放課後、紬はいつもより少しだけ教室を出るのが遅くなった。
掃除当番ではなかったし、担任に呼び止められたわけでもない。
ただ、朝に朝比奈へ挨拶したことの余韻が、一日じゅう妙なかたちで残っていて、そのまま勢いで駅前へ向かってしまうのが少し気恥ずかしかった。
朝に挨拶して、放課後にはもう会いに行くみたいで、それは何だか、いかにもすぎる気がしたのだ。
とはいえ、だから帰るわけでもない。
紬は机の中を意味もなく整えてから、ようやく鞄を持ち上げた。
廊下に出ると、部活へ向かう生徒たちがすでに流れを作っていた。階段の上からは、吹奏楽部のチューニングの音が遠く聞こえる。窓の外は、まだ完全に暗くなる前の群青色で、春の終わりの風が校舎の隙間を抜けていた。
昇降口を出て、校門を越え、駅へ向かう。
昨日までと同じ道なのに、歩く速さだけが少し違う。心のどこかに“今はまだ火曜日じゃない”という意識があるせいかもしれなかった。
朝比奈と話すようになってから、火曜という曜日だけが、ほかの日より少しだけ輪郭を持つようになった。
火曜の放課後になれば、あの店へ行ける。窓際の席に座れば、忙しそうに店内を回る黒いエプロンが視界のどこかにいるかもしれない。休憩のタイミングが重なれば、短い会話が生まれるかもしれない。
そういう“かもしれない”を、紬は前まであまり持たないようにしてきた。持てば、そのぶん失くしたときに困るからだ。
けれど今は、その“かもしれない”ごと手放す気にはなれない。
駅前の信号で立ち止まったとき、紬はふと昨日の朝比奈を思い出した。
進路指導室の前でパンフレットを抱えていた姿。
県外。専門学校。行きたい気持ちと、行けるかどうかは別だと淡々と言った声。
青に変わった信号を渡りながら、紬は胸の奥に小さな不安が沈んでいるのを感じた。
たとえ火曜日が今はまだ自分の基準になっていても、それがずっと続くわけではない。
朝比奈は三年生で、卒業する。
自分の知らない場所へ行くかもしれないし、行きたいと思っている場所がすでにある。たぶん、火曜日のファミレスよりもっと遠くて、もっと現実的で、もっと大事な場所だ。
そう考えると、急に、今あるものがやわらかすぎる気がしてくる。
掌に載せたままでは、いつの間にか零れ落ちてしまいそうなもの。
だからこそ、ちゃんと名前をつけたくなる。けれど名前をつけてしまえば、それはもう“なくなっても平気なもの”ではいられない。
ファミレスの前まで来たとき、紬は少し迷った。
今日は火曜日ではない。だから、来る理由はないとも言える。
でも、理由がなければ来てはいけない場所でもない。
自動ドアが開く。
いつもの冷房の匂いと、厨房から流れてくるスープの匂いが混ざって、頬に触れた。
「いらっしゃいませ」
顔を上げると、朝比奈ではない店員が立っていた。
当たり前のことなのに、紬はほんの少しだけ肩の力を抜く。朝比奈が入口に立っていたら、それだけでまた変に意識していたかもしれない。
窓際の席に案内され、鞄を置く。テーブルの上に手を置いたまま、通路の向こうをそっと見ると、少し遅れて朝比奈が厨房の方から出てきた。
今日は客席側ではなく、伝票を持って社員らしき人と話している。
その横顔は、火曜日に向かいの席で見るより少しかたい。働いているというより、何かを確認している顔だ。言葉は聞こえないが、視線の動きや頷き方だけで、話している内容が店のことだけではないとわかる。
やがてその人が去り、朝比奈は一度だけ大きく息をついた。
それから、紬に気づく。
目が合う。
朝の挨拶の続きみたいに、ほんの一瞬だけ表情がやわらぐ。けれど今日はすぐには来ない。忙しいのだろう。紬も、来てほしいとは思うくせに、そう簡単に手招きできるわけではなかった。
料理が運ばれ、半分ほど食べ終えた頃、ようやく朝比奈が紙コップのコーヒーを持って現れた。
「ここ、いい?」
「……はい」
向かいに座る。
昨日の私服の印象がまだ少し残っていて、制服姿の朝比奈が、前より少し近く見える。
「今日は休憩、遅いですね」
紬が言うと、朝比奈はコーヒーを置いた。
「面談してた」
「面談?」
「店長と」
そう言ってから、少しだけ肩をすくめる。
「来月のシフトとか、進路のこととか」
やっぱりそうなのか、と紬は思う。
火曜日の向こう側に、ちゃんと進んでいく現実がある。自分の知らないところで、朝比奈はその話をもう具体的にしている。
「……県外、行くんですか」
朝比奈は、カップの縁に指をかけたまま、少しだけ黙った。
「まだ決めてない」
「でも、考えてる」
「考えてはいる」
その答え方に、紬は小さくうなずく。
