送ってしまったあとで、紬は急に呼吸の仕方がわからなくなった。
画面の上には、たった一行の文が静かに並んでいる。
少しだけ、話せますか。
それだけだ。
それだけなのに、自分の中の何かを決定的に越えてしまった気がした。
店員が水を足しに来ても、紬はうまく顔を上げられなかった。
注文もしていないのに座り続けるのは不自然だと思って、ドリンクバーだけを追加した。グラスの中の氷はほとんど溶けていて、そこへ新しく炭酸を注ぐ音が、やけに大きく聞こえる。
返事はすぐには来なかった。
当然だ、と紬は思う。
今日は休みなのだ。店にいないのだから、すぐ見られるとは限らない。そもそも、見たところで来る義理もない。昨日の空気のあとで、わざわざ時間を割いてまで会おうと思う方が、たぶん少数派だ。
それでも、スマホの画面が暗いままなのを確認するたび、胸の奥は少しずつ冷えていった。
窓の外では、ロータリーを回るバスの本数が減り始めていた。制服姿の客も少なくなって、店内のざわめきは夜のものに変わりつつある。隣の席では仕事帰りらしい二人組が遅い夕食をとっていて、奥の家族連れは帰り支度を始めていた。店内放送の音楽も、昼間より少し落ち着いた曲に変わっている。
帰るなら今だ、と思う。
返事が来ないなら、それが答えだ。そう思って立ち上がってしまえば、きっと楽になれる。少なくとも、これ以上待って、自分がひとりで期待していたことだけは認めずに済む。
けれど、紬は席を立てなかった。
もともと誕生日なんて、ただやりすごす日のはずだった。
それが、気づけば“少しだけ違う日”になるかもしれないと思ってしまった。
その可能性が、まだ完全に消えたと言い切れないあいだは、どうしてもこの席から動けなかった。
閉店が近いのだろう。店員がテーブルの端に立て札を置きながら、ラストオーダーの時間を告げて回り始める。紬の席にも、若いアルバイトの店員が来て、少し困ったような笑顔を向けた。
「すみません、ラストオーダーになります」
「あ、はい……」
紬は慌ててメニューに目を落とした。
何も食べる気はしない。けれど水だけで座り続けるわけにもいかない。結局、いちばん軽いデザートを指さしかけた、そのときだった。
入口の自動ドアが開く音がした。
反射みたいに顔が上がる。
夜の空気が、店内のあたたかさを一瞬だけ押し返した。
入ってきた人影は、制服でもエプロンでもなかった。
黒に近いグレーのパーカー。
白いTシャツの襟元。
ラフに履いた細身のデニム。
片手にはスマホだけを持っていて、肩には何も掛けていない。
朝比奈だった。
私服の朝比奈は、学校で見るより少し年上に見えた。店で働いているときの張った空気もなく、肩の力が抜けている。なのに、顔を上げて店内を見回したときの目だけは、紬が知っている朝比奈のままだった。
その視線が、窓際の席で止まる。
紬は立ち上がることもできず、ただ椅子に座ったまま、その目を受け止めた。
本当に来た。
それだけで、喉の奥が急に熱くなる。
朝比奈はレジに一言何か告げてから、まっすぐこちらへ歩いてきた。
足音は思ったより静かだった。制服でもエプロンでもないぶん、逆に“朝比奈朔”という個人だけがそのまま近づいてくるみたいで、紬はうまく息が吸えない。
テーブルの横で立ち止まる。
「遅くなった」
低い声。
店の中で聞くときより少しだけやわらかい。仕事中じゃないぶん、余計な力が抜けているのかもしれなかった。
紬はすぐには返事ができなかった。
来ると思わなかった。来てほしいと思っていたくせに、本当に来るとは思っていなかった。
ようやく出た声は、少しかすれていた。
「……来ると思わなかったです」
朝比奈はそれを聞いて、ほんの少しだけ口元を動かした。笑ったというほどでもない、小さなゆるみだった。
「呼んだの、お前だろ」
その言い方があまりにも当然で、紬は思わず目を伏せた。
そうだ。呼んだのは自分だ。
自分から手を伸ばして、来てほしいとまでは言わなかったくせに、少しだけ話したいと伝えた。朝比奈はそれを読んで、ここまで来たのだ。
胸の奥で、張りつめていたものが少しだけほどける。
「……すみません」
紬が小さく言うと、朝比奈は首を振った。
「謝るなら帰る」
「何でですか」
「お前、またそういう顔してる」
言われて、紬は顔を上げた。
朝比奈はもう向かいの席に手をかけている。座ってもいいかと聞く前に、来る前からそのつもりだったみたいな自然さで、椅子を少しだけ引いた。
その動きに、紬の中で何かが静かに着地する。
制服でも店員でもない朝比奈が、ただ自分に会うためだけに、今ここにいる。
それがわかった途端、今日の誕生日は、まだ終わっていないのかもしれないと思えた。
