その日の帰り道、紬は駅前のコンビニに寄った。
目的があったわけではない。
ただ、まっすぐ家に帰るには、店内に残っていた拍手の音がまだ少し近すぎた。
自動ドアが開くと、冷えた空気と、揚げ物の油の匂いが混ざって流れてくる。棚の間をゆっくり歩きながら、紬は飲みもののコーナーで足を止めた。冷蔵ケースのガラスに、自分の顔がぼんやり映る。いつもと変わらない顔だ。少し無愛想で、少し眠そうで、放課後の疲れがそのまま残っている。
なのに、胸の奥だけが変にざわついていた。
誕生日、苦手?
朝比奈の声は、思い出しても低くて静かだった。
責めるでもなく、あわれむでもなく、ただ見えたことをそのまま聞いただけの声。だからこそ、紬には返しにくかった。
別に。
そう返したときの自分の声も思い出せる。少し硬くて、少し早かった。聞かれたくない場所に触れられたとき、人はあんなふうな声になるのだと、今さら自分で知る。
手ぶらでレジに向かうのもおかしい気がして、紬は適当に小さな紙パックのジュースを一本取った。苺ミルク。普段ならあまり買わない種類だ。甘すぎるとわかっているのに、なぜかその日は目に入った。
レジ横のスイーツ棚を、見ないようにしていたつもりだった。
けれど会計を待つ列に並んだ瞬間、すぐ横に並んだショートケーキとシュークリームの値札が視界に入る。期間限定、苺増量。春の終わりにしては少し大げさな文句がついていて、紬は思わず目を逸らした。
甘いものは嫌いじゃない。
むしろ好きだ。誰かと一緒なら、たぶん普通に食べる。
でも、ひとりでケーキを買って帰るのは少し違う。祝う相手が自分しかいないと、途端にそれは別の意味を持ち始める。
レジを済ませ、店を出る。ビニール袋の中で、細いストローがかさりと鳴った。
住宅街へ入るころには、夜の匂いが濃くなっていた。
見上げると、空は雲が薄く広がっていて、星はほとんど見えない。家々の窓にはあたたかな色の灯りがついている。玄関先に自転車が二台並んでいる家、二階の部屋だけが明るい家、カーテンの隙間からテレビの光が漏れている家。歩いているだけで、誰かの生活がそこにあるのがわかる。
紬は自分の家の前で立ち止まり、鍵を探した。
ポストの中に、チラシが二枚入っている。電気代の案内と、近所の学習塾の広告。チラシの隅に描かれた誕生日ケーキのイラストが目に入り、紬はそれを見なかったことにしてポストを閉じた。
玄関を開ける。
暗い。
いつものことだとわかっていても、最初の一歩だけは少しだけ冷たい。
「ただいま」
返事がないことを確認するためみたいな声になった。
靴を脱いで、廊下の電気をつける。白い光が壁紙を平たく照らし、人気のない台所の輪郭を浮かび上がらせた。母のメモはない。炊飯器のランプも消えたままだった。
自室へ行く前に、紬は冷蔵庫を開けた。夕飯の材料らしいものは入っているが、すぐ食べられるものはほとんどない。苺ミルクを取り出し、ストローを刺して一口飲む。思ったとおり甘かった。冷たさのあとから遅れてくるその甘さが、変に空っぽの胃にしみた。
ベッドに腰を下ろし、鞄を床へ置く。
スマホを出しても、通知は何も来ていない。
その静けさにほっとする自分と、どこかで何かを待ってしまう自分の両方がいて、紬は舌打ちしたい気分になった。
画面を伏せる。
けれど、意識の方は勝手に昔へ戻っていく。
小学校三年の誕生日。
その日は朝から少しだけ特別だった。
母が「今日は早く帰るから」と言って家を出て、紬は学校でそのことばかり考えていた。給食のミルメークがいつもよりおいしく感じたことまで覚えている。放課後、ランドセルを揺らして帰りながら、ケーキは苺だろうか、チョコだろうかと考えた。父が来ると言っていたから、もしかしたらプレゼントもあるのかもしれない。ゲームじゃなくてもいい。本でも、靴でも、父が自分のために選んだ何かが来るのだと思うだけで、その日の帰り道は少しだけ足が弾んだ。
家に帰ると、母は本当に早く帰っていて、テーブルの上には白い箱が置いてあった。
ケーキだ、とすぐにわかった。
箱の角に店の名前のシールが貼ってあって、透明なテープが少しだけ斜めになっていた。紬はそれを見て、「もう開けてもいい?」と聞いた。
