朝比奈が向かいの席に座ると、テーブルの上の空気が少しだけ変わった。
店内のざわめきはそのままだ。奥では食器の重なる音がして、レジの近くでは店員が小さな声で会計をしている。閉店前の、どこか力の抜けた静けさが広がっているのに、紬の耳には自分の心臓の音ばかりが近かった。
朝比奈は何も急かさなかった。
スマホをテーブルの端に置き、背もたれにもたれすぎない姿勢のまま、ただ紬を見るでもなく、見ないでもなく座っている。
その待ち方に、紬は少しだけ助けられた。
言わなければ、と思う。
呼んだのは自分だ。来ると思わなかった、と言ったのも本音だけれど、来てくれたのに黙ったままでいるのは、もっと違う気がした。
「……昨日」
ようやく口を開くと、声は思っていたより小さかった。
朝比奈は短く「うん」と返す。
「ごめんなさい」
その一言を出した瞬間、喉の奥が少し熱くなる。
謝りたいことは本当はいくつもあった。店であんなふうに席を立ったこと。言葉を途中で切ったこと。朝比奈を困らせたこと。
でも、いちばん謝りたかったのは、たぶんそれだけじゃない。
「何に対して」
朝比奈が聞く。
責める声ではなかった。ただ、曖昧なまま受け取らないための問い方だった。
紬は視線をグラスへ落とした。氷はほとんど溶けていて、薄くなった炭酸の泡が、内側の壁に細く張りついている。
「……勝手に、嫌な受け取り方したかもしれないって、思って」
言いながら、自分でもそれが半分しか正しくないとわかる。
嫌な受け取り方をしたのは本当だ。けれど、“勝手に”だけでもない。そう受け取ってしまう理由が、自分の中にちゃんとある。
「でも」
紬はそこで一度息を吸った。
「見透かされたみたいで、嫌だったんです」
その言葉だけは、驚くほど素直に出た。
「一人でいる顔とか、放っておけないとか……そういうの、言われると、なんか、自分が最初から……可哀想な側みたいで」
うまく言えない。
言いながら、語尾が少しずつほどけていく。
それでも止める気にはなれなかった。止めたらまた、別に、で終わってしまいそうだった。
「そう思われるの、嫌なんです。たぶん、すごく」
朝比奈は黙って聞いていた。
言い訳も、途中で否定する気配もない。そのことが、逆に紬に続きを言わせる。
「誕生日も、別に祝われたいわけじゃなくて……」
そこまで言ってから、紬は少しだけ笑った。
笑うような話じゃないのに、変に力が抜けてしまった。
「いや、違うか。ほんとは、たぶん、一回くらいちゃんとしてほしかったんだと思います」
父の顔が浮かぶ。
ケーキの箱。来ると言って来なかった夜。
その記憶の上に、今年もまた“会えるかもしれない”が乗って、そして結局、“やっぱり無理だった”で終わった。
「期待したくないんです。期待すると、来なかったとき、みじめになるから。だから、最初から何も待たない方が楽で」
そこまで言って、紬はようやく朝比奈を見た。
「でも、朝比奈さんといる火曜日だけは……」
言葉が少し詰まる。
言ってしまえば、もう戻れない気がした。
「来週もあればいいって、思ってました」
テーブルの上に、静かな沈黙が落ちる。
店内の音は変わらず続いているのに、その一言だけが、ひどくはっきりと置かれた気がした。紬は自分の指先に力が入るのを感じた。言ってしまった。会いたい、に近いことを、ほとんどそのまま言ってしまったのだ。
朝比奈はすぐには答えなかった。
その沈黙は、前みたいに苦しくはなかった。考えているのだと、今はわかる。
「最初は」
やがて朝比奈が口を開く。
「お前の言う通り、気になったからだよ」
紬は目を伏せなかった。
逃げるように聞きたくなかった。最後までちゃんと聞きたかった。
「あの日、取り違えたとき、通知も見えたし、顔も見た。放っておけないって思ったのも本当」
朝比奈はそこで一度言葉を切る。
カップにはもうほとんどコーヒーが残っていない。縁に置いた指先だけが静かに動く。
「でも、今は違う」
低い声だった。
でも、昨日よりずっとはっきりしていた。
「今日ここに来たのは、可哀想だと思ったからじゃない」
紬の胸の奥が、少しだけ痛いくらいに鳴る。
「会いたかったから来た」
