけれど、今までの無表情の下に、たしかに疲れがあるのだとわかる程度には重かった。
「何ですか」
「バイトの代打」
「今?」
「今」
朝比奈は画面を見たまま、親指で数文字だけ打ち込む。
その返信の速さが、断るための速さではなく、一度状況を確認するための速さに見えて、紬は何となく口を閉じた。
「断ればいいのに」
それでも、少ししてからそう言った。
朝比奈は顔を上げないまま、わずかに肩をすくめる。
「断れたら楽なんだけどな」
「断らないんですか」
「断るときもある」
「今日は?」
「今日はまだ考えてる」
言いながら、スマホを伏せる。その動きに、もう見ないで済ませたい感じが少しだけ滲んでいた。
紬はスプーンを置いた。
目の前の人は、学校ではもっと無言で、もっと近寄りがたい印象だった。話しかけにくいし、表情も読みにくい。だから、きっとひとりで完結できる人なのだと思っていた。人に頼られたとしても、簡単に受け流せる側の人間なのだと。
でも、そうじゃないのかもしれない。
「進路とかも、来るんですか」
聞くと、朝比奈は一瞬だけ「何が」と言いたげな顔をしてから、ああ、と小さく言った。
「たまに。先生から」
「まだ決めてないんですか」
「半分」
「半分って、便利ですね」
「便利だろ」
ようやく少しだけ笑う。
その笑いは、前に見たときよりもずっと薄く、でも本物だった。
「決めなきゃいけないのはわかってるんだけど、家のこともあるし」
「家のこと」
「金とか、妹とか」
そこまで言って、朝比奈は言いすぎたと思ったのかもしれない。アイスティーを一口飲んで、それ以上の説明はしなかった。
けれど、紬にはそれで十分だった。
朝比奈は人気者で連絡が多いわけじゃない。
頼られているだけだ。
しかも、自分からそうしたいわけではなく、断りきれずに引き受けているものが多いのだろう。店の中で無駄なく動いて見えるのも、慣れているからではなく、慣れざるを得なかったからかもしれない。
ポケットの中のスマホが、また一度だけ震えた。
「取らなくていいんですか」
紬が聞くと、朝比奈はテーブルの端の黒い画面を見た。
そのまま数秒、何も言わない。店内のざわめきが、そこだけ少し遠くなる。
「今はいい」
静かにそう言って、朝比奈は視線を紬の方へ戻した。
「瀬戸」
「……はい」
「さっきの、嫌なら忘れていいけど」
「さっきの?」
「誕生日の話」
紬は、反射的に背筋を少しだけこわばらせた。
朝比奈はそれに気づいたのか、すぐに続きを足す。
「別に、祝えって意味じゃない」
低い声だった。
押しつける感じはなかった。ただ、ちゃんと訂正しておこうと思った人の声だった。
「……はい」
紬は小さく返す。
何を返したいのか、自分でもよくわからない。
朝比奈はグラスの氷を軽く揺らした。からん、と乾いた音が鳴る。
「誕生日って」
そこで一度言葉を切る。考えているというより、自分の中からちょうどいい言い方を探しているみたいだった。
「うまく笑う日じゃなくていいだろ」
紬は何も言えなかった。
窓の外では、ロータリーにバスが滑り込んできていた。
店の中では誰かが料理名を読み上げ、奥で食器が触れ合う音がする。何も特別じゃない火曜の夕方だ。なのに、その一言だけが、やけに静かに胸の中へ落ちてきた。
朝比奈はそれ以上、説明しなかった。
スマホも、また震えた。けれど今度も取らないまま、朝比奈は「戻る」とだけ言って立ち上がる。
黒いエプロンの背中が、通路の向こうへ戻っていく。
紬はしばらくその背中を見ていた。
人気者でも、余裕のある大人でもない。
人のことばかり気にして、自分の分は少し後回しにしている。
そういう人なのかもしれない、と思う。
それは紬が思っていた“自分と違う側の人”の輪郭を、少しだけ崩した。
皿の上の料理は少し冷めていたが、紬はゆっくりとフォークを持ち直した。