母は笑って、「お父さん来てからにしようか」と言った。
その時点では、まだ何も疑っていなかった。
来ると言ったのだから来るのだと思っていた。電話でもそう言っていたし、母も何も言わなかったから。
制服を脱いで、少しきれいな服に着替えて、テレビをつけて待った。六時。六時半。七時。ニュース番組の時間になっても、まだインターホンは鳴らない。
母は何度か時計を見て、そのたびに「もう少しかな」と言った。
紬も「うん」と答えた。
ケーキの箱は、テーブルの真ん中に置かれたままだった。
開けてしまえば、それで始まってしまう気がした。父がいないまま始めるのは違う、と子どもなりに思っていた。
七時半を過ぎたころだった。
母が「先にご飯だけ食べる?」と聞いた。
紬は首を振った。
「待つ」
そう言った自分の声は、いま思い出しても妙に素直だった。疑うことも、怒ることもまだ知らない声だった。
母は少しだけ黙って、それから「そう」とだけ言った。
台所へ行って、何かを温めるのをやめたらしい音がした。
電話が鳴ったのは、そのあとずいぶん経ってからだった。
母が出る。短い相づちが二、三回。最後に「わかった」と言って切る。
その背中を、紬はソファから見ていた。
「今日、無理みたい」
母はそう言った。
困ったような、怒っているような、でもどちらにも決めきれない顔だった。
「仕事?」
紬はそう聞いた気がする。
たぶん聞いた。
母は「うん」と答えた。ほんとうだったのかどうか、今となってはわからない。わからないままなのが、いちばん嫌だった。
そのあと、ケーキは開けられた。
白いクリームに苺が乗っていて、ろうそくは三本だけ立てられた。母は「おめでとう」と言って笑った。ちゃんと笑おうとしていた。紬も「ありがとう」と答えた。
でも、火を吹き消す前から、もう何かが違っていた。
楽しみにしていたはずなのに、胸の真ん中に薄い膜が張ったみたいに、どの音も少し遠かった。ろうそくの火が揺れるのも、母が拍手してくれるのも、ケーキの甘い匂いも、全部少しだけ遅れて届いた。
あの日からだと思う。
誕生日を待つのをやめたのは。
正確には、待ってしまう自分を信用しなくなった。
また今度、と言われるたび、その“今度”を思い浮かべるのは自分だけで、相手はたぶんその場をやりすごすために言っている。そう気づいてから、紬は何かを楽しみにする前に、最初から期待しない方を選ぶようになった。誕生日は、そのための練習みたいな日になった。何も期待しない。何も待たない。そうすれば、来なくても平気でいられる。
ベッドの上で、紬は苺ミルクをもう一口飲んだ。ぬるくなりかけた甘さが、さっきよりも重たい。
朝比奈の「誕生日、苦手?」という声が、また思い出される。
苦手なんじゃない。
嫌いなんだと思う。
正確には、誕生日そのものじゃない。誕生日のたびに、少しだけ昔の自分が戻ってくるのが嫌なのだ。
待っていた自分。来ると信じていた自分。ケーキの箱を開けずに座っていた自分。あの子は、自分の中にまだいる。何年経っても、完全にはいなくならない。
だから祝われたくない。
おめでとうと言われるたび、その奥にいる“待っていた自分”まで一緒に起こされる気がするから。
紬は空になりかけた紙パックを机の上に置き、スマホを手に取った。画面は暗い。通知はない。父からも、母からも、誰からも。
その静けさに、やっぱり少しだけほっとする。
何も来ないなら、待たなくていい。
待たなくていいなら、傷つかなくて済む。
それが正しいことみたいに思いながら、紬は天井を見上げた。
正しいはずなのに、さっきファミレスで拍手が鳴ったとき、胸のどこかがかすかに疼いたことだけは、どうしてもなかったことにできなかった。
目的があったわけではない。
ただ、まっすぐ家に帰るには、店内に残っていた拍手の音がまだ少し近すぎた。
自動ドアが開くと、冷えた空気と、揚げ物の油の匂いが混ざって流れてくる。棚の間をゆっくり歩きながら、紬は飲みもののコーナーで足を止めた。冷蔵ケースのガラスに、自分の顔がぼんやり映る。いつもと変わらない顔だ。少し無愛想で、少し眠そうで、放課後の疲れがそのまま残っている。
なのに、胸の奥だけが変にざわついていた。
誕生日、苦手?
