次の火曜日、紬は授業が終わると、ほとんど迷わず駅前へ向かった。
もう「たまたま寄っただけ」と自分に言い聞かせる必要はない気がしていた。
だからといって、会いたかったと素直に口にできるほど、急に大胆にもなれない。けれど少なくとも、自分の足がどこへ向かっているのかくらいは、認めてもよかった。
ファミレスの自動ドアが開く。
冷房の匂い、油とスープの混ざった空気、重なり合う話し声。
その全部が、最初にここへ来た頃よりずっと馴染んで感じられる。窓際の席は今日も空いていて、紬はそこへ座った。鞄を足元に置く動作まで、もうすっかり身体が覚えている。
「いらっしゃいませ」
顔を上げると、朝比奈だった。
黒いエプロン。まくったシャツの袖。低い声。
何も特別なことのない、いつもの立ち姿。けれど紬には、その“いつも”が少しずつ特別になっていた。
「窓際、いつも通りでいい?」
「……はい」
紬が答えると、朝比奈はわずかに口元をゆるめた。
店員としての確認みたいな言い方なのに、ほんとうはそれだけじゃないと、今ならわかる。ここへ来る自分のことを朝比奈も“いつも通り”の中に入れている。そのことが、小さく、でも確かにうれしかった。
注文を取りに来たのは別の店員で、紬はいつもの軽食とドリンクバーを頼んだ。
窓の外では、ロータリーにバスが滑り込み、制服姿の中学生が駆けていく。店のガラスに夕方の光が薄く映り込んで、店内の照明と混ざり合っていた。春はもう終わりかけているのに、外の明るさだけはまだ少し粘っている。
しばらくして、朝比奈が紙コップのコーヒーを持って向かいの席へ来た。
「ここ、いい?」
「その確認、もう意味ないですよね」
紬が言うと、朝比奈は座りながら少しだけ眉を上げた。
「一応、礼儀」
「今さら」
「今さらでも」
その言い方が、前よりずっとやわらかい。
紬はグラスのストローを指で回した。こういう何でもないやりとりを、もう何度も繰り返してきた気がする。実際にはまだそんなに回数は重ねていないのに、会話の間の置き方だけは、最初の頃よりずっと自然だった。
朝比奈はコーヒーに口をつけてから、窓の外へ一瞬だけ目をやった。
「最近、日が長いな」
「もうすぐ夏だからじゃないですか」
「そうか」
「そこ曖昧なんですね」
「日付には弱い」
「それ、この前も聞きました」
朝比奈が少し笑う。
「じゃあ、覚えてるお前がえらい」
「普通です」
そう返しながら、紬は自分の声がずいぶん軽くなっていることに気づく。
以前の自分なら、こういう会話のひとつひとつに、もっと力が入っていた。変なことを言わないように、踏み込みすぎないように、楽しそうにしすぎないように。
今も全部なくなったわけじゃない。でも少なくとも、目の前の相手が自分の言葉を受け取ってくれることを、前ほど疑わなくなっていた。
料理が届く。
紬がナイフを入れるのを待っていたみたいに、朝比奈がふいに言った。
「そういえば」
「はい」
「来年の誕生日、何食べたい」
ナイフの先が皿に触れて、小さく音を立てた。
紬は顔を上げる。
朝比奈は、わざとらしい顔をしていなかった。
からかっているでもなく、深い意味を持たせようとしているわけでもないように見える。けれど、その問いがただの雑談じゃないことだけは、紬にもすぐわかった。
来年。
その言葉が、胸の中で静かに広がる。
少し前までの自分なら、誕生日の話題そのものをうまく受け流そうとしただろう。
別に、とか、何でもいいです、とか。
待っても来ないもののことなんて考えない方がましだと、そう言い聞かせて終わらせたはずだ。
けれど今は、その問いをすぐに閉じたくはなかった。
「来年……」
紬は小さく繰り返して、視線を皿に落とした。
来年、自分はどうしているだろう。
朝比奈は卒業している。県外へ行くかもしれないし、まだこの街にいるかもしれない。今と同じ火曜日があるとは限らない。窓際の席も、ドリンクバーの氷の音も、もう違う意味になっているかもしれない。
それでも、“来年”をまるごと怖いとは思わなかった。
少なくとも、今この瞬間にそれを聞かれて、胸が冷えなかった。
「……今年より」
紬はようやく口を開く。
「今年より、ちゃんと甘いやつ」
言った瞬間、自分でも少しおかしくなる。