その言葉は、店の中のどの音よりも静かだったのに、紬にはいちばん強く聞こえた。
救われる、というのとは少し違う。
もっと近くて、もっと個人的で、逃げ道のない言葉だった。
放っておけない後輩じゃなくて、自分自身に向けられた言葉だと、疑いようがなかった。
紬は何か言おうとして、うまく声にならなかった。
代わりに唇を噛みそうになって、そこでふっと息を吐く。
「……ずるいです」
ようやく出たのはそれだった。
「何が」
「そういうの、ちゃんと言うの」
朝比奈は少しだけ目を細めた。笑うでもなく、困るでもなく、ただ少しだけやわらかくなる。
「ちゃんと言わないと、また怒るだろ」
その返しに、紬は思わず肩の力を抜いた。
笑った、と言えるほどきれいな笑いじゃない。ただ、張りつめていた糸が一本ほどけるみたいな、そんな息の漏れ方だった。
そのとき、店内の壁にかかった時計が、日付の変わる少し前を指しているのが目に入った。
あと数分。
今日という日が終わるまでの、ほんのわずかな時間。
朝比奈もそれに気づいたらしかった。視線を時計へやって、それから紬を見る。
「瀬戸」
名前を呼ばれて、紬は顔を上げる。
朝比奈は少しだけ迷うように間を置いてから、静かに言った。
「誕生日おめでとう」
紬は、その言葉を真正面から受け取った。
子どもの頃みたいに、大きなケーキがあるわけじゃない。
ろうそくも、プレゼントも、拍手もない。
ファミレスの閉店前の席で、私服の先輩がひとり、低い声でそう言っただけだ。
なのに、それだけで、今年の誕生日は“何もなかった日”ではなくなる。
喉の奥が少しだけ詰まった。
紬は一度だけまばたきをしてから、小さく息を吸う。
「……ありがとう」
声はかすれていたけれど、ちゃんと届いたと思った。
朝比奈はそれを聞いて、ほんのわずかに口元をやわらげる。
それ以上は何も言わない。
その何も言わなさが、今はちょうどよかった。
店内では、店員が入口の札を裏返し、遠くで椅子を上げる音がした。
今日が終わる。
でも、終わってほしくないと紬は初めて思った。
誕生日の終わりにそう思えるなんて、少し前の自分は知らなかった。
店内のざわめきはそのままだ。奥では食器の重なる音がして、レジの近くでは店員が小さな声で会計をしている。閉店前の、どこか力の抜けた静けさが広がっているのに、紬の耳には自分の心臓の音ばかりが近かった。
朝比奈は何も急かさなかった。
スマホをテーブルの端に置き、背もたれにもたれすぎない姿勢のまま、ただ紬を見るでもなく、見ないでもなく座っている。
その待ち方に、紬は少しだけ助けられた。
言わなければ、と思う。
呼んだのは自分だ。来ると思わなかった、と言ったのも本音だけれど、来てくれたのに黙ったままでいるのは、もっと違う気がした。
「……昨日」
ようやく口を開くと、声は思っていたより小さかった。
朝比奈は短く「うん」と返す。
「ごめんなさい」
その一言を出した瞬間、喉の奥が少し熱くなる。
謝りたいことは本当はいくつもあった。店であんなふうに席を立ったこと。言葉を途中で切ったこと。朝比奈を困らせたこと。
でも、いちばん謝りたかったのは、たぶんそれだけじゃない。
「何に対して」
朝比奈が聞く。
責める声ではなかった。ただ、曖昧なまま受け取らないための問い方だった。
紬は視線をグラスへ落とした。氷はほとんど溶けていて、薄くなった炭酸の泡が、内側の壁に細く張りついている。
「……勝手に、嫌な受け取り方したかもしれないって、思って」
言いながら、自分でもそれが半分しか正しくないとわかる。
嫌な受け取り方をしたのは本当だ。けれど、“勝手に”だけでもない。そう受け取ってしまう理由が、自分の中にちゃんとある。
「でも」
紬はそこで一度息を吸った。
「見透かされたみたいで、嫌だったんです」
その言葉だけは、驚くほど素直に出た。
「一人でいる顔とか、放っておけないとか……そういうの、言われると、なんか、自分が最初から……可哀想な側みたいで」
うまく言えない。
言いながら、語尾が少しずつほどけていく。
それでも止める気にはなれなかった。止めたらまた、別に、で終わってしまいそうだった。
「そう思われるの、嫌なんです。たぶん、すごく」