朝比奈の声は、思い出しても低くて静かだった。
責めるでもなく、あわれむでもなく、ただ見えたことをそのまま聞いただけの声。だからこそ、紬には返しにくかった。
別に。
そう返したときの自分の声も思い出せる。少し硬くて、少し早かった。聞かれたくない場所に触れられたとき、人はあんなふうな声になるのだと、今さら自分で知る。
手ぶらでレジに向かうのもおかしい気がして、紬は適当に小さな紙パックのジュースを一本取った。苺ミルク。普段ならあまり買わない種類だ。甘すぎるとわかっているのに、なぜかその日は目に入った。
レジ横のスイーツ棚を、見ないようにしていたつもりだった。
けれど会計を待つ列に並んだ瞬間、すぐ横に並んだショートケーキとシュークリームの値札が視界に入る。期間限定、苺増量。春の終わりにしては少し大げさな文句がついていて、紬は思わず目を逸らした。
甘いものは嫌いじゃない。
むしろ好きだ。誰かと一緒なら、たぶん普通に食べる。
でも、ひとりでケーキを買って帰るのは少し違う。祝う相手が自分しかいないと、途端にそれは別の意味を持ち始める。
レジを済ませ、店を出る。ビニール袋の中で、細いストローがかさりと鳴った。
住宅街へ入るころには、夜の匂いが濃くなっていた。
見上げると、空は雲が薄く広がっていて、星はほとんど見えない。家々の窓にはあたたかな色の灯りがついている。玄関先に自転車が二台並んでいる家、二階の部屋だけが明るい家、カーテンの隙間からテレビの光が漏れている家。歩いているだけで、誰かの生活がそこにあるのがわかる。
紬は自分の家の前で立ち止まり、鍵を探した。
ポストの中に、チラシが二枚入っている。電気代の案内と、近所の学習塾の広告。チラシの隅に描かれた誕生日ケーキのイラストが目に入り、紬はそれを見なかったことにしてポストを閉じた。
玄関を開ける。
暗い。
いつものことだとわかっていても、最初の一歩だけは少しだけ冷たい。
「ただいま」
返事がないことを確認するためみたいな声になった。
靴を脱いで、廊下の電気をつける。白い光が壁紙を平たく照らし、人気のない台所の輪郭を浮かび上がらせた。母のメモはない。炊飯器のランプも消えたままだった。
自室へ行く前に、紬は冷蔵庫を開けた。夕飯の材料らしいものは入っているが、すぐ食べられるものはほとんどない。苺ミルクを取り出し、ストローを刺して一口飲む。思ったとおり甘かった。冷たさのあとから遅れてくるその甘さが、変に空っぽの胃にしみた。
ベッドに腰を下ろし、鞄を床へ置く。
スマホを出しても、通知は何も来ていない。
その静けさにほっとする自分と、どこかで何かを待ってしまう自分の両方がいて、紬は舌打ちしたい気分になった。
画面を伏せる。
けれど、意識の方は勝手に昔へ戻っていく。
小学校三年の誕生日。
その日は朝から少しだけ特別だった。
母が「今日は早く帰るから」と言って家を出て、紬は学校でそのことばかり考えていた。給食のミルメークがいつもよりおいしく感じたことまで覚えている。放課後、ランドセルを揺らして帰りながら、ケーキは苺だろうか、チョコだろうかと考えた。父が来ると言っていたから、もしかしたらプレゼントもあるのかもしれない。ゲームじゃなくてもいい。本でも、靴でも、父が自分のために選んだ何かが来るのだと思うだけで、その日の帰り道は少しだけ足が弾んだ。
家に帰ると、母は本当に早く帰っていて、テーブルの上には白い箱が置いてあった。
ケーキだ、とすぐにわかった。
箱の角に店の名前のシールが貼ってあって、透明なテープが少しだけ斜めになっていた。紬はそれを見て、「もう開けてもいい?」と聞いた。
母は笑って、「お父さん来てからにしようか」と言った。
