帰りの電車に揺られながら、紬は何度も窓に映る自分の顔を見た。
笑っていたわけではない。たぶん。
けれど、口元の力が少しだけ抜けたままだった気がして、吊革につかまりながら、そっと視線を外す。
たかだか十分ほど話しただけだ。
しかも、特別なことは何もなかった。テストの話をして、店のことを少し聞いて、からかわれて、小さく笑った。それだけ。名前の呼び方ひとつまともに決められない、中途半端な会話だった。
なのに、家に帰って制服を脱いでいるときも、歯を磨いているときも、ふっとした拍子に思い出すのは、向かいの席に置かれていた紙コップだった。コーヒーの氷が鳴る音とか、朝比奈が「入ってる」と即答したときの、あの変に間のない返し方とか。
どうでもいいはずの細部だけが、妙に残る。
気のせいだと思いたかった。
ただ少し、普段より話しやすかっただけだ。学校の誰かと比べて特別とか、そういうことではない。そもそも、次があると決まったわけでもない。
そう思いながら、紬は火曜日の夜に限って、スマホを伏せるまでに少し時間がかかった。父からの連絡も、母からの帰宅メッセージもない画面は、相変わらず静かだった。それなのに、今日はその静けさがいつもより平らじゃない。何かひとつ、小さな音がまだ残っているみたいだった。
翌日。
水曜の放課後、紬は駅までの道をいつもよりゆっくり歩いた。
行こうと思えば、昨日と同じ店に寄れた。寄ってはいけない理由もない。
けれど、自動ドアの前まで行って、結局そのまま通り過ぎた。
昨日も行ったばかりなのに、今日まで行ったら、さすがに変だ。
朝比奈が毎日いるとも限らないし、いたとしても、昨日みたいに話すとは限らない。あれはたまたま休憩が重なっただけで、別に紬のために時間を作ったわけじゃない。そんなことを考えながら歩く自分が、もう少し変だということには気づかないふりをした。
駅前の交差点を渡る前に、ガラス張りの店内が少しだけ見えた。
窓際の席には、今日は大学生くらいの男女が座っている。通路の奥で黒いエプロンが動いていたけれど、それが朝比奈かどうかまではわからなかった。
わからないことに、わざわざ立ち止まって確かめたくなる自分が嫌で、紬は信号が青に変わる前から一歩踏み出しそうになった。
木曜日は雨が降った。
朝からずっと低い雲が垂れ込めていて、昼休みの校庭は濡れたコンクリートみたいな色をしていた。教室の窓ガラスに雨筋が伸びるのを見ながら、紬はぼんやり英単語帳をめくる。
目は文字を追っているのに、頭の隅では、雨の日のファミレスは少し静かそうだ、などと思ってしまう。音が全部、窓の外に吸われていくから。そういう日は、朝比奈の低い声が少しだけ聞きやすいのかもしれない、と思ったところで、何を考えているんだと自分で自分を止めた。
放課後、クラスの男子が「瀬戸、駅まで傘入る?」と声をかけてきた。
紬は「大丈夫」と断って、自分のビニール傘を開いた。
一人で歩く帰り道は、雨の日のほうがかえって楽だった。周囲の景色が少し曖昧になる。みんなそれぞれの傘の内側に閉じこもっていて、誰とも目が合わない。
その気楽さの中で、紬はまた駅前の店の前を通った。今日も寄らない。寄らないまま通り過ぎる。そのことに、妙にきちんと意味を持たせてしまう自分がいた。
金曜日の朝、登校中にコンビニへ寄ると、レジ横のケースに小さなデザートが並んでいた。新作、と書かれた札が目に入る。
甘いものは嫌いじゃない。むしろ好きだ。けれど、自分で買うほどでもない。そう思って通り過ぎようとしたのに、昨日の「顔、そうでもない」という声が思い出されて、紬は少しだけ足を止めた。結局買わなかった。ただ、自分でも知らないところを見透かされた気がして、それが面白くないのに、なぜか少しだけ可笑しかった。
土日は、思ったより早く終わった。
土曜は母が仕事で、家に一人だった。洗濯機を回して、レポートの残りを片づけて、午後には参考書を開いた。窓を開けると、近所の子どもの声が聞こえる。何でもない休日だ。
それでも、スマホを見るたび、無意識に曜日表示が目に入る。土曜日。まだ三日ある。
そんなふうに数えてしまった瞬間、紬は自分でも少し呆れた。