何を答えてるんだろう、と思う。もっとほかに、気の利いた言い方もあったかもしれない。けれど朝比奈は一度だけ目を見開いて、それから静かに笑った。
「了解」
たったそれだけ。
メモを取るでもなく、念を押すでもなく、ほんとうに業務連絡みたいに短く返す。
でも、その“了解”の中に、来年が自分たちのあいだでいったん引き受けられた感じがして、紬の胸はじんわり熱くなった。
「適当ですね」
「適当じゃない」
「考えてなさそう」
「考えてるよ」
「ほんとに?」
「ちゃんと甘いやつ、だろ」
朝比奈がそう言うと、紬は思わず笑った。
ストローに口をつけたまま、こぼれそうになるのを慌てて飲み込む。
来年のことなんて、まだ何も決まっていない。決められないことだってたくさんある。それなのに、“ちゃんと甘いやつ”なんて、ずいぶん曖昧で、ずいぶん具体的な約束だと思った。
窓の外では、いつの間にか空がだいぶ暗くなっていた。
ロータリーの灯りがガラスに映って、店内の照明と重なる。向かいの席の朝比奈は、紙コップを持ったまま、何でもない顔でそこにいる。黒いエプロンの紐が少しだけ斜めになっていて、さっき忙しそうにしていた名残が見えた。
紬はフォークを持ち直す。
皿の上の料理は、さっきより少しだけ湯気を失っていた。でも、もう味がしないなんてことはない。
来年の誕生日。
その言葉を頭の中でそっと転がしてみる。
前なら、そこに続くはずの不安や痛みが先に来た。どうせ、また。そういう諦めが最初に立ち上がった。
でも今は違う。
もちろん、怖さが全部なくなったわけじゃない。来年どうなっているのかなんてわからないし、朝比奈の進路だってまだ決まりきっていない。
それでも、来年の話をしてもいいと思えるだけの何かが、ちゃんと今ここにある。
「朝比奈さん」
「ん?」
「来年、忘れないでくださいね」
紬が言うと、朝比奈は少しだけ眉を上げた。
「忘れたら?」
「……怒ります」
「怖いな」
その返しにまた笑う。
笑いながら、紬は思った。
来年の話をしても、こわくない夜がある。
そんなことを、自分は少し前まで知らなかった。
もう「たまたま寄っただけ」と自分に言い聞かせる必要はない気がしていた。
だからといって、会いたかったと素直に口にできるほど、急に大胆にもなれない。けれど少なくとも、自分の足がどこへ向かっているのかくらいは、認めてもよかった。
ファミレスの自動ドアが開く。
冷房の匂い、油とスープの混ざった空気、重なり合う話し声。
その全部が、最初にここへ来た頃よりずっと馴染んで感じられる。窓際の席は今日も空いていて、紬はそこへ座った。鞄を足元に置く動作まで、もうすっかり身体が覚えている。
「いらっしゃいませ」
顔を上げると、朝比奈だった。
黒いエプロン。まくったシャツの袖。低い声。
何も特別なことのない、いつもの立ち姿。けれど紬には、その“いつも”が少しずつ特別になっていた。
「窓際、いつも通りでいい?」
「……はい」
紬が答えると、朝比奈はわずかに口元をゆるめた。
店員としての確認みたいな言い方なのに、ほんとうはそれだけじゃないと、今ならわかる。ここへ来る自分のことを朝比奈も“いつも通り”の中に入れている。そのことが、小さく、でも確かにうれしかった。
注文を取りに来たのは別の店員で、紬はいつもの軽食とドリンクバーを頼んだ。
窓の外では、ロータリーにバスが滑り込み、制服姿の中学生が駆けていく。店のガラスに夕方の光が薄く映り込んで、店内の照明と混ざり合っていた。春はもう終わりかけているのに、外の明るさだけはまだ少し粘っている。
しばらくして、朝比奈が紙コップのコーヒーを持って向かいの席へ来た。
「ここ、いい?」
「その確認、もう意味ないですよね」
紬が言うと、朝比奈は座りながら少しだけ眉を上げた。
「一応、礼儀」
「今さら」
「今さらでも」
その言い方が、前よりずっとやわらかい。
紬はグラスのストローを指で回した。こういう何でもないやりとりを、もう何度も繰り返してきた気がする。実際にはまだそんなに回数は重ねていないのに、会話の間の置き方だけは、最初の頃よりずっと自然だった。
朝比奈はコーヒーに口をつけてから、窓の外へ一瞬だけ目をやった。
