軽食が運ばれてきてからしばらく、紬はひとりでゆっくり食べていた。
窓の外のロータリーには、塾へ向かうらしい小学生の列が増えはじめている。店内はさっきより少し落ち着いて、テーブル同士の話し声にも隙間ができた。制服姿の客はまだ多いが、入れ替わるように仕事帰りの大人も目立ち始めている。
ハンバーグを半分ほど食べたところで、通路の向こうから小さな声が聞こえた。
「朝比奈くん、十分いいよ」
顔を上げると、ホールの奥で年上のパートらしい女性が、レジ横に立つ朝比奈に声をかけていた。朝比奈は短く「はい」と返し、伝票の束をまとめてから、エプロンのポケットに手を入れた。名札を外したわけではないが、動きがほんの少しだけゆるむ。
休憩なのだと、紬はそこで知った。
別に意識して見ていたわけではない。そう思いながら視線を皿に戻したものの、足音が近づいてくる気配には気づいてしまう。通路の端で一度止まった足が、こちらへ向き直った。
「ここ、いい?」
顔を上げる。
朝比奈が、紙コップに入ったアイスコーヒーを片手に立っていた。
紬は一瞬だけ言葉に詰まった。空いている席はいくらでもある。なのに、わざわざここに来る意味を考えてしまって、頭の中が少し遅れる。
「……別に」
可もなく不可もない返事になった。
朝比奈はそれを断りとは取らなかったらしく、「ん」とだけ言って向かいの席に座った。椅子を引く音も小さい。制服の上からエプロンをつけているせいで、学校で見かけるときより少しだけ年上に見えた。
テーブルの上にコップを置く。氷がかすかに鳴った。
それきり、朝比奈はすぐには何も言わなかった。
紬も、何を言えばいいのかわからない。
この沈黙は気まずいはずなのに、不思議と息苦しくはなかった。向かいに誰かがいるのに、会話を急がなくていい空気が、思っていたより楽だった。
先に口を開いたのは朝比奈だった。
「テスト近い?」
「……来週です」
「二年、もうそんな時期か」
「三年はもっと早いんですか」
「早いのもあるし、多い」
短く答えて、朝比奈はコーヒーをひとくち飲んだ。
それで終わりかと思ったが、少ししてから付け足す。
「でも、勉強してる顔して長居するやつ、だいたい本読んでるか寝てる」
紬は思わず顔を上げた。
「店員目線ですね」
「店員だからな」
「身も蓋もない」
口にしてから、少しだけ言いすぎたかと思った。だが朝比奈は気を悪くした様子もなく、ほんの一瞬だけ目元をゆるめた。
「ここ、学生多いからわかる」
「わかるって?」
「追い込みの時期だけ急に真面目そうな顔になる」
「それ、たぶん僕も入ってます」
「入ってる」
即答されて、紬はわずかに眉を寄せた。
「ひどい」
「でも今日はまだまし」
「まだ?」
「今のところ、参考書出してないから」
その言い方があまりにも淡々としていて、紬はこらえきれず小さく笑った。
声に出して笑うつもりはなかったのに、喉の奥でふっと空気が漏れた。自分の出した音に、自分で少し驚く。
朝比奈はそれを聞いても何も言わなかった。ただ、グラスの縁に指をかけたまま、少しだけ視線をやわらげる。
「朝比奈先輩は」
紬は言いかけてから、呼び方がそれで合っているのか少し迷った。
「……ずっとここでバイトしてるんですか」
「先輩いらない」
「え」
「店でまでそう呼ばれると変な感じする」
そう言ってから、「まあ好きにすればいいけど」と小さく付け足す。
紬は曖昧にうなずいた。
「じゃあ、朝比奈さん」
「それも変」
「注文多くないですか」
「瀬戸でいい」
自分の名前を呼ばれて、紬は少しだけ黙った。
名字を知られていること自体は別に不思議じゃない。同じ学校なのだから。けれど、教室で呼ばれるのとは違う響き方をした。店のざわめきの中で、そこだけ少し近く聞こえる。
「……朝比奈、さんで」
「頑固」
「そっちが言ったんじゃないですか」
「言ったかも」
そこで会話が途切れる。
沈黙はやはり訪れるのに、気まずくはならない。朝比奈が無理に次の話題を探さないからだと、紬はそのとき初めて気づいた。沈黙を埋めようとして、どうでもいいことを重ねる人は多い。でも向かいに座るこの人は、話さない時間を話さないまま置いておけるらしい。
紬は箸を置き、水を飲んだ。
「ファミレス、よく来るんだな」
それも、朝比奈の声は探るようではなかった。ただ、事実を確認するような調子だった。
「……たまにです」
「たまににしては慣れてる」
返す言葉を一瞬失う。