前なら、そこで「そっか」で終わっていたかもしれない。けれど今日は、そこで終わりたくなかった。
「行くかもしれないんですよね」
「たぶん」
また、たぶん。
それでも、今のたぶんは逃げではなく、ちゃんと揺れている人の言葉だと紬にはわかる。
「そしたら」
紬はグラスの中の氷を見た。からん、と小さく音が鳴る。
「火曜、なくなりますね」
言ってしまってから、少しだけ顔が熱くなる。
ずいぶんそのままの言い方だった。火曜日がなくなるわけじゃない。ただ、自分にとっての“あの火曜日”が変わってしまうかもしれないという意味でしかない。
けれど朝比奈は笑わなかった。
「なくなるかもしれないな」
そう返して、短く息をつく。
その声音には、軽く流せない何かがあった。
紬は視線を上げる。
朝比奈もこちらを見ていた。店の中のざわめきが少し遠のく。
「でも」
紬は自分でも驚くくらい静かに言った。
「今はまだ火曜、ありますよね」
朝比奈の目が少しだけ細くなる。
それが笑いの前ぶれだとわかるくらいには、もう表情の癖を知ってしまっていた。
「あるな」
短い返事。
でも、それだけで十分だった。
先のことはまだわからない。進路も、家のことも、卒業したあとのことも。
火曜日がいつまで続くのかなんて、今ここで決められるわけがない。
それでも、“今はまだある”と思えるだけで、紬の胸の不安は少しだけ整う。
永遠じゃなくていい。
今週も、その次も、少なくともまだしばらくは、火曜日は来る。
来れば、自分はたぶんここへ来る。
そういう小さな約束みたいなものを、言葉にはしないまま持っていてもいいのかもしれない。
朝比奈はコーヒーをひとくち飲んでから、紙コップをテーブルに置いた。
「次の火曜も、たぶんいる」
さらりと言う。
紬は思わず瞬きをした。
「聞いてないです」
「今、聞いた顔してた」
その返しに、紬は小さく笑う。
自分の顔がそんなにわかりやすいのかと思うと少し悔しい。けれど、悔しさより先に、胸の奥があたたかくなる。
「……じゃあ」
紬はグラスを持ち上げた。中の氷が、今度は前より軽く鳴る。
「次の火曜も」
約束にするには曖昧すぎる言い方だった。
でも朝比奈は、それで十分だというみたいに、小さくうなずいた。
次の火曜も。
その言葉だけで、今日の放課後は少しだけ長く、でも前よりやさしく感じられた。
掃除当番ではなかったし、担任に呼び止められたわけでもない。
ただ、朝に朝比奈へ挨拶したことの余韻が、一日じゅう妙なかたちで残っていて、そのまま勢いで駅前へ向かってしまうのが少し気恥ずかしかった。
朝に挨拶して、放課後にはもう会いに行くみたいで、それは何だか、いかにもすぎる気がしたのだ。
とはいえ、だから帰るわけでもない。
紬は机の中を意味もなく整えてから、ようやく鞄を持ち上げた。
廊下に出ると、部活へ向かう生徒たちがすでに流れを作っていた。階段の上からは、吹奏楽部のチューニングの音が遠く聞こえる。窓の外は、まだ完全に暗くなる前の群青色で、春の終わりの風が校舎の隙間を抜けていた。
昇降口を出て、校門を越え、駅へ向かう。
昨日までと同じ道なのに、歩く速さだけが少し違う。心のどこかに“今はまだ火曜日じゃない”という意識があるせいかもしれなかった。
朝比奈と話すようになってから、火曜という曜日だけが、ほかの日より少しだけ輪郭を持つようになった。
火曜の放課後になれば、あの店へ行ける。窓際の席に座れば、忙しそうに店内を回る黒いエプロンが視界のどこかにいるかもしれない。休憩のタイミングが重なれば、短い会話が生まれるかもしれない。
そういう“かもしれない”を、紬は前まであまり持たないようにしてきた。持てば、そのぶん失くしたときに困るからだ。
けれど今は、その“かもしれない”ごと手放す気にはなれない。
駅前の信号で立ち止まったとき、紬はふと昨日の朝比奈を思い出した。
進路指導室の前でパンフレットを抱えていた姿。
県外。専門学校。行きたい気持ちと、行けるかどうかは別だと淡々と言った声。
青に変わった信号を渡りながら、紬は胸の奥に小さな不安が沈んでいるのを感じた。
たとえ火曜日が今はまだ自分の基準になっていても、それがずっと続くわけではない。
朝比奈は三年生で、卒業する。
自分の知らない場所へ行くかもしれないし、行きたいと思っている場所がすでにある。たぶん、火曜日のファミレスよりもっと遠くて、もっと現実的で、もっと大事な場所だ。
そう考えると、急に、今あるものがやわらかすぎる気がしてくる。
掌に載せたままでは、いつの間にか零れ落ちてしまいそうなもの。