日曜の夜、母が珍しく早く帰ってきて、「明日お弁当いる?」と台所から聞いた。
「いる」
「卵焼きでいい?」
「うん」
それだけの会話をして、紬は自室に戻る。普通のやりとり。普通の家。
なのに、胸のどこかでは別の普通を待っている。来週の火曜の、あの窓際の席と、紙コップの氷の音と、短い声のやりとり。そんなものを待つ理由はないはずなのに、待っていると認めるのは少しだけ癪だった。
月曜は長かった。
一時間目から眠くて、二時間目は体育で、三時間目の途中から空が晴れた。昼休みには、クラスの女子が誰かの誕生日プレゼントの話をしていて、紬は聞かないふりをしながら、窓の外ばかり見ていた。
放課後、駅までの道を歩いても、今日は店の方を見ないようにした。明日だ、と自分の中で何度も言う。明日行けばいい。今日は行かない。今日まで行ったら、本当に待っていたみたいだから。
けれど、その「明日」を意識している時点で、もう十分待っているのだと、紬は薄々気づいていた。
火曜の朝。
目が覚めて最初に確認したのが時間だったことに、紬は布団の中で小さく眉を寄せた。遅刻しそうな時刻ではない。むしろいつもより少し早い。なのに、起き上がる前から頭のどこかが、今日の放課後までの長さを測っている。
制服に着替え、顔を洗い、台所で母の作った卵焼きをひとつ口に入れる。甘さが少し強い。
ふと、試作、と言って差し出された一口分のデザートを思い出して、紬はすぐに水を飲んだ。
学校へ向かう道でも、ホームで電車を待つ間でも、授業が始まる前でも、時計を見る回数が多い。
自分で自分に驚く。別に、約束があるわけじゃない。今日行ったところで、朝比奈が休憩に入るとは限らないし、話せる保証もない。もしかしたら、先週のことなんて向こうは大して覚えていないかもしれない。
それでも、火曜日だというだけで、放課後の輪郭がいつもより少し明るく見えた。
紬は教室の時計を見上げてから、すぐに視線をノートへ戻す。
まだ一時間目も始まったばかりなのに、今日が終わるのを少しだけ待っている自分に、どうしても慣れなかった。
笑っていたわけではない。たぶん。
けれど、口元の力が少しだけ抜けたままだった気がして、吊革につかまりながら、そっと視線を外す。
たかだか十分ほど話しただけだ。
しかも、特別なことは何もなかった。テストの話をして、店のことを少し聞いて、からかわれて、小さく笑った。それだけ。名前の呼び方ひとつまともに決められない、中途半端な会話だった。
なのに、家に帰って制服を脱いでいるときも、歯を磨いているときも、ふっとした拍子に思い出すのは、向かいの席に置かれていた紙コップだった。コーヒーの氷が鳴る音とか、朝比奈が「入ってる」と即答したときの、あの変に間のない返し方とか。
どうでもいいはずの細部だけが、妙に残る。
気のせいだと思いたかった。
ただ少し、普段より話しやすかっただけだ。学校の誰かと比べて特別とか、そういうことではない。そもそも、次があると決まったわけでもない。
そう思いながら、紬は火曜日の夜に限って、スマホを伏せるまでに少し時間がかかった。父からの連絡も、母からの帰宅メッセージもない画面は、相変わらず静かだった。それなのに、今日はその静けさがいつもより平らじゃない。何かひとつ、小さな音がまだ残っているみたいだった。
翌日。
水曜の放課後、紬は駅までの道をいつもよりゆっくり歩いた。
行こうと思えば、昨日と同じ店に寄れた。寄ってはいけない理由もない。
けれど、自動ドアの前まで行って、結局そのまま通り過ぎた。
昨日も行ったばかりなのに、今日まで行ったら、さすがに変だ。
朝比奈が毎日いるとも限らないし、いたとしても、昨日みたいに話すとは限らない。あれはたまたま休憩が重なっただけで、別に紬のために時間を作ったわけじゃない。そんなことを考えながら歩く自分が、もう少し変だということには気づかないふりをした。
駅前の交差点を渡る前に、ガラス張りの店内が少しだけ見えた。
窓際の席には、今日は大学生くらいの男女が座っている。通路の奥で黒いエプロンが動いていたけれど、それが朝比奈かどうかまではわからなかった。