窓際の席に迷わず座ったことも、注文に時間がかからないことも、きっと見ていればわかるのだろう。見られていた、と言うほどではない。けれど、ちゃんと目に入っていたのだと思うと落ち着かない。
「朝比奈さんこそ」
「ん?」
「ここ、似合ってますね」
気づけばそう言っていた。
自分でも妙なことを言ったと思う。けれど、学校で廊下を歩くときの少し近寄りがたい感じより、店の中で動いているときの方が、ずっと自然に見えたのは本当だった。
朝比奈は一度まばたきをして、それから少しだけ口元を動かした。笑った、と言えるほど大きくはない。でも、無表情ではなくなった。
「それ、褒めてる?」
「……たぶん」
「曖昧だな」
「自信ないので」
「自信なく言うことじゃないだろ」
紬はまた少し笑ってしまう。
その笑いのあと、自分の肩が思っていたより軽いことに気づく。学校で誰かと話していても、こういうふうに力が抜けることはあまりない。相手の反応を読みすぎなくていい会話は、こんなに楽だっただろうかと思う。
朝比奈がコーヒーを飲みきって、氷の溶けた音を鳴らした。
そのタイミングで、ホールの方から「朝比奈くん、お願いします」と声が飛ぶ。
「はい」
朝比奈は立ち上がりかけて、ふと紬のトレーを見た。
「食べるの遅いな」
「普通です」
「そうか?」
「急いでないだけです」
「そっか」
たったそれだけのやりとりなのに、からかわれた感じはしなかった。急かされてもいない。朝比奈は空のコップを持って立ち上がると、椅子を戻してから一歩下がった。
「じゃ、戻る」
「……どうぞ」
もっと気の利いた返事があった気がする。けれど、朝比奈はそれを気にした様子もなく、そのままホールの方へ戻っていった。エプロンの紐を軽く引き直し、また店の中の動きに溶けていく。
紬は向かいの空いた席をしばらく見ていた。
ほんの十分かそこらだったはずなのに、店の空気が少し変わったような気がする。さっきまで一人で座っていた窓際席が、今はさっきと同じ形には見えない。
残っていたハンバーグをひとくち食べる。少し冷めているのに、なぜか前より味がした。
窓の外では、ロータリーに入ってきたバスのヘッドライトが白く光っている。
店内では皿の触れ合う音と、低い話し声と、ドリンクバーの機械音がいつもどおり混ざっていた。何も特別じゃないはずなのに、紬の中では、火曜日の輪郭だけが少しはっきりした。
窓の外のロータリーには、塾へ向かうらしい小学生の列が増えはじめている。店内はさっきより少し落ち着いて、テーブル同士の話し声にも隙間ができた。制服姿の客はまだ多いが、入れ替わるように仕事帰りの大人も目立ち始めている。
ハンバーグを半分ほど食べたところで、通路の向こうから小さな声が聞こえた。
「朝比奈くん、十分いいよ」
顔を上げると、ホールの奥で年上のパートらしい女性が、レジ横に立つ朝比奈に声をかけていた。朝比奈は短く「はい」と返し、伝票の束をまとめてから、エプロンのポケットに手を入れた。名札を外したわけではないが、動きがほんの少しだけゆるむ。
休憩なのだと、紬はそこで知った。
別に意識して見ていたわけではない。そう思いながら視線を皿に戻したものの、足音が近づいてくる気配には気づいてしまう。通路の端で一度止まった足が、こちらへ向き直った。
「ここ、いい?」
顔を上げる。
朝比奈が、紙コップに入ったアイスコーヒーを片手に立っていた。
紬は一瞬だけ言葉に詰まった。空いている席はいくらでもある。なのに、わざわざここに来る意味を考えてしまって、頭の中が少し遅れる。
「……別に」
可もなく不可もない返事になった。
朝比奈はそれを断りとは取らなかったらしく、「ん」とだけ言って向かいの席に座った。椅子を引く音も小さい。制服の上からエプロンをつけているせいで、学校で見かけるときより少しだけ年上に見えた。
テーブルの上にコップを置く。氷がかすかに鳴った。
それきり、朝比奈はすぐには何も言わなかった。
紬も、何を言えばいいのかわからない。
この沈黙は気まずいはずなのに、不思議と息苦しくはなかった。向かいに誰かがいるのに、会話を急がなくていい空気が、思っていたより楽だった。
先に口を開いたのは朝比奈だった。
「テスト近い?」
「……来週です」
「二年、もうそんな時期か」
「三年はもっと早いんですか」
「早いのもあるし、多い」
短く答えて、朝比奈はコーヒーをひとくち飲んだ。
それで終わりかと思ったが、少ししてから付け足す。
「でも、勉強してる顔して長居するやつ、だいたい本読んでるか寝てる」
紬は思わず顔を上げた。
「店員目線ですね」
「店員だからな」
「身も蓋もない」
