ぼっちの誕生日に、知らない先輩のスマホが鳴った

 翌朝、紬は目覚ましが鳴る少し前に目を開けた。

 カーテンの隙間から差し込む光は、昨日より少しだけ白く見える。
 同じ部屋、同じ天井、同じ朝のはずなのに、目が覚めた瞬間の息苦しさがなかった。代わりに胸の奥にあるのは、まだ形になりきらない、静かな熱みたいなものだった。

 昨夜のことを思い出す。
 閉店前のファミレス。私服の朝比奈。
 会いたかったから来た、という言葉。
 そして、誕生日おめでとう、という低い声。

 布団の中でその言葉を反芻しかけて、紬は顔の半分を枕に押しつけた。
 思い出すだけで、胸の内側が少し落ち着かなくなる。うれしかった、で済ませるには近すぎて、恥ずかしい、だけでも足りない。昨夜の自分がちゃんと「ありがとう」と返せていたかどうか、今さら不安になるくらいには、全部がまだ生々しかった。

 スマホを取る。
 画面には母からの短いメッセージが入っていた。

 ――昨日、ごめん。帰り遅くなった。今度ケーキ買おうか。

 紬はそれを読んで、少しだけ目を伏せた。
 母なりの気づかいなのだろうと思う。いつも通り不器用で、少し遅い。でも、それを責める気にはなれなかった。昨夜、自分の誕生日はもう別の言葉でいったん満たされてしまっていたからかもしれない。

 短く「大丈夫」とだけ返して、ベッドを出る。

 台所では母がすでに朝食の準備をしていた。
「おはよう」
「おはよう」
 そのやりとりだけで終わる。けれど、昨日までならその短さに感じていたはずの隙間が、今朝は不思議とあまり気にならなかった。

 学校へ向かう道でも、紬は何度かスマホを見た。
 朝比奈からメッセージが来ているわけではない。連絡先を交換したわけでもないのだから当たり前だ。なのに、何かの拍子に画面を確かめてしまう。自分でも少し笑えて、すぐにポケットへしまい直した。

 校門をくぐる。
 昇降口で上履きに履き替えて、廊下を歩く。クラスメイトの声、チャイム前のざわめき、担任に提出物を急かされる誰かの情けない声。いつもの朝の空気。
 それなのに、紬の中ではひとつだけ、昨日までとは違うものが確かにあった。

 もう、学校で知らないふりをしたくなかった。

 その気持ちに気づいた瞬間、紬は少しだけ立ち止まりそうになった。
 廊下の先、三年の教室が並ぶ角から、男子生徒が二、三人出てくるのが見えた。その後ろに、朝比奈がいる。

 制服姿の朝比奈は、昨日の私服の印象をまだ少し引きずって見えた。
 ただの先輩ではなく、昨日、閉店前の席に座って「会いたかった」と言った人。
 その事実が、同じ校舎の中で急に現実味を持つ。

 目が合う。

 朝比奈の視線が一瞬止まり、それからほんの少しだけやわらぐ。昨日の続きが、ちゃんとここにあるとわかるくらいの、微かな変化だった。

 いつもなら、そこで紬は視線をそらしていただろう。
 知らないふりをして、通りすぎて、あとで火曜日の店で会うまで胸のどこかを落ち着かなくさせていたはずだ。

 けれど今日は、そうしたくなかった。

 紬は足を止める。
 喉の奥が少しだけ乾く。
 それでも、ちゃんと顔を上げた。

「……おはようございます」

 口にした瞬間、自分の声がほんの少しだけ上ずっていたことに気づく。
 それでも、逃げなかった。
 そのことだけで、胸の奥が熱くなる。

 朝比奈は一拍置いてから、短く返した。

「おはよう」

 たったそれだけ。
 それだけなのに、その一言は昨日までとは全然違って聞こえた。
 知らない先輩から返ってくる挨拶じゃない。火曜日の席だけに閉じていない、ちゃんと朝の学校で交わされた言葉だった。

 横を通りすぎるクラスメイトたちは、別に何も気にしていない。三年の先輩に挨拶する二年生なんて、珍しくもないのだろう。
 でも紬にとっては、そんな当たり前の中に、自分だけの小さな変化が確かにあった。

 朝比奈も立ち止まりはしなかった。
 紬の横を通りすぎるとき、ごくわずかに目を細める。その表情は一瞬で、見間違いかもしれない程度のものだった。けれど紬には、それで十分だった。

 教室へ向かって歩き出す。
 足が少しだけ軽い。
 ただ挨拶をしただけなのに、一日の輪郭そのものが少し変わったような気がした。

 席に着くと、前の席の男子が振り向いた。
「瀬戸、今日なんか機嫌いい?」
 思わず顔を上げる。
「別に」
「いや、なんか。顔」
「どんな」
「……いつもより、ちょっとだけまし」

 失礼な言い方に、紬は反射的に眉をひそめる。
 でも、そのあと自分でも口元が少しだけ緩んでいるのに気づいて、すぐにノートを開いた。

 名前を呼ばれなくても、ちゃんと自分の朝になった気がした。