朝比奈は黙って聞いていた。
言い訳も、途中で否定する気配もない。そのことが、逆に紬に続きを言わせる。
「誕生日も、別に祝われたいわけじゃなくて……」
そこまで言ってから、紬は少しだけ笑った。
笑うような話じゃないのに、変に力が抜けてしまった。
「いや、違うか。ほんとは、たぶん、一回くらいちゃんとしてほしかったんだと思います」
父の顔が浮かぶ。
ケーキの箱。来ると言って来なかった夜。
その記憶の上に、今年もまた“会えるかもしれない”が乗って、そして結局、“やっぱり無理だった”で終わった。
「期待したくないんです。期待すると、来なかったとき、みじめになるから。だから、最初から何も待たない方が楽で」
そこまで言って、紬はようやく朝比奈を見た。
「でも、朝比奈さんといる火曜日だけは……」
言葉が少し詰まる。
言ってしまえば、もう戻れない気がした。
「来週もあればいいって、思ってました」
テーブルの上に、静かな沈黙が落ちる。
店内の音は変わらず続いているのに、その一言だけが、ひどくはっきりと置かれた気がした。紬は自分の指先に力が入るのを感じた。言ってしまった。会いたい、に近いことを、ほとんどそのまま言ってしまったのだ。
朝比奈はすぐには答えなかった。
その沈黙は、前みたいに苦しくはなかった。考えているのだと、今はわかる。
「最初は」
やがて朝比奈が口を開く。
「お前の言う通り、気になったからだよ」
紬は目を伏せなかった。
逃げるように聞きたくなかった。最後までちゃんと聞きたかった。
「あの日、取り違えたとき、通知も見えたし、顔も見た。放っておけないって思ったのも本当」
朝比奈はそこで一度言葉を切る。
カップにはもうほとんどコーヒーが残っていない。縁に置いた指先だけが静かに動く。
「でも、今は違う」
低い声だった。
でも、昨日よりずっとはっきりしていた。
「今日ここに来たのは、可哀想だと思ったからじゃない」
紬の胸の奥が、少しだけ痛いくらいに鳴る。
「会いたかったから来た」
その言葉は、店の中のどの音よりも静かだったのに、紬にはいちばん強く聞こえた。
救われる、というのとは少し違う。
もっと近くて、もっと個人的で、逃げ道のない言葉だった。
放っておけない後輩じゃなくて、自分自身に向けられた言葉だと、疑いようがなかった。
紬は何か言おうとして、うまく声にならなかった。
代わりに唇を噛みそうになって、そこでふっと息を吐く。
「……ずるいです」
ようやく出たのはそれだった。
「何が」
「そういうの、ちゃんと言うの」
朝比奈は少しだけ目を細めた。笑うでもなく、困るでもなく、ただ少しだけやわらかくなる。
「ちゃんと言わないと、また怒るだろ」
その返しに、紬は思わず肩の力を抜いた。
笑った、と言えるほどきれいな笑いじゃない。ただ、張りつめていた糸が一本ほどけるみたいな、そんな息の漏れ方だった。
そのとき、店内の壁にかかった時計が、日付の変わる少し前を指しているのが目に入った。
あと数分。
今日という日が終わるまでの、ほんのわずかな時間。
朝比奈もそれに気づいたらしかった。視線を時計へやって、それから紬を見る。
「瀬戸」
名前を呼ばれて、紬は顔を上げる。
朝比奈は少しだけ迷うように間を置いてから、静かに言った。
「誕生日おめでとう」
紬は、その言葉を真正面から受け取った。
子どもの頃みたいに、大きなケーキがあるわけじゃない。
ろうそくも、プレゼントも、拍手もない。
ファミレスの閉店前の席で、私服の先輩がひとり、低い声でそう言っただけだ。
なのに、それだけで、今年の誕生日は“何もなかった日”ではなくなる。
喉の奥が少しだけ詰まった。
紬は一度だけまばたきをしてから、小さく息を吸う。
「……ありがとう」
声はかすれていたけれど、ちゃんと届いたと思った。
朝比奈はそれを聞いて、ほんのわずかに口元をやわらげる。
それ以上は何も言わない。
その何も言わなさが、今はちょうどよかった。
店内では、店員が入口の札を裏返し、遠くで椅子を上げる音がした。
今日が終わる。
でも、終わってほしくないと紬は初めて思った。
誕生日の終わりにそう思えるなんて、少し前の自分は知らなかった。