その時点では、まだ何も疑っていなかった。
来ると言ったのだから来るのだと思っていた。電話でもそう言っていたし、母も何も言わなかったから。
制服を脱いで、少しきれいな服に着替えて、テレビをつけて待った。六時。六時半。七時。ニュース番組の時間になっても、まだインターホンは鳴らない。
母は何度か時計を見て、そのたびに「もう少しかな」と言った。
紬も「うん」と答えた。
ケーキの箱は、テーブルの真ん中に置かれたままだった。
開けてしまえば、それで始まってしまう気がした。父がいないまま始めるのは違う、と子どもなりに思っていた。
七時半を過ぎたころだった。
母が「先にご飯だけ食べる?」と聞いた。
紬は首を振った。
「待つ」
そう言った自分の声は、いま思い出しても妙に素直だった。疑うことも、怒ることもまだ知らない声だった。
母は少しだけ黙って、それから「そう」とだけ言った。
台所へ行って、何かを温めるのをやめたらしい音がした。
電話が鳴ったのは、そのあとずいぶん経ってからだった。
母が出る。短い相づちが二、三回。最後に「わかった」と言って切る。
その背中を、紬はソファから見ていた。
「今日、無理みたい」
母はそう言った。
困ったような、怒っているような、でもどちらにも決めきれない顔だった。
「仕事?」
紬はそう聞いた気がする。
たぶん聞いた。
母は「うん」と答えた。ほんとうだったのかどうか、今となってはわからない。わからないままなのが、いちばん嫌だった。
そのあと、ケーキは開けられた。
白いクリームに苺が乗っていて、ろうそくは三本だけ立てられた。母は「おめでとう」と言って笑った。ちゃんと笑おうとしていた。紬も「ありがとう」と答えた。
でも、火を吹き消す前から、もう何かが違っていた。
楽しみにしていたはずなのに、胸の真ん中に薄い膜が張ったみたいに、どの音も少し遠かった。ろうそくの火が揺れるのも、母が拍手してくれるのも、ケーキの甘い匂いも、全部少しだけ遅れて届いた。
あの日からだと思う。
誕生日を待つのをやめたのは。
正確には、待ってしまう自分を信用しなくなった。
また今度、と言われるたび、その“今度”を思い浮かべるのは自分だけで、相手はたぶんその場をやりすごすために言っている。そう気づいてから、紬は何かを楽しみにする前に、最初から期待しない方を選ぶようになった。誕生日は、そのための練習みたいな日になった。何も期待しない。何も待たない。そうすれば、来なくても平気でいられる。
ベッドの上で、紬は苺ミルクをもう一口飲んだ。ぬるくなりかけた甘さが、さっきよりも重たい。
朝比奈の「誕生日、苦手?」という声が、また思い出される。
苦手なんじゃない。
嫌いなんだと思う。
正確には、誕生日そのものじゃない。誕生日のたびに、少しだけ昔の自分が戻ってくるのが嫌なのだ。
待っていた自分。来ると信じていた自分。ケーキの箱を開けずに座っていた自分。あの子は、自分の中にまだいる。何年経っても、完全にはいなくならない。
だから祝われたくない。
おめでとうと言われるたび、その奥にいる“待っていた自分”まで一緒に起こされる気がするから。
紬は空になりかけた紙パックを机の上に置き、スマホを手に取った。画面は暗い。通知はない。父からも、母からも、誰からも。
その静けさに、やっぱり少しだけほっとする。
何も来ないなら、待たなくていい。
待たなくていいなら、傷つかなくて済む。
それが正しいことみたいに思いながら、紬は天井を見上げた。
正しいはずなのに、さっきファミレスで拍手が鳴ったとき、胸のどこかがかすかに疼いたことだけは、どうしてもなかったことにできなかった。



