食事を終えてもしばらく席を立たず、紬はグラスの氷が小さくなるのを見ていた。窓の外は、さっきよりも少しだけ青みを失っている。駅前のロータリーに灯りがつきはじめ、通り過ぎる人の顔も、だんだん輪郭だけになっていく。
そろそろ帰るか、とようやく思ったのは、店内のざわめきが少し変わったからだった。制服姿の高校生が減って、代わりに仕事帰りらしい大人の客が増えはじめる。夕方と夜の境目が、店の中でも入れ替わる時間だ。
会計を済ませ、レシートを財布に押し込んで店を出る。自動ドアの外の空気は、冷房に慣れた頬には少し生ぬるかった。
駅へ向かって歩きながら、紬はイヤホンを耳に差し込んだ。けれど、何も流れない。接続の表示も出ない。電池が切れたのかと思って画面を見ると、見慣れたはずのロック画面に、ほんの少しだけ違和感があった。
壁紙が違う。
紬は足を止めた。
表示されているのは、黒に近い青の無地。自分が設定している、薄い灰色の空の写真ではない。慌ててホームボタンを押す。反応の速さも、指に返る感触も、いつものものと微妙に違う。
「……うそ」
反射的に振り返ると、さっき出てきたばかりのファミレスの看板が、数十メートル先に見えた。
会計のときだ。トレーの横に一瞬置いたスマホを、そのまま取り違えたのだと気づく。よりによって、こんなことがあるのかと思いながら、紬は小さく息をついて足を返した。
面倒だ、と思う。
けれど、自分のスマホが手元にないまま帰る方が、もっと面倒だった。
店に戻ると、さっきより少しだけ混みはじめていた。入口で立ち止まり、近くにいた店員に「すみません」と声をかける。だが、うまく状況を説明する前に、その店員の向こうから別の声がした。
「瀬戸?」
呼ばれて、紬はそちらを見た。
黒いエプロンをつけた男子生徒が、レジ横の通路に立っていた。背が高く、照明の下でも表情があまり動かない。その顔には見覚えがあった。同じ高校の三年生。廊下ですれ違ったことが何度かある程度で、話したことはない。
名前までは知らなかったはずなのに、向こうは紬のことを知っているらしい。たぶん、学年が違っても名字くらいは名簿や何かで見たことがあるのだろう。そう考えるより先に、相手が手にしているものに目がいった。
自分のスマホだった。
「これ、お前のだろ」
差し出されたそれを見て、紬は無言でうなずいた。
先輩は、というより、その店員姿の三年生は、自分のポケットからもう一台のスマホを出して軽く持ち上げる。
「たぶん会計のとき。気づいたの、今」
「……すみません」
なぜ自分が謝っているのかわからないまま言うと、相手は首を振った。
「いや、こっちも見てなかった。悪い」
声は低かったが、投げやりではなかった。
必要なことだけを、余計な愛想なくきちんと言う声音だった。
紬は差し出されたスマホを受け取る。手の中の重さが、やっとしっくりくる。ほっとした、その瞬間だった。
画面がふっと明るくなった。
通知が一件、ロック画面の上に滑り込む。
今週末まで有効、バースデークーポン配信中。
そんな文字列が、やけにくっきりと見えた。
紬の指先が止まる。
見られた。
そう思ったのは、その三年生――名札に小さく書かれた「朝比奈」の文字を、ちょうど紬が読んだのと同時だった。朝比奈は一瞬だけ画面に目をやり、それからすぐに視線を外した。見ていないふりをするでもなく、気まずそうに逸らすでもなく、ただ、必要以上にそこに触れないという感じで。
その態度が、かえって紬を落ち着かなくさせた。
「確認して」
朝比奈が言う。
紬は急いでロックを解除し、ホーム画面を開いた。見慣れた配置。メッセージアプリ。ニュース。学校からの連絡。間違いなく自分のものだ。
「……大丈夫です」
「そっちも?」
言われて、紬はさっきまで持っていたスマホ――朝比奈のものを差し出す。朝比奈は受け取ると、片手で慣れたように画面を確認し、小さくうなずいた。
「平気。ありがと」
ありがと、という言葉が、この人の口から出るのが少し意外だった。
もっと事務的に終わると思っていたからかもしれない。
近くを通った店員が「大丈夫でしたか」と尋ねると、朝比奈は「あ、はい、すみません」と短く返す。その声音は、さっき紬に向けたものよりわずかにやわらかかった。客と店員、先輩と後輩、そのどちらともつかない微妙な立ち位置のせいで、紬は自分がどういう顔をしていればいいのかわからなくなる。
「じゃ」
と言って、紬は半歩下がった。
本当は「失礼します」くらい言うべきなのかもしれない。でも、それを口にすると、さっきの通知のことまで意識してしまいそうで、余計な言葉を足したくなかった。
朝比奈も引き留めなかった。ただ、「気をつけて」とも「また」とも言わず、ほんの少しだけ顎を引いた。その仕草だけで、会話は終わったのだとわかった。
紬は踵を返して店を出る。
今度こそ駅へ向かって歩きながら、手の中のスマホをぎゅっと握った。通知はもう消えている。けれど、さっきロック画面に浮かんだ文字は、目の裏に残っていた。
バースデークーポン。
そんなものを、よりによって知らない先輩に見られるなんて、最悪だと思う。
なのに、不思議と、ただの最悪だけでは終わらなかった。
朝比奈、という名前を頭の中で一度だけなぞる。
無口で、少し近寄りがたくて、でも雑ではなかった。
見てしまったことを誤魔化そうとも、面白がろうともせず、何もなかったみたいに視線を外した人。
駅前の信号が青に変わる。
