その日のファミレスは、いつもより少しだけ騒がしかった。
火曜の放課後。紬が店に入ったときには、すでに窓際の席は半分ほど埋まっていて、制服姿の高校生たちがドリンクバーのグラスを鳴らしていた。奥には買い物帰りらしい母娘がいて、入口近くには仕事終わりらしい男の人が一人で新聞を広げている。どの席にもそれぞれの時間があって、店の中全体が薄く温まっているような空気だった。
紬はいつもの席に案内され、鞄を足元に置いた。
今日は朝から、妙に落ち着かなかった。理由は自分でもわかっている。火曜日だからだ。
それだけのことを、認めるのはまだ少し癪だった。
水の入ったグラスが置かれる。
「どうぞ」
顔を上げると、朝比奈だった。
黒いエプロンの紐を背中で結び直したばかりらしく、いつもより少しだけ袖が乱れている。目が合うと、朝比奈はそれ以上何も言わずに視線を外した。紬も「どうも」と小さく返しただけで、メニューを開く。
何でもない。
今日も、たぶん、何でもないまま終わるのだろうと思った。
注文を済ませて、ドリンクバーを取りに立つ。氷を落とす音、炭酸が泡立つ音、遠くで誰かが笑う声。そういう細かな音に紛れて、今日は店内放送の音楽が少し大きく聞こえた。
席に戻る途中、ちょうど通路の向こうで朝比奈が小さな子どもにフォークを渡しているのが見えた。子どもはテーブルの下に落としてしまったらしく、母親が慌てたように頭を下げている。朝比奈は「大丈夫です」とだけ言って、しゃがんでテーブルの下を一度のぞき込み、それから新しいフォークを置いた。その動作がやけに自然で、紬は自分の席に戻ってからも、少しだけその場面を思い返していた。
食事が運ばれてきて、紬はひとくち目を口に運ぶ。
窓の外は、まだ完全には暗くなっていない。ロータリーに入ってくるバスの窓が白く光って、そのたび店のガラスにも小さな反射が走る。
ぼんやりその光を見ていたときだった。
店内の音楽が、不意に切り替わった。
明るく、少し安っぽい電子音のメロディ。
聞き覚えのある、あのバースデーソングだった。
紬の指先が止まる。
視線を上げると、通路の向こうで店員がデザート皿を持って歩いている。皿の上には小さな花火が立っていて、その火がぱちぱちとはじけていた。運ばれていく先の席では、制服姿の女子たちがすでに笑いながらスマホを構えている。
「え、やだ、ほんとに?」
「ちょっと待って、撮る撮る」
「おめでとー!」
拍手が起こる。
主役らしい女子が顔を赤くして笑う。隣の友達が肩を寄せる。誰かが「願いごとしなよ」と言って、また笑い声が重なる。
その音が、思ったより近くまで来た。
紬はナイフとフォークを持ったまま、少しだけ息を止めていた。
別に珍しいことじゃない。この店ではたまにある。前にも何度か見たことがある。そのたびに、うるさいとも、羨ましいとも思わないようにしてきた。ただやりすごせばいいだけだと、自分に言い聞かせてきた。
なのに、その日は妙に音が耳に残った。
おめでとう、という言葉だけが、店のざわめきから浮いて聞こえる。
祝われる人の顔を見ないようにして、紬は皿に視線を落とした。
けれど一度止まった手は、すぐには動かなかった。
「瀬戸」
低い声がして、紬ははっと顔を上げた。
朝比奈が、いつの間にかテーブルの横に立っていた。空いたグラスを下げに来たらしい。けれどその手はまだグラスには触れておらず、ほんのわずかに紬の様子をうかがっているように見えた。
「……何ですか」
自分でも少し硬い声だと思った。
朝比奈は一拍だけ置いてから、視線を店の奥へ向ける。まだバースデーソングは流れていて、拍手も続いている。
「誕生日、苦手?」
まっすぐな聞き方だった。
紬は一瞬、言葉に詰まる。
そんなことを聞かれると思っていなかった。しかも、からかうみたいな軽さも、慰めようとするやさしさもない。ただ、見えたことをそのまま口にしただけの声音だった。
「……別に」
出てきたのは、短いそれだけだった。
別に。
便利な言葉だと思う。否定にも肯定にもならなくて、相手を閉め出すにはちょうどいい。
朝比奈は少しだけ紬の顔を見た。何か言い足すのかと思ったが、結局それ以上は何も言わなかった。
「そう」
小さく返して、ようやくグラスを持ち上げる。氷が中でからんと鳴った。
それで終わりだった。
慰めの言葉もない。
「ごめん」とも、「無理に聞かないけど」とも言わない。
ただ、聞いて、答えを受け取って、それ以上踏み込まない。
朝比奈はそのまま次のテーブルへ向かっていった。途中で別の客に呼ばれ、いつもどおりの静かな声で応対している。店の中の一部に戻っただけなのに、紬にはその背中が少しだけ遠く見えた。
バースデーソングが終わる。
店内はまた元のざわめきに戻っていく。拍手も笑い声も、時間が経てばただの音になる。
紬はようやくフォークを持ち直した。
少し冷めた料理を口に運ぶ。味はよくわからなかったが、さっきよりはちゃんと飲み込める。
踏み込まれなかったことに、少しだけほっとする。
なのに同時に、ほんの少しだけ物足りないと思ってしまった自分に、紬は気づかないふりをした。