わからないことに、わざわざ立ち止まって確かめたくなる自分が嫌で、紬は信号が青に変わる前から一歩踏み出しそうになった。
木曜日は雨が降った。
朝からずっと低い雲が垂れ込めていて、昼休みの校庭は濡れたコンクリートみたいな色をしていた。教室の窓ガラスに雨筋が伸びるのを見ながら、紬はぼんやり英単語帳をめくる。
目は文字を追っているのに、頭の隅では、雨の日のファミレスは少し静かそうだ、などと思ってしまう。音が全部、窓の外に吸われていくから。そういう日は、朝比奈の低い声が少しだけ聞きやすいのかもしれない、と思ったところで、何を考えているんだと自分で自分を止めた。
放課後、クラスの男子が「瀬戸、駅まで傘入る?」と声をかけてきた。
紬は「大丈夫」と断って、自分のビニール傘を開いた。
一人で歩く帰り道は、雨の日のほうがかえって楽だった。周囲の景色が少し曖昧になる。みんなそれぞれの傘の内側に閉じこもっていて、誰とも目が合わない。
その気楽さの中で、紬はまた駅前の店の前を通った。今日も寄らない。寄らないまま通り過ぎる。そのことに、妙にきちんと意味を持たせてしまう自分がいた。
金曜日の朝、登校中にコンビニへ寄ると、レジ横のケースに小さなデザートが並んでいた。新作、と書かれた札が目に入る。
甘いものは嫌いじゃない。むしろ好きだ。けれど、自分で買うほどでもない。そう思って通り過ぎようとしたのに、昨日の「顔、そうでもない」という声が思い出されて、紬は少しだけ足を止めた。結局買わなかった。ただ、自分でも知らないところを見透かされた気がして、それが面白くないのに、なぜか少しだけ可笑しかった。
土日は、思ったより早く終わった。
土曜は母が仕事で、家に一人だった。洗濯機を回して、レポートの残りを片づけて、午後には参考書を開いた。窓を開けると、近所の子どもの声が聞こえる。何でもない休日だ。
それでも、スマホを見るたび、無意識に曜日表示が目に入る。土曜日。まだ三日ある。
そんなふうに数えてしまった瞬間、紬は自分でも少し呆れた。
日曜の夜、母が珍しく早く帰ってきて、「明日お弁当いる?」と台所から聞いた。
「いる」
「卵焼きでいい?」
「うん」
それだけの会話をして、紬は自室に戻る。普通のやりとり。普通の家。
なのに、胸のどこかでは別の普通を待っている。来週の火曜の、あの窓際の席と、紙コップの氷の音と、短い声のやりとり。そんなものを待つ理由はないはずなのに、待っていると認めるのは少しだけ癪だった。
月曜は長かった。
一時間目から眠くて、二時間目は体育で、三時間目の途中から空が晴れた。昼休みには、クラスの女子が誰かの誕生日プレゼントの話をしていて、紬は聞かないふりをしながら、窓の外ばかり見ていた。
放課後、駅までの道を歩いても、今日は店の方を見ないようにした。明日だ、と自分の中で何度も言う。明日行けばいい。今日は行かない。今日まで行ったら、本当に待っていたみたいだから。
けれど、その「明日」を意識している時点で、もう十分待っているのだと、紬は薄々気づいていた。
火曜の朝。
目が覚めて最初に確認したのが時間だったことに、紬は布団の中で小さく眉を寄せた。遅刻しそうな時刻ではない。むしろいつもより少し早い。なのに、起き上がる前から頭のどこかが、今日の放課後までの長さを測っている。
制服に着替え、顔を洗い、台所で母の作った卵焼きをひとつ口に入れる。甘さが少し強い。
ふと、試作、と言って差し出された一口分のデザートを思い出して、紬はすぐに水を飲んだ。
学校へ向かう道でも、ホームで電車を待つ間でも、授業が始まる前でも、時計を見る回数が多い。
自分で自分に驚く。別に、約束があるわけじゃない。今日行ったところで、朝比奈が休憩に入るとは限らないし、話せる保証もない。もしかしたら、先週のことなんて向こうは大して覚えていないかもしれない。
それでも、火曜日だというだけで、放課後の輪郭がいつもより少し明るく見えた。
紬は教室の時計を見上げてから、すぐに視線をノートへ戻す。
まだ一時間目も始まったばかりなのに、今日が終わるのを少しだけ待っている自分に、どうしても慣れなかった。