人の流れに紛れながら、紬は自分でも説明できない引っかかりを、振り切れないまま家路についた。
そろそろ帰るか、とようやく思ったのは、店内のざわめきが少し変わったからだった。制服姿の高校生が減って、代わりに仕事帰りらしい大人の客が増えはじめる。夕方と夜の境目が、店の中でも入れ替わる時間だ。
会計を済ませ、レシートを財布に押し込んで店を出る。自動ドアの外の空気は、冷房に慣れた頬には少し生ぬるかった。
駅へ向かって歩きながら、紬はイヤホンを耳に差し込んだ。けれど、何も流れない。接続の表示も出ない。電池が切れたのかと思って画面を見ると、見慣れたはずのロック画面に、ほんの少しだけ違和感があった。
壁紙が違う。
紬は足を止めた。
表示されているのは、黒に近い青の無地。自分が設定している、薄い灰色の空の写真ではない。慌ててホームボタンを押す。反応の速さも、指に返る感触も、いつものものと微妙に違う。
「……うそ」
反射的に振り返ると、さっき出てきたばかりのファミレスの看板が、数十メートル先に見えた。
会計のときだ。トレーの横に一瞬置いたスマホを、そのまま取り違えたのだと気づく。よりによって、こんなことがあるのかと思いながら、紬は小さく息をついて足を返した。
面倒だ、と思う。
けれど、自分のスマホが手元にないまま帰る方が、もっと面倒だった。
店に戻ると、さっきより少しだけ混みはじめていた。入口で立ち止まり、近くにいた店員に「すみません」と声をかける。だが、うまく状況を説明する前に、その店員の向こうから別の声がした。
「瀬戸?」
呼ばれて、紬はそちらを見た。
黒いエプロンをつけた男子生徒が、レジ横の通路に立っていた。背が高く、照明の下でも表情があまり動かない。その顔には見覚えがあった。同じ高校の三年生。廊下ですれ違ったことが何度かある程度で、話したことはない。
名前までは知らなかったはずなのに、向こうは紬のことを知っているらしい。たぶん、学年が違っても名字くらいは名簿や何かで見たことがあるのだろう。そう考えるより先に、相手が手にしているものに目がいった。
自分のスマホだった。
「これ、お前のだろ」
差し出されたそれを見て、紬は無言でうなずいた。
先輩は、というより、その店員姿の三年生は、自分のポケットからもう一台のスマホを出して軽く持ち上げる。
「たぶん会計のとき。気づいたの、今」
「……すみません」
なぜ自分が謝っているのかわからないまま言うと、相手は首を振った。
「いや、こっちも見てなかった。悪い」
声は低かったが、投げやりではなかった。
必要なことだけを、余計な愛想なくきちんと言う声音だった。
紬は差し出されたスマホを受け取る。手の中の重さが、やっとしっくりくる。ほっとした、その瞬間だった。
画面がふっと明るくなった。
通知が一件、ロック画面の上に滑り込む。
今週末まで有効、バースデークーポン配信中。
そんな文字列が、やけにくっきりと見えた。
紬の指先が止まる。
見られた。
そう思ったのは、その三年生――名札に小さく書かれた「朝比奈」の文字を、ちょうど紬が読んだのと同時だった。朝比奈は一瞬だけ画面に目をやり、それからすぐに視線を外した。見ていないふりをするでもなく、気まずそうに逸らすでもなく、ただ、必要以上にそこに触れないという感じで。
その態度が、かえって紬を落ち着かなくさせた。
「確認して」
朝比奈が言う。
紬は急いでロックを解除し、ホーム画面を開いた。見慣れた配置。メッセージアプリ。ニュース。学校からの連絡。間違いなく自分のものだ。
「……大丈夫です」
「そっちも?」
言われて、紬はさっきまで持っていたスマホ――朝比奈のものを差し出す。朝比奈は受け取ると、片手で慣れたように画面を確認し、小さくうなずいた。
「平気。ありがと」
ありがと、という言葉が、この人の口から出るのが少し意外だった。
もっと事務的に終わると思っていたからかもしれない。
近くを通った店員が「大丈夫でしたか」と尋ねると、朝比奈は「あ、はい、すみません」と短く返す。その声音は、さっき紬に向けたものよりわずかにやわらかかった。客と店員、先輩と後輩、そのどちらともつかない微妙な立ち位置のせいで、紬は自分がどういう顔をしていればいいのかわからなくなる。
「じゃ」
と言って、紬は半歩下がった。
本当は「失礼します」くらい言うべきなのかもしれない。でも、それを口にすると、さっきの通知のことまで意識してしまいそうで、余計な言葉を足したくなかった。
朝比奈も引き留めなかった。ただ、「気をつけて」とも「また」とも言わず、ほんの少しだけ顎を引いた。その仕草だけで、会話は終わったのだとわかった。
紬は踵を返して店を出る。
今度こそ駅へ向かって歩きながら、手の中のスマホをぎゅっと握った。通知はもう消えている。けれど、さっきロック画面に浮かんだ文字は、目の裏に残っていた。
バースデークーポン。
そんなものを、よりによって知らない先輩に見られるなんて、最悪だと思う。
なのに、不思議と、ただの最悪だけでは終わらなかった。
朝比奈、という名前を頭の中で一度だけなぞる。
無口で、少し近寄りがたくて、でも雑ではなかった。
見てしまったことを誤魔化そうとも、面白がろうともせず、何もなかったみたいに視線を外した人。
駅前の信号が青に変わる。
人の流れに紛れながら、紬は自分でも説明できない引っかかりを、振り切れないまま家路についた。



