次の火曜日、紬は放課後の教室でノートを閉じながら、自分がいつもより時計を見ていたことに気づいた。
五時限目の終わり、六時限目の残り十分、終礼が始まる前。
別に急ぐ用事があるわけじゃない。部活もしていないし、誰かと待ち合わせているわけでもない。ただ、今日が火曜日だということだけは、朝から妙にはっきり意識していた。
「瀬戸、帰りにコンビニ寄る?」
隣の席の女子に聞かれて、紬は首を横に振る。
「ごめん、今日はいい」
「そっか。また明日」
また明日。
先週も聞いた気がする言葉を背中で受けながら、紬は鞄を持って教室を出た。
校門を出て、駅へ向かう。春の名残を引きずった夕方の風は、先週より少しだけあたたかい。制服の袖を通して肌に触れる空気に、もう上着はいらないかもしれないと思う。そんなことを考えながら歩いているのに、足は迷いなく駅前の通りへ向かっていた。
別に、あの店に行く理由なんてない。
そう心の中で言い訳してみる。家に帰るには少し早いし、図書館は今日は休館日だし、駅前で時間をつぶせる場所なんて他にいくらでもある。だからファミレスに行くのは、ごく自然な選択だ。
自分でも苦しい言い訳だと思いながら、紬は赤と黄色の看板を見上げた。
ガラス越しに見える店内は、先週とあまり変わらない。入口近くのテーブルには制服姿の男子グループ、奥には母親と小さな子ども。ドリンクバーの前に立つ人影が動き、自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
入ってすぐにそう声をかけられ、紬は反射的に顔を上げる。
けれど、そこにいたのは先週の女性店員ではなく、別のアルバイトらしい大学生だった。ほんの一瞬だけ、自分が探すような目で店内を見てしまったことに気づいて、紬は内心で眉をひそめる。
「お一人さまですか」
「はい」
案内されかけた席は、いつもの窓際ではなく、通路寄りの二人席だった。紬はほとんど無意識に、奥の方を見た。窓際席は空いている。
そのとき、レジ奥の通路から黒いエプロン姿が現れた。
「こっち空いてるんで」
低くて、落ち着いた声。
振り向いた先に、朝比奈朔がいた。
紬は一瞬だけ言葉を失う。
先週見たときと同じ黒いエプロン。シャツの袖を肘までまくっていて、片手には水の入ったピッチャーを持っている。学校ではただ少し近寄りがたい先輩にしか見えなかったのに、店の照明の下では、妙にそこに馴染んで見えた。
「あ、はい」
案内していた店員が「あ、じゃあそちらへどうぞ」と言い直す。
紬は小さく会釈して、窓際の席へ向かった。朝比奈は特別親しげな顔をするでもなく、ただ椅子を引くわけでもなく、席の横に水を置いただけだった。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
それだけ。
先週のスマホ取り違えについても、学校の先輩後輩であることについても、何も言わない。その距離感に、紬は少しだけ拍子抜けした。
もっと気まずいかと思っていた。
たとえば「あのあと大丈夫だった」とか、「また来たんだ」とか、そういう軽い会話を向けられるかもしれないと思っていたのだ。けれど朝比奈は、紬を“見覚えのある客”以上にも以下にも扱わない。
メニューを開く。
紙の端を指でなぞりながら、紬はほんの少しだけ息を吐いた。これなら楽だ、と思う。何も特別じゃない。たまたま来た店に、たまたま知っている先輩がバイトしているだけ。そう思えば、変に意識しなくて済む。
注文を取りに来たのは朝比奈ではなかった。紬はドリンクバーと、安めの軽食を頼む。店員が去ったあと、窓の外に目を向ける。ロータリーではバスが一台止まり、何人かの高校生が駆け込んでいくところだった。
それでも、視界の端ではどうしても店内の動きが気になる。
朝比奈はレジに立ったり、料理を運んだり、空いた皿を下げたりしていた。無駄のない動きだった。急いでいるようには見えないのに遅くもない。忙しい店の中で、ひとつひとつの動作だけが妙に静かだ。
学校で見るときも口数が多い印象はなかったけれど、こうして働いている姿を見ると、無口というより“必要なことしか言わない人”なのだとわかる。通りすがりに客に呼ばれれば足を止めるし、小さな子どもにフォークを落とされた母親には、すぐ新しいものを持っていく。愛想がいいわけじゃないのに、雑でもない。
変な人だな、と紬は思う。
正確には、思っていたよりずっと普通で、その“普通さ”が少しだけ意外だった。
ドリンクバーを取りに立ったとき、ちょうど通路で朝比奈とすれ違った。
ぶつかるほど近くはないが、視線は自然に合う。
「……どうも」
先に口を開いたのは紬だった。
挨拶というには中途半端で、自分でも何を言っているのかわからない。けれど黙ったまますれ違うのも不自然な気がして、つい出た言葉だった。
朝比奈はほんの一瞬だけ目を丸くしたように見えたが、すぐにいつもの動かない表情に戻った。
「ん」
短く返事をして、そのまま通り過ぎる。
感じがいいとも悪いとも言えない反応だったのに、紬はなぜか少しだけおかしくなって、飲みものを注ぎながら口元を引き結んだ。
席に戻ってグラスを置く。氷がからん、と小さく鳴る。
気まずくない。むしろ、先週よりもずっと息がしやすい。そう思ったところで、紬は自分がこの店に入ってから、思っていたより肩に力を入れていたことに気づいた。
その力が、今は少しだけ抜けている。
窓の外では、信号が赤から青に変わるところだった。
紬はストローに口をつけながら、ただの炭酸水が少しだけおいしく感じる理由を、考えないことにした。