口にしてから、少しだけ言いすぎたかと思った。だが朝比奈は気を悪くした様子もなく、ほんの一瞬だけ目元をゆるめた。
「ここ、学生多いからわかる」
「わかるって?」
「追い込みの時期だけ急に真面目そうな顔になる」
「それ、たぶん僕も入ってます」
「入ってる」
即答されて、紬はわずかに眉を寄せた。
「ひどい」
「でも今日はまだまし」
「まだ?」
「今のところ、参考書出してないから」
その言い方があまりにも淡々としていて、紬はこらえきれず小さく笑った。
声に出して笑うつもりはなかったのに、喉の奥でふっと空気が漏れた。自分の出した音に、自分で少し驚く。
朝比奈はそれを聞いても何も言わなかった。ただ、グラスの縁に指をかけたまま、少しだけ視線をやわらげる。
「朝比奈先輩は」
紬は言いかけてから、呼び方がそれで合っているのか少し迷った。
「……ずっとここでバイトしてるんですか」
「先輩いらない」
「え」
「店でまでそう呼ばれると変な感じする」
そう言ってから、「まあ好きにすればいいけど」と小さく付け足す。
紬は曖昧にうなずいた。
「じゃあ、朝比奈さん」
「それも変」
「注文多くないですか」
「瀬戸でいい」
自分の名前を呼ばれて、紬は少しだけ黙った。
名字を知られていること自体は別に不思議じゃない。同じ学校なのだから。けれど、教室で呼ばれるのとは違う響き方をした。店のざわめきの中で、そこだけ少し近く聞こえる。
「……朝比奈、さんで」
「頑固」
「そっちが言ったんじゃないですか」
「言ったかも」
そこで会話が途切れる。
沈黙はやはり訪れるのに、気まずくはならない。朝比奈が無理に次の話題を探さないからだと、紬はそのとき初めて気づいた。沈黙を埋めようとして、どうでもいいことを重ねる人は多い。でも向かいに座るこの人は、話さない時間を話さないまま置いておけるらしい。
紬は箸を置き、水を飲んだ。
「ファミレス、よく来るんだな」
それも、朝比奈の声は探るようではなかった。ただ、事実を確認するような調子だった。
「……たまにです」
「たまににしては慣れてる」
返す言葉を一瞬失う。
窓際の席に迷わず座ったことも、注文に時間がかからないことも、きっと見ていればわかるのだろう。見られていた、と言うほどではない。けれど、ちゃんと目に入っていたのだと思うと落ち着かない。
「朝比奈さんこそ」
「ん?」
「ここ、似合ってますね」
気づけばそう言っていた。
自分でも妙なことを言ったと思う。けれど、学校で廊下を歩くときの少し近寄りがたい感じより、店の中で動いているときの方が、ずっと自然に見えたのは本当だった。
朝比奈は一度まばたきをして、それから少しだけ口元を動かした。笑った、と言えるほど大きくはない。でも、無表情ではなくなった。
「それ、褒めてる?」
「……たぶん」
「曖昧だな」
「自信ないので」
「自信なく言うことじゃないだろ」
紬はまた少し笑ってしまう。
その笑いのあと、自分の肩が思っていたより軽いことに気づく。学校で誰かと話していても、こういうふうに力が抜けることはあまりない。相手の反応を読みすぎなくていい会話は、こんなに楽だっただろうかと思う。
朝比奈がコーヒーを飲みきって、氷の溶けた音を鳴らした。
そのタイミングで、ホールの方から「朝比奈くん、お願いします」と声が飛ぶ。
「はい」
朝比奈は立ち上がりかけて、ふと紬のトレーを見た。
「食べるの遅いな」
「普通です」
「そうか?」
「急いでないだけです」
「そっか」
たったそれだけのやりとりなのに、からかわれた感じはしなかった。急かされてもいない。朝比奈は空のコップを持って立ち上がると、椅子を戻してから一歩下がった。
「じゃ、戻る」
「……どうぞ」
もっと気の利いた返事があった気がする。けれど、朝比奈はそれを気にした様子もなく、そのままホールの方へ戻っていった。エプロンの紐を軽く引き直し、また店の中の動きに溶けていく。
紬は向かいの空いた席をしばらく見ていた。
ほんの十分かそこらだったはずなのに、店の空気が少し変わったような気がする。さっきまで一人で座っていた窓際席が、今はさっきと同じ形には見えない。
残っていたハンバーグをひとくち食べる。少し冷めているのに、なぜか前より味がした。
窓の外では、ロータリーに入ってきたバスのヘッドライトが白く光っている。
店内では皿の触れ合う音と、低い話し声と、ドリンクバーの機械音がいつもどおり混ざっていた。何も特別じゃないはずなのに、紬の中では、火曜日の輪郭だけが少しはっきりした。



