ぼっちの誕生日に、知らない先輩のスマホが鳴った

 最寄り駅で電車を降りるころには、空はもうほとんど夜だった。
 改札を抜けて住宅街へ入ると、昼間より少しひんやりした風が頬に触れる。どの家の窓にも灯りがついていて、カーテン越しの明るさが道にこぼれていた。テレビの音、食器の触れ合う音、笑い声。歩いているだけで、誰かがちゃんと家に帰っているのがわかる。

 紬はイヤホンを耳につけたまま、何も流れていないことにしばらく気づかなかった。スマホを取り違えていたせいで、接続が切れたままだったのだと今さら思い出し、片方を外す。耳の中に急に夜の静けさが戻ってきた。

 自宅の前に着いて、鍵を差し込む。回す音だけが小さく響いた。
 玄関を開けても、やはり家の中は暗い。母の靴はない。予想どおりだった。わかっていたことなのに、電気のついていない廊下を見るたび、ほんの一瞬だけ足が止まる。

「ただいま」

 言わなくてもいい独り言を、今日も言う。
 返事がないことに傷つくほど、もう子どもではない。けれど、何も言わずに入るよりは、少しだけましな気がした。

 廊下のスイッチを押す。白い光が狭い家の中を平たく照らした。
 鞄を自室に置き、制服のままベッドに腰を下ろす。窓は閉まっているのに、部屋の空気はなぜか少し冷えていた。

 スマホが震えたのは、そのときだった。

 心臓が、ほんの少しだけ速く打つ。
 期待したわけではない、と反射的に自分に言い訳しながら画面を見る。表示された名前は、父だった。

 紬はしばらく開かなかった。
 通知欄に見える文面は短い。たぶん、たいしたことは書いていない。わかっている。わかっているのに、指がすぐには動かない。

 ようやく画面を開く。

 ――今年も忙しい。埋め合わせはまた今度。

 それだけだった。
 絵文字もない。句読点もそっけない。父らしいといえば父らしい文面で、むしろ丁寧な方かもしれなかった。

 紬は何度かまばたきをして、メッセージを閉じた。返信はしない。既読だけがつく。向こうはそれで用事が済んだと思うのだろうし、実際、それで終わりなのだ。

 画面を伏せようとして、指が止まる。
 また今度。
 それは便利な言葉だ。今日を傷つけずに済むような顔をして、その実、どこにも置き場がない。次があるみたいに聞こえるくせに、その次が本当に来たことは、ほとんどなかった。

 紬はスマホをベッドの上に置いたまま、ゆっくり仰向けになった。天井の白さを見上げていると、視界の端に、今日ファミレスで一瞬だけ見えた通知の文字がよみがえる。バースデークーポン配信中。
 ただの宣伝だ。アプリが勝手に送ってくる、お得なお知らせ。なのに、“誕生日”という文字だけで、胸の奥に固いものが引っかかる。

 思い出したくないのに、こういうときだけ記憶は妙に鮮明になる。

 小学校三年の誕生日だった。
 平日で、母は仕事から急いで帰ってきた。ダイニングテーブルの上には、小さめのケーキの箱が置かれていたけれど、まだ開けられていなかった。父が来てから一緒に食べよう、と母が言ったからだ。

 その頃、父と母はもうあまり同じ家にいないことが多かった。紬は理由をちゃんとは知らなかったが、子どもなりに、家の空気が少し変わっていることだけは感じていた。それでも、その日は父が来るはずだった。
 来るよ、と電話で言っていた。
 プレゼントも持っていく、と笑っていた。

 だから紬は待った。
 ランドセルを片づけて、手を洗って、制服じゃない服に着替えて、何度も時計を見た。母は「もう少ししたら来るんじゃない」と言いながら、台所と居間を行ったり来たりしていた。テレビはついていたのに、何をやっていたかは覚えていない。ただ、時計の針ばかりが目に入った。

 七時を過ぎても来なかった。
 八時を過ぎても、インターホンは鳴らなかった。

「先にごはん食べる?」
 母に聞かれて、紬は首を横に振った。
「まだ待つ」
 そう言った自分の声の高さまで、変にはっきり覚えている。

 母は少し困ったような顔をして、それでも「そう」とだけ答えた。
 九時近くなって、ようやく電話が鳴った。母が出た。短いやり取りのあと、受話器を置く音だけがやけに大きく響いた。

「今日、無理みたい」

 母はそう言った。
 その言い方が、今でも嫌いだ。誰のせいにもしていないふうで、でもどこにも怒りが向かない、宙ぶらりんな言い方。

 ケーキはそのあと開けられた。
 おめでとう、と母は笑った。笑おうとしていた。
 でも、紬はそのとき、ケーキの甘い匂いより先に、箱の中にこもった冷たい空気を覚えた。

 それから何年かして、父は本格的に家を出た。会えなくなったわけではない。たまに連絡は来るし、思い出したように会うこともあった。けれど、誕生日のたびに何かがきちんと埋め合わされたことは、一度もない。

 また今度。
 埋め合わせ。
 その言葉たちは、いつもちゃんと優しそうな顔をして届くくせに、紬の中では何も救ってくれなかった。

 ベッドの上で身じろぎし、紬はスマホをもう一度手に取った。父からのメッセージ画面を開き、数秒見つめてから、そのまま閉じる。何も打たない。何か返したところで、自分の中のどこも軽くならないとわかっていた。

 部屋の外では、冷蔵庫の低い音だけが続いている。母が帰ってくるまで、まだしばらくあるだろう。

 紬はようやく制服のボタンをひとつ外し、ベッドに横になった。
 今日ファミレスで会った、朝比奈の顔がふっと浮かぶ。見てしまったことをわざわざ謝りもせず、余計な慰めもしなかった先輩。あのそっけない態度が、妙に気にかかる。けれど、その理由を考えるのは面倒で、紬はすぐに思考をやめた。

 誕生日なんて、思い出したほうが負けだ。
 来る前から数えたり、誰かの言葉を待ったりした時点で、もう負ける。

 そう思いながら、紬はスマホを伏せた。
 暗くなった画面には、もう何も映っていない。
 何も映っていないことに、ほっとしてしまう自分がいた。