画面の上には、たった一行の文が静かに並んでいる。
少しだけ、話せますか。
それだけだ。
それだけなのに、自分の中の何かを決定的に越えてしまった気がした。
店員が水を足しに来ても、紬はうまく顔を上げられなかった。
注文もしていないのに座り続けるのは不自然だと思って、ドリンクバーだけを追加した。グラスの中の氷はほとんど溶けていて、そこへ新しく炭酸を注ぐ音が、やけに大きく聞こえる。
返事はすぐには来なかった。
当然だ、と紬は思う。
今日は休みなのだ。店にいないのだから、すぐ見られるとは限らない。そもそも、見たところで来る義理もない。昨日の空気のあとで、わざわざ時間を割いてまで会おうと思う方が、たぶん少数派だ。
それでも、スマホの画面が暗いままなのを確認するたび、胸の奥は少しずつ冷えていった。
窓の外では、ロータリーを回るバスの本数が減り始めていた。制服姿の客も少なくなって、店内のざわめきは夜のものに変わりつつある。隣の席では仕事帰りらしい二人組が遅い夕食をとっていて、奥の家族連れは帰り支度を始めていた。店内放送の音楽も、昼間より少し落ち着いた曲に変わっている。
帰るなら今だ、と思う。
返事が来ないなら、それが答えだ。そう思って立ち上がってしまえば、きっと楽になれる。少なくとも、これ以上待って、自分がひとりで期待していたことだけは認めずに済む。
けれど、紬は席を立てなかった。
もともと誕生日なんて、ただやりすごす日のはずだった。
それが、気づけば“少しだけ違う日”になるかもしれないと思ってしまった。
その可能性が、まだ完全に消えたと言い切れないあいだは、どうしてもこの席から動けなかった。
閉店が近いのだろう。店員がテーブルの端に立て札を置きながら、ラストオーダーの時間を告げて回り始める。紬の席にも、若いアルバイトの店員が来て、少し困ったような笑顔を向けた。
「すみません、ラストオーダーになります」
「あ、はい……」
紬は慌ててメニューに目を落とした。
何も食べる気はしない。けれど水だけで座り続けるわけにもいかない。結局、いちばん軽いデザートを指さしかけた、そのときだった。
入口の自動ドアが開く音がした。
反射みたいに顔が上がる。
夜の空気が、店内のあたたかさを一瞬だけ押し返した。
入ってきた人影は、制服でもエプロンでもなかった。
黒に近いグレーのパーカー。
白いTシャツの襟元。
ラフに履いた細身のデニム。
片手にはスマホだけを持っていて、肩には何も掛けていない。
朝比奈だった。
私服の朝比奈は、学校で見るより少し年上に見えた。店で働いているときの張った空気もなく、肩の力が抜けている。なのに、顔を上げて店内を見回したときの目だけは、紬が知っている朝比奈のままだった。
その視線が、窓際の席で止まる。
紬は立ち上がることもできず、ただ椅子に座ったまま、その目を受け止めた。
本当に来た。
それだけで、喉の奥が急に熱くなる。
朝比奈はレジに一言何か告げてから、まっすぐこちらへ歩いてきた。
足音は思ったより静かだった。制服でもエプロンでもないぶん、逆に“朝比奈朔”という個人だけがそのまま近づいてくるみたいで、紬はうまく息が吸えない。
テーブルの横で立ち止まる。
「遅くなった」
低い声。
店の中で聞くときより少しだけやわらかい。仕事中じゃないぶん、余計な力が抜けているのかもしれなかった。
紬はすぐには返事ができなかった。
来ると思わなかった。来てほしいと思っていたくせに、本当に来るとは思っていなかった。
ようやく出た声は、少しかすれていた。
「……来ると思わなかったです」
朝比奈はそれを聞いて、ほんの少しだけ口元を動かした。笑ったというほどでもない、小さなゆるみだった。
「呼んだの、お前だろ」
その言い方があまりにも当然で、紬は思わず目を伏せた。
そうだ。呼んだのは自分だ。
自分から手を伸ばして、来てほしいとまでは言わなかったくせに、少しだけ話したいと伝えた。朝比奈はそれを読んで、ここまで来たのだ。
胸の奥で、張りつめていたものが少しだけほどける。
「……すみません」
紬が小さく言うと、朝比奈は首を振った。
「謝るなら帰る」
「何でですか」
「お前、またそういう顔してる」
言われて、紬は顔を上げた。
朝比奈はもう向かいの席に手をかけている。座ってもいいかと聞く前に、来る前からそのつもりだったみたいな自然さで、椅子を少しだけ引いた。
その動きに、紬の中で何かが静かに着地する。
制服でも店員でもない朝比奈が、ただ自分に会うためだけに、今ここにいる。
それがわかった途端、今日の誕生日は、まだ終わっていないのかもしれないと思えた。