窓際の席は空いている。前よりも迷いなくそこへ向かい、鞄を足元に置く。メニューを開く前に、一度だけ店内へ目をやると、朝比奈はちょうど顔を上げたところだった。目が合う。けれど、それだけだ。軽く顎を引くような、引かないような、曖昧な反応を残して、朝比奈はすぐに別の客の方へ向かった。
その何でもなさに、紬は少しだけ安心する。
前回、あんなふうに誕生日の話題に触れられてから、この店へ来るのをやめようかとも思った。けれど結局、火曜日の放課後になると足が勝手に駅前へ向いていた。来なければ気になるし、来たら来たで少し落ち着く。自分でも面倒な状態だと思う。
注文を済ませてしばらくすると、朝比奈が水差しを持ってテーブルの横に立った。
「氷、足りる?」
「大丈夫です」
「ん」
短いやり取り。
そのあとで、朝比奈のエプロンのポケットの中で、スマホが一度震えた。
ぶぶ、と短く鳴るような振動音。
朝比奈は手を止めなかった。隣の席の皿を下げ、厨房に声をかけ、別のテーブルへ伝票を運ぶ。けれど、ポケットの振動はそれで終わらなかった。
数分後、また一度。
さらに、そのあともう一度。
それだけなら、誰にでもある。
けれど三度目の振動が鳴ったとき、朝比奈はほんの一瞬だけ眉を寄せた。その表情はすぐ消えたが、紬にはそれが妙に目についた。
料理が届き、紬はスプーンを動かしながら、無意識のうちに通路の方を見ていた。朝比奈は相変わらず無駄のない動きで店内を回っている。忙しそうではあるが、慌てているようには見えない。なのにポケットの中のスマホだけが、彼の外側から勝手にせかしているみたいだった。
店内が少し落ち着いた頃、奥の席から「朝比奈くん、十分入っていいよ」と声がかかった。
朝比奈は短く「はい」と返し、テーブルの上の空いた皿を一度に二枚持ち上げて下げてから、手を洗い、ようやく紬の向かいの席へ来た。今日は紙コップではなく、小さなグラスに入ったアイスティーを持っている。座る前にポケットからスマホを出し、画面を見る。その数秒のあいだに、また一件通知が増えたらしかった。
「忙しそうですね」
思っていたより自然に声が出た。
朝比奈は視線を画面に落としたまま、「ん」とだけ返す。
「そんなに来るんですか、連絡」
「来るときは来る」
「友達、多いとか」
半分は冗談のつもりだった。
けれど朝比奈は顔を上げると、少しだけ目を細めた。
「その言い方だと、多くなさそうに聞こえる」
「……実際、多くなさそうだなって」
「失礼だな」
そう言いながらも、怒っている感じはなかった。朝比奈はスマホをテーブルの端に伏せて置く。黒い画面が、すぐにまた淡く震えた。
「友達じゃないですか」
「半分くらいは違う」
「半分?」
「店の連絡とか、家とか」
家。
その一言に、紬は少しだけ意外さを覚えた。朝比奈は学校では、家のことを匂わせるタイプには見えなかったからだ。ひとりで完結しているみたいな雰囲気がある。少なくとも、誰かに急かされる側ではなく、急かす側の人間に見えていた。
「家って……門限とかですか」
「いや」
朝比奈はグラスの縁に指をかけたまま、少しだけ首を振る。
「妹。今日は塾の日だから、終わったら連絡しろって言ってある」
「妹いるんですか」
「いる。中一」
さらりと言われて、紬は小さく瞬きをした。
中一の妹がいる朝比奈、というものを、頭の中でうまく想像できない。けれど、思い返せば朝比奈は子どもにフォークを渡すときも自然だった。ああいうのは、慣れている人の手つきだったのかもしれない。
「迎えに行くんですか」
「たまに。今日は母親が遅いから、たぶん俺」
「たぶん」
「まだ確定してない」
言ったそばからスマホがまた震える。朝比奈は画面を見て、短く息を吐いた。その息はため息と呼ぶには小さすぎたけれど、今までの無表情の下に、たしかに疲れがあるのだとわかる程度には重かった。
