ぼっちの誕生日に、知らない先輩のスマホが鳴った

 気づいたときには、紬はもう玄関で靴を履いていた。

 どうして外へ出ようとしているのか、自分でもうまく説明できなかった。父からのメッセージを閉じて、しばらくベッドに座ったままだったはずなのに、次に意識がつながったときには、薄手のパーカーを羽織って、鍵と財布だけをポケットに入れていた。

 駅前に行く。
 ただ、それだけのことのはずだった。

 ファミレスに行こう、と明確に決めたわけではない。行ったところで朝比奈がいるとは限らないし、いたとしても、今日が休憩の日なのかどうかもわからない。昨日あんなふうに席を立っておいて、何事もなかったみたいに顔を出すのもおかしい。そういう理屈は、家を出るまでにいくらでも思いついた。

 それでも、足は駅の方へ向かった。

 夜の住宅街は、昼よりも音が少ない。
 遠くで犬が一度だけ吠えて、どこかの家の風呂場の窓から換気扇の低い音が漏れている。通り過ぎる自転車も少なく、街灯に照らされた影だけが長く伸びた。
 紬はパーカーのポケットに手を入れ、少し早足で歩いた。立ち止まれば、自分が何をしているのか考えてしまう。考えたらたぶん、引き返してしまう気がした。

 駅前が近づくにつれて、人の気配が戻ってくる。コンビニの前に立つ学生、信号待ちの会社員、ロータリーへ滑り込むバス。何でもない夜の流れの中に紛れながら、紬は赤と黄色の看板を見上げた。

 ファミレスのガラス窓が、外の灯りを映していた。

 そこで初めて、胸の奥が少しだけ強く鳴る。
 ここまで来てしまった、と思う。
 来たからといって何かが変わるわけでもないのに、わざわざここまで来てしまった自分が、少しだけ滑稽で、でも引き返すには遅かった。

 自動ドアの前に立つ。
 ガラス越しに店内をのぞくと、窓際の席は空いていた。二人席のテーブルに白い照明が落ちていて、その向こうを見ようとして、紬は無意識に黒いエプロン姿を探した。

 いない。

 まだちゃんと中を見たわけでもないのに、そうわかった。
 同じ高校の制服を着ていても、店員服に着替えていても、朝比奈の立ち姿は、紬の目にはもうすぐわかるようになっていたらしい。

 自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」

 顔を上げると、知らないアルバイトの大学生が立っていた。
 その瞬間、胸のどこかがすっと冷える。朝比奈本人に会って断られるよりも、最初からいない方が、ずっと静かで、ずっと堪えた。

「お一人さまですか」

 紬は少し遅れてうなずいた。
「……はい」

 案内されるまでもなく、窓際の席へ向かう。
 いつもの席だった。けれど、いつもと何かが違う。椅子を引く音も、テーブルの感触も、窓の外のロータリーも変わっていないのに、そこに“向かい側”が欠けているだけで、店の中の空気まで少し違って感じられた。

 鞄は持ってきていない。足元には財布とスマホだけ。
 それが妙に心細くて、紬はすぐには座れなかった。椅子に手をかけたまま、視線だけで店内をもう一度探る。レジの横、ドリンクバーの前、厨房へ続く通路。
 やっぱり、いない。

 今日は休みなのだろう。
 それは当たり前のことだ。バイトなのだから、毎日いるわけがない。火曜日しか来ない自分の方が、むしろ店のリズムを何も知らない。
 そう思うのに、ひどく肩透かしを食らったような気分になる。

 紬はようやく席に座った。
 店内では、どこかのテーブルで小さな子どもが笑っている。別の席では制服姿の女子高生がスマホを見せ合っていた。ドリンクバーの機械音、厨房から流れてくる皿の触れ合う音、注文を取る店員の声。全部がいつも通りだ。
 いつも通りなのに、落ち着かない。

 もし自分が欲しかったのが、ただ家に帰るまでの時間をつぶせる場所なら、この店で十分なはずだった。
 窓際の席は空いているし、ドリンクバーだってあるし、周囲のざわめきは家の静けさよりずっとましだ。
 なのに、座って数十秒もしないうちにわかってしまう。今日は、この店そのものが欲しかったわけではないのだと。

 ほしかったのは、ここにいる誰かだった。

 テーブルの上に置いたスマホを見つめる。
 画面は暗いままだ。父からのメッセージは閉じたところで止まっているし、母からも何も来ていない。朝比奈からも、もちろん何もない。

 当たり前だ。
 連絡先を知っているわけでも、約束をしているわけでもない。昨日のあの空気のあとで、向こうから何かが来るなんて思っていなかった。
 それでも、ここへ来れば少しだけ何かが変わるんじゃないかと、どこかで思っていたのだろう。

 変わらなかった。
 正確には、変わらなかったことで、ようやくわかった。

 自分が会いたかったのは、ファミレスではなく、朝比奈だった。

 その事実が胸の真ん中で形になると、急に息が浅くなる。
 ただの店員じゃない。火曜日に少し話す先輩でもない。そう思ってしまっていた自分に、今さら気づく。
 窓際の席が特別だったんじゃない。向かいに朝比奈が座るかもしれないと思うから、その席が特別になっていたのだ。

 テーブルの端に置いた指先に、かすかに力が入る。
 ここで帰ればいい、と紬は思った。
 いないなら、今日はもう帰ればいい。これ以上ここに座っていても、みじめになるだけだ。
 なのに、すぐには立ち上がれなかった。

 ポケットの中のスマホが、やけに重く感じる。

 連絡先なんて知らない。
 知らないはずだった。
 けれど、先週だったか、ドリンクバーの前で朝比奈に呼ばれたとき、急ぎの連絡用だと言って見せられたシフト表の端に、店の連絡先と小さな業務用のメッセージアプリの画面が映っていた。そこに名前もあった。あのとき、紬は何気なく見ただけのつもりだったのに、どうしてか覚えている。
 あるいは、店のレシートに書かれた問い合わせ番号からたどれば、店宛てに何か送ることはできるのかもしれない。
 そんなことまで考えている自分に気づいて、紬は目を閉じた。

 送るのか。
 自分から。
 今まで、期待して傷つくくらいなら最初から何もしない方を選んできたのに。

 店内のざわめきの中で、紬はゆっくりとスマホを手に取った。
 画面を開く。暗いガラスに自分の顔がぼんやり映る。
 メッセージの入力欄を開いて、閉じて、もう一度開く。何度か息を整えてから、ようやく指を動かした。

 長い言葉は打てなかった。
 謝るのも違う気がした。誤解を解くには、ここでは足りない。
 だから、ほんとうに必要なことだけを書く。

 少しだけ、話せますか。

 打ち終えてから、送信ボタンの前で指が止まる。
 これを送ったら、待つことになる。既読がつくかもしれないし、つかないかもしれない。返事が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
 その全部が怖い。
 それでも、今ここで何もしないまま帰ったら、たぶん今日の誕生日はほんとうに“何もなかった日”として終わってしまう。

 紬は一度だけ目を閉じ、送信ボタンを押した。

 小さな送信音は、店のざわめきの中にすぐに消えた。
 それなのに、自分の胸の中だけでは、はっきりと響いた気がした。