だからこそ、ちゃんと名前をつけたくなる。けれど名前をつけてしまえば、それはもう“なくなっても平気なもの”ではいられない。
ファミレスの前まで来たとき、紬は少し迷った。
今日は火曜日ではない。だから、来る理由はないとも言える。
でも、理由がなければ来てはいけない場所でもない。
自動ドアが開く。
いつもの冷房の匂いと、厨房から流れてくるスープの匂いが混ざって、頬に触れた。
「いらっしゃいませ」
顔を上げると、朝比奈ではない店員が立っていた。
当たり前のことなのに、紬はほんの少しだけ肩の力を抜く。朝比奈が入口に立っていたら、それだけでまた変に意識していたかもしれない。
窓際の席に案内され、鞄を置く。テーブルの上に手を置いたまま、通路の向こうをそっと見ると、少し遅れて朝比奈が厨房の方から出てきた。
今日は客席側ではなく、伝票を持って社員らしき人と話している。
その横顔は、火曜日に向かいの席で見るより少しかたい。働いているというより、何かを確認している顔だ。言葉は聞こえないが、視線の動きや頷き方だけで、話している内容が店のことだけではないとわかる。
やがてその人が去り、朝比奈は一度だけ大きく息をついた。
それから、紬に気づく。
目が合う。
朝の挨拶の続きみたいに、ほんの一瞬だけ表情がやわらぐ。けれど今日はすぐには来ない。忙しいのだろう。紬も、来てほしいとは思うくせに、そう簡単に手招きできるわけではなかった。
料理が運ばれ、半分ほど食べ終えた頃、ようやく朝比奈が紙コップのコーヒーを持って現れた。
「ここ、いい?」
「……はい」
向かいに座る。
昨日の私服の印象がまだ少し残っていて、制服姿の朝比奈が、前より少し近く見える。
「今日は休憩、遅いですね」
紬が言うと、朝比奈はコーヒーを置いた。
「面談してた」
「面談?」
「店長と」
そう言ってから、少しだけ肩をすくめる。
「来月のシフトとか、進路のこととか」
やっぱりそうなのか、と紬は思う。
火曜日の向こう側に、ちゃんと進んでいく現実がある。自分の知らないところで、朝比奈はその話をもう具体的にしている。
「……県外、行くんですか」
朝比奈は、カップの縁に指をかけたまま、少しだけ黙った。
「まだ決めてない」
「でも、考えてる」
「考えてはいる」
その答え方に、紬は小さくうなずく。
前なら、そこで「そっか」で終わっていたかもしれない。けれど今日は、そこで終わりたくなかった。
「行くかもしれないんですよね」
「たぶん」
また、たぶん。
それでも、今のたぶんは逃げではなく、ちゃんと揺れている人の言葉だと紬にはわかる。
「そしたら」
紬はグラスの中の氷を見た。からん、と小さく音が鳴る。
「火曜、なくなりますね」
言ってしまってから、少しだけ顔が熱くなる。
ずいぶんそのままの言い方だった。火曜日がなくなるわけじゃない。ただ、自分にとっての“あの火曜日”が変わってしまうかもしれないという意味でしかない。
けれど朝比奈は笑わなかった。
「なくなるかもしれないな」
そう返して、短く息をつく。
その声音には、軽く流せない何かがあった。
紬は視線を上げる。
朝比奈もこちらを見ていた。店の中のざわめきが少し遠のく。
「でも」
紬は自分でも驚くくらい静かに言った。
「今はまだ火曜、ありますよね」
朝比奈の目が少しだけ細くなる。
それが笑いの前ぶれだとわかるくらいには、もう表情の癖を知ってしまっていた。
「あるな」
短い返事。
でも、それだけで十分だった。
先のことはまだわからない。進路も、家のことも、卒業したあとのことも。
火曜日がいつまで続くのかなんて、今ここで決められるわけがない。
それでも、“今はまだある”と思えるだけで、紬の胸の不安は少しだけ整う。
永遠じゃなくていい。
今週も、その次も、少なくともまだしばらくは、火曜日は来る。
来れば、自分はたぶんここへ来る。
そういう小さな約束みたいなものを、言葉にはしないまま持っていてもいいのかもしれない。
朝比奈はコーヒーをひとくち飲んでから、紙コップをテーブルに置いた。
「次の火曜も、たぶんいる」
さらりと言う。
紬は思わず瞬きをした。
「聞いてないです」
「今、聞いた顔してた」
その返しに、紬は小さく笑う。
自分の顔がそんなにわかりやすいのかと思うと少し悔しい。けれど、悔しさより先に、胸の奥があたたかくなる。
「……じゃあ」
紬はグラスを持ち上げた。中の氷が、今度は前より軽く鳴る。
「次の火曜も」
約束にするには曖昧すぎる言い方だった。
でも朝比奈は、それで十分だというみたいに、小さくうなずいた。
次の火曜も。
その言葉だけで、今日の放課後は少しだけ長く、でも前よりやさしく感じられた。