五時限目の終わり、六時限目の残り十分、終礼が始まる前。
別に急ぐ用事があるわけじゃない。部活もしていないし、誰かと待ち合わせているわけでもない。ただ、今日が火曜日だということだけは、朝から妙にはっきり意識していた。
「瀬戸、帰りにコンビニ寄る?」
隣の席の女子に聞かれて、紬は首を横に振る。
「ごめん、今日はいい」
「そっか。また明日」
また明日。
先週も聞いた気がする言葉を背中で受けながら、紬は鞄を持って教室を出た。
校門を出て、駅へ向かう。春の名残を引きずった夕方の風は、先週より少しだけあたたかい。制服の袖を通して肌に触れる空気に、もう上着はいらないかもしれないと思う。そんなことを考えながら歩いているのに、足は迷いなく駅前の通りへ向かっていた。
別に、あの店に行く理由なんてない。
そう心の中で言い訳してみる。家に帰るには少し早いし、図書館は今日は休館日だし、駅前で時間をつぶせる場所なんて他にいくらでもある。だからファミレスに行くのは、ごく自然な選択だ。
自分でも苦しい言い訳だと思いながら、紬は赤と黄色の看板を見上げた。
ガラス越しに見える店内は、先週とあまり変わらない。入口近くのテーブルには制服姿の男子グループ、奥には母親と小さな子ども。ドリンクバーの前に立つ人影が動き、自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
入ってすぐにそう声をかけられ、紬は反射的に顔を上げる。
けれど、そこにいたのは先週の女性店員ではなく、別のアルバイトらしい大学生だった。ほんの一瞬だけ、自分が探すような目で店内を見てしまったことに気づいて、紬は内心で眉をひそめる。
「お一人さまですか」
「はい」
案内されかけた席は、いつもの窓際ではなく、通路寄りの二人席だった。紬はほとんど無意識に、奥の方を見た。窓際席は空いている。
そのとき、レジ奥の通路から黒いエプロン姿が現れた。
「こっち空いてるんで」
低くて、落ち着いた声。
振り向いた先に、朝比奈朔がいた。
紬は一瞬だけ言葉を失う。
先週見たときと同じ黒いエプロン。シャツの袖を肘までまくっていて、片手には水の入ったピッチャーを持っている。学校ではただ少し近寄りがたい先輩にしか見えなかったのに、店の照明の下では、妙にそこに馴染んで見えた。
「あ、はい」
案内していた店員が「あ、じゃあそちらへどうぞ」と言い直す。
紬は小さく会釈して、窓際の席へ向かった。朝比奈は特別親しげな顔をするでもなく、ただ椅子を引くわけでもなく、席の横に水を置いただけだった。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
それだけ。
先週のスマホ取り違えについても、学校の先輩後輩であることについても、何も言わない。その距離感に、紬は少しだけ拍子抜けした。
もっと気まずいかと思っていた。
たとえば「あのあと大丈夫だった」とか、「また来たんだ」とか、そういう軽い会話を向けられるかもしれないと思っていたのだ。けれど朝比奈は、紬を“見覚えのある客”以上にも以下にも扱わない。
メニューを開く。
紙の端を指でなぞりながら、紬はほんの少しだけ息を吐いた。これなら楽だ、と思う。何も特別じゃない。たまたま来た店に、たまたま知っている先輩がバイトしているだけ。そう思えば、変に意識しなくて済む。
注文を取りに来たのは朝比奈ではなかった。紬はドリンクバーと、安めの軽食を頼む。店員が去ったあと、窓の外に目を向ける。ロータリーではバスが一台止まり、何人かの高校生が駆け込んでいくところだった。
それでも、視界の端ではどうしても店内の動きが気になる。
朝比奈はレジに立ったり、料理を運んだり、空いた皿を下げたりしていた。無駄のない動きだった。急いでいるようには見えないのに遅くもない。忙しい店の中で、ひとつひとつの動作だけが妙に静かだ。
学校で見るときも口数が多い印象はなかったけれど、こうして働いている姿を見ると、無口というより“必要なことしか言わない人”なのだとわかる。通りすがりに客に呼ばれれば足を止めるし、小さな子どもにフォークを落とされた母親には、すぐ新しいものを持っていく。愛想がいいわけじゃないのに、雑でもない。
変な人だな、と紬は思う。
正確には、思っていたよりずっと普通で、その“普通さ”が少しだけ意外だった。
ドリンクバーを取りに立ったとき、ちょうど通路で朝比奈とすれ違った。
ぶつかるほど近くはないが、視線は自然に合う。
「……どうも」
先に口を開いたのは紬だった。
挨拶というには中途半端で、自分でも何を言っているのかわからない。けれど黙ったまますれ違うのも不自然な気がして、つい出た言葉だった。
朝比奈はほんの一瞬だけ目を丸くしたように見えたが、すぐにいつもの動かない表情に戻った。
「ん」
短く返事をして、そのまま通り過ぎる。
感じがいいとも悪いとも言えない反応だったのに、紬はなぜか少しだけおかしくなって、飲みものを注ぎながら口元を引き結んだ。
席に戻ってグラスを置く。氷がからん、と小さく鳴る。
気まずくない。むしろ、先週よりもずっと息がしやすい。そう思ったところで、紬は自分がこの店に入ってから、思っていたより肩に力を入れていたことに気づいた。
その力が、今は少しだけ抜けている。
窓の外では、信号が赤から青に変わるところだった。
紬はストローに口をつけながら、ただの炭酸水が少しだけおいしく感じる理由を、考えないことにした。