「最近、日が長いな」
「もうすぐ夏だからじゃないですか」
「そうか」
「そこ曖昧なんですね」
「日付には弱い」
「それ、この前も聞きました」
朝比奈が少し笑う。
「じゃあ、覚えてるお前がえらい」
「普通です」
そう返しながら、紬は自分の声がずいぶん軽くなっていることに気づく。
以前の自分なら、こういう会話のひとつひとつに、もっと力が入っていた。変なことを言わないように、踏み込みすぎないように、楽しそうにしすぎないように。
今も全部なくなったわけじゃない。でも少なくとも、目の前の相手が自分の言葉を受け取ってくれることを、前ほど疑わなくなっていた。
料理が届く。
紬がナイフを入れるのを待っていたみたいに、朝比奈がふいに言った。
「そういえば」
「はい」
「来年の誕生日、何食べたい」
ナイフの先が皿に触れて、小さく音を立てた。
紬は顔を上げる。
朝比奈は、わざとらしい顔をしていなかった。
からかっているでもなく、深い意味を持たせようとしているわけでもないように見える。けれど、その問いがただの雑談じゃないことだけは、紬にもすぐわかった。
来年。
その言葉が、胸の中で静かに広がる。
少し前までの自分なら、誕生日の話題そのものをうまく受け流そうとしただろう。
別に、とか、何でもいいです、とか。
待っても来ないもののことなんて考えない方がましだと、そう言い聞かせて終わらせたはずだ。
けれど今は、その問いをすぐに閉じたくはなかった。
「来年……」
紬は小さく繰り返して、視線を皿に落とした。
来年、自分はどうしているだろう。
朝比奈は卒業している。県外へ行くかもしれないし、まだこの街にいるかもしれない。今と同じ火曜日があるとは限らない。窓際の席も、ドリンクバーの氷の音も、もう違う意味になっているかもしれない。
それでも、“来年”をまるごと怖いとは思わなかった。
少なくとも、今この瞬間にそれを聞かれて、胸が冷えなかった。
「……今年より」
紬はようやく口を開く。
「今年より、ちゃんと甘いやつ」
言った瞬間、自分でも少しおかしくなる。
何を答えてるんだろう、と思う。もっとほかに、気の利いた言い方もあったかもしれない。けれど朝比奈は一度だけ目を見開いて、それから静かに笑った。
「了解」
たったそれだけ。
メモを取るでもなく、念を押すでもなく、ほんとうに業務連絡みたいに短く返す。
でも、その“了解”の中に、来年が自分たちのあいだでいったん引き受けられた感じがして、紬の胸はじんわり熱くなった。
「適当ですね」
「適当じゃない」
「考えてなさそう」
「考えてるよ」
「ほんとに?」
「ちゃんと甘いやつ、だろ」
朝比奈がそう言うと、紬は思わず笑った。
ストローに口をつけたまま、こぼれそうになるのを慌てて飲み込む。
来年のことなんて、まだ何も決まっていない。決められないことだってたくさんある。それなのに、“ちゃんと甘いやつ”なんて、ずいぶん曖昧で、ずいぶん具体的な約束だと思った。
窓の外では、いつの間にか空がだいぶ暗くなっていた。
ロータリーの灯りがガラスに映って、店内の照明と重なる。向かいの席の朝比奈は、紙コップを持ったまま、何でもない顔でそこにいる。黒いエプロンの紐が少しだけ斜めになっていて、さっき忙しそうにしていた名残が見えた。
紬はフォークを持ち直す。
皿の上の料理は、さっきより少しだけ湯気を失っていた。でも、もう味がしないなんてことはない。
来年の誕生日。
その言葉を頭の中でそっと転がしてみる。
前なら、そこに続くはずの不安や痛みが先に来た。どうせ、また。そういう諦めが最初に立ち上がった。
でも今は違う。
もちろん、怖さが全部なくなったわけじゃない。来年どうなっているのかなんてわからないし、朝比奈の進路だってまだ決まりきっていない。
それでも、来年の話をしてもいいと思えるだけの何かが、ちゃんと今ここにある。
「朝比奈さん」
「ん?」
「来年、忘れないでくださいね」
紬が言うと、朝比奈は少しだけ眉を上げた。
「忘れたら?」
「……怒ります」
「怖いな」
その返しにまた笑う。
笑いながら、紬は思った。
来年の話をしても、こわくない夜がある。
そんなことを、自分は少し前まで知らなかった。