「何ですか」
「バイトの代打」
「今?」
「今」
朝比奈は画面を見たまま、親指で数文字だけ打ち込む。
その返信の速さが、断るための速さではなく、一度状況を確認するための速さに見えて、紬は何となく口を閉じた。
「断ればいいのに」
それでも、少ししてからそう言った。
朝比奈は顔を上げないまま、わずかに肩をすくめる。
「断れたら楽なんだけどな」
「断らないんですか」
「断るときもある」
「今日は?」
「今日はまだ考えてる」
言いながら、スマホを伏せる。その動きに、もう見ないで済ませたい感じが少しだけ滲んでいた。
紬はスプーンを置いた。
目の前の人は、学校ではもっと無言で、もっと近寄りがたい印象だった。話しかけにくいし、表情も読みにくい。だから、きっとひとりで完結できる人なのだと思っていた。人に頼られたとしても、簡単に受け流せる側の人間なのだと。
でも、そうじゃないのかもしれない。
「進路とかも、来るんですか」
聞くと、朝比奈は一瞬だけ「何が」と言いたげな顔をしてから、ああ、と小さく言った。
「たまに。先生から」
「まだ決めてないんですか」
「半分」
「半分って、便利ですね」
「便利だろ」
ようやく少しだけ笑う。
その笑いは、前に見たときよりもずっと薄く、でも本物だった。
「決めなきゃいけないのはわかってるんだけど、家のこともあるし」
「家のこと」
「金とか、妹とか」
そこまで言って、朝比奈は言いすぎたと思ったのかもしれない。アイスティーを一口飲んで、それ以上の説明はしなかった。
けれど、紬にはそれで十分だった。
朝比奈は人気者で連絡が多いわけじゃない。
頼られているだけだ。
しかも、自分からそうしたいわけではなく、断りきれずに引き受けているものが多いのだろう。店の中で無駄なく動いて見えるのも、慣れているからではなく、慣れざるを得なかったからかもしれない。
ポケットの中のスマホが、また一度だけ震えた。
「取らなくていいんですか」
紬が聞くと、朝比奈はテーブルの端の黒い画面を見た。
そのまま数秒、何も言わない。店内のざわめきが、そこだけ少し遠くなる。
「今はいい」
静かにそう言って、朝比奈は視線を紬の方へ戻した。
「瀬戸」
「……はい」
「さっきの、嫌なら忘れていいけど」
「さっきの?」
「誕生日の話」
紬は、反射的に背筋を少しだけこわばらせた。
朝比奈はそれに気づいたのか、すぐに続きを足す。
「別に、祝えって意味じゃない」
低い声だった。
押しつける感じはなかった。ただ、ちゃんと訂正しておこうと思った人の声だった。
「……はい」
紬は小さく返す。
何を返したいのか、自分でもよくわからない。
朝比奈はグラスの氷を軽く揺らした。からん、と乾いた音が鳴る。
「誕生日って」
そこで一度言葉を切る。考えているというより、自分の中からちょうどいい言い方を探しているみたいだった。
「うまく笑う日じゃなくていいだろ」
紬は何も言えなかった。
窓の外では、ロータリーにバスが滑り込んできていた。
店の中では誰かが料理名を読み上げ、奥で食器が触れ合う音がする。何も特別じゃない火曜の夕方だ。なのに、その一言だけが、やけに静かに胸の中へ落ちてきた。
朝比奈はそれ以上、説明しなかった。
スマホも、また震えた。けれど今度も取らないまま、朝比奈は「戻る」とだけ言って立ち上がる。
黒いエプロンの背中が、通路の向こうへ戻っていく。
紬はしばらくその背中を見ていた。
人気者でも、余裕のある大人でもない。
人のことばかり気にして、自分の分は少し後回しにしている。
そういう人なのかもしれない、と思う。
それは紬が思っていた“自分と違う側の人”の輪郭を、少しだけ崩した。
皿の上の料理は少し冷めていたが、紬はゆっくりとフォークを持ち直した。