火曜の放課後。紬が店に入ったときには、すでに窓際の席は半分ほど埋まっていて、制服姿の高校生たちがドリンクバーのグラスを鳴らしていた。奥には買い物帰りらしい母娘がいて、入口近くには仕事終わりらしい男の人が一人で新聞を広げている。どの席にもそれぞれの時間があって、店の中全体が薄く温まっているような空気だった。
紬はいつもの席に案内され、鞄を足元に置いた。
今日は朝から、妙に落ち着かなかった。理由は自分でもわかっている。火曜日だからだ。
それだけのことを、認めるのはまだ少し癪だった。
水の入ったグラスが置かれる。
「どうぞ」
顔を上げると、朝比奈だった。
黒いエプロンの紐を背中で結び直したばかりらしく、いつもより少しだけ袖が乱れている。目が合うと、朝比奈はそれ以上何も言わずに視線を外した。紬も「どうも」と小さく返しただけで、メニューを開く。
何でもない。
今日も、たぶん、何でもないまま終わるのだろうと思った。
注文を済ませて、ドリンクバーを取りに立つ。氷を落とす音、炭酸が泡立つ音、遠くで誰かが笑う声。そういう細かな音に紛れて、今日は店内放送の音楽が少し大きく聞こえた。
席に戻る途中、ちょうど通路の向こうで朝比奈が小さな子どもにフォークを渡しているのが見えた。子どもはテーブルの下に落としてしまったらしく、母親が慌てたように頭を下げている。朝比奈は「大丈夫です」とだけ言って、しゃがんでテーブルの下を一度のぞき込み、それから新しいフォークを置いた。その動作がやけに自然で、紬は自分の席に戻ってからも、少しだけその場面を思い返していた。
食事が運ばれてきて、紬はひとくち目を口に運ぶ。
窓の外は、まだ完全には暗くなっていない。ロータリーに入ってくるバスの窓が白く光って、そのたび店のガラスにも小さな反射が走る。
ぼんやりその光を見ていたときだった。
店内の音楽が、不意に切り替わった。
明るく、少し安っぽい電子音のメロディ。
聞き覚えのある、あのバースデーソングだった。
紬の指先が止まる。
視線を上げると、通路の向こうで店員がデザート皿を持って歩いている。皿の上には小さな花火が立っていて、その火がぱちぱちとはじけていた。運ばれていく先の席では、制服姿の女子たちがすでに笑いながらスマホを構えている。
「え、やだ、ほんとに?」
「ちょっと待って、撮る撮る」
「おめでとー!」
拍手が起こる。
主役らしい女子が顔を赤くして笑う。隣の友達が肩を寄せる。誰かが「願いごとしなよ」と言って、また笑い声が重なる。
その音が、思ったより近くまで来た。
紬はナイフとフォークを持ったまま、少しだけ息を止めていた。
別に珍しいことじゃない。この店ではたまにある。前にも何度か見たことがある。そのたびに、うるさいとも、羨ましいとも思わないようにしてきた。ただやりすごせばいいだけだと、自分に言い聞かせてきた。
なのに、その日は妙に音が耳に残った。
おめでとう、という言葉だけが、店のざわめきから浮いて聞こえる。
祝われる人の顔を見ないようにして、紬は皿に視線を落とした。
けれど一度止まった手は、すぐには動かなかった。
「瀬戸」
低い声がして、紬ははっと顔を上げた。
朝比奈が、いつの間にかテーブルの横に立っていた。空いたグラスを下げに来たらしい。けれどその手はまだグラスには触れておらず、ほんのわずかに紬の様子をうかがっているように見えた。
「……何ですか」
自分でも少し硬い声だと思った。
朝比奈は一拍だけ置いてから、視線を店の奥へ向ける。まだバースデーソングは流れていて、拍手も続いている。
「誕生日、苦手?」
まっすぐな聞き方だった。
紬は一瞬、言葉に詰まる。
そんなことを聞かれると思っていなかった。しかも、からかうみたいな軽さも、慰めようとするやさしさもない。ただ、見えたことをそのまま口にしただけの声音だった。
「……別に」
出てきたのは、短いそれだけだった。
別に。
便利な言葉だと思う。否定にも肯定にもならなくて、相手を閉め出すにはちょうどいい。
朝比奈は少しだけ紬の顔を見た。何か言い足すのかと思ったが、結局それ以上は何も言わなかった。
「そう」
小さく返して、ようやくグラスを持ち上げる。氷が中でからんと鳴った。
それで終わりだった。
慰めの言葉もない。
「ごめん」とも、「無理に聞かないけど」とも言わない。
ただ、聞いて、答えを受け取って、それ以上踏み込まない。
朝比奈はそのまま次のテーブルへ向かっていった。途中で別の客に呼ばれ、いつもどおりの静かな声で応対している。店の中の一部に戻っただけなのに、紬にはその背中が少しだけ遠く見えた。
バースデーソングが終わる。
店内はまた元のざわめきに戻っていく。拍手も笑い声も、時間が経てばただの音になる。
紬はようやくフォークを持ち直した。
少し冷めた料理を口に運ぶ。味はよくわからなかったが、さっきよりはちゃんと飲み込める。
踏み込まれなかったことに、少しだけほっとする。
なのに同時に、ほんの少しだけ物足りないと思ってしまった自分に、紬は気づかないふりをした。



