ぼっちの誕生日に、知らない先輩のスマホが鳴った

 誕生日当日の朝、紬は目が覚めた瞬間に、今日がその日だと気づいた。

 目覚ましより少し早い時間だった。カーテンの隙間から薄い光が差し込んでいて、部屋の輪郭だけを白く浮かび上がらせている。天井を見たまま、紬はしばらく起き上がらなかった。起きたところで、何かが始まるわけでもない。けれど、起きなければ今日が来ないわけでもない。

 誕生日は、こちらの準備なんて待ってくれない。

 枕元のスマホを手に取る。通知は何も来ていなかった。
 母からも、父からも。学校の連絡も、ニュースアプリも、夜のあいだは静かなままだったらしい。

 それを見て、ほっとしたような、少しだけ胸の奥が沈んだような、どちらともつかない気持ちになる。
 来ていないなら待たなくていい。そう思える一方で、結局、何も変わらないのだと先に知らされたみたいでもあった。

 制服に着替えて、洗面所で顔を洗う。鏡の中の自分は、いつもどおりだった。目立って嬉しそうでもないし、わかりやすく暗くもない。ただ、少しだけ寝不足みたいな顔をしている。
 台所へ行くと、母が珍しく先に起きていた。エプロンの紐を結びながら、振り返る。

「おはよう」

「おはよう」

 それだけ。
 母はフライパンの上の卵焼きを返して、弁当箱の隙間に詰める。何か言うのかと思ったが、何も言わなかった。たぶん母は日にちを忘れているわけではない。忘れている人ならもっと気楽だ。覚えているけれど、どう触れればいいかわからない。そんな沈黙だった。

「今日、帰り少し遅くなるかも」
 母が弁当箱を閉じながら言う。
「会議長引いたら、九時過ぎる」
「うん」

 紬はそれだけ返して席に着いた。
 トーストをかじる。バターの塩気が口の中に広がる。特においしくもまずくもない。いつもの朝だ。少なくとも、そういうことにしておきたかった。

 学校へ向かう道でも、特別なことは何もなかった。
 電車は少し混んでいて、ホームでは知らない学生同士が肩をぶつけて謝っていた。教室では隣の席の男子が「今日の小テストやばい」と騒ぎ、前の席の女子は昼休みに食べるパンの話をしていた。誰も紬の顔を見て何かを察したりはしない。察されないことに安心しながら、同時に少しだけ取り残された気にもなる。

 昼休み、スマホが一度だけ震えた。

 心臓が反射的に強く打つ。
 けれど画面に表示されたのは、学校の連絡アプリだった。提出物の締切の通知。紬はそのまま画面を閉じる。期待したわけじゃない、とすぐに自分の中で言い訳が立ち上がる。期待なんてしていない。ただ、震えたから見ただけだ。誰だってそうする。

 けれど、昼休みが終わる頃には、その言い訳の薄さを自分でもわかっていた。

 朝比奈からは何も来ていない。

 昨日のことを思えば、それは当然だった。
 自分の方があんなふうに席を立ったのだから、向こうから連絡が来るはずもない。来たら来たで困るくせに、来ないことには別の痛みがある。そういう面倒な感情が、ずっと胸の奥に居座っている。

 放課後、紬はまっすぐ帰った。

 駅前で降りても、ファミレスの看板の方を見なかった。
 今日は火曜日じゃない。だから、行く理由はない。
 そんなふうに考えるのは半分だけ正しかった。今日は火曜日じゃないから、行っても会えるとは限らない。休憩時間が重なるわけでもない。向こうにしたって、来られても困るかもしれない。
 けれどもう半分では、行けばよかったのかもしれないとも思う。あの日から一度も顔を合わせていないまま今日を迎えるくらいなら、昨日のうちに、もう少し違う言い方ができたかもしれない。そんな“かもしれない”が、父のメッセージと同じくらい嫌いなのに、頭の中には簡単に居座る。

 家に帰ると、やはり母はまだいなかった。
 靴を脱ぎ、電気をつけ、鞄を自室へ置く。制服のままベッドに腰を下ろし、スマホを見た。何も来ていない。

 五時半を過ぎる。
 六時を過ぎる。
 カーテンの外の空が、少しずつ青から灰色に変わっていく。
 机の上のデジタル時計の数字だけが妙にくっきりして見えた。

 たとえば父が来るなら、そろそろ何か言ってくるはずだ。
 たとえば母が間に合うなら、何か買って帰るかもしれない。
 たとえば、朝比奈が――
 そこまで考えて、紬は目を閉じた。

 何を待っているんだろうと思う。
 待ちたくない。待つとろくなことにならないと、昔の自分が何度も教えてきたはずなのに。
 それでも今年だけは、少し違ってほしかった。そう思ってしまっていたらしい自分が、一番厄介だった。

 スマホが震えたのは、六時四十三分だった。

 音は小さいのに、胸の奥ではそれがひどく大きく響く。紬はすぐには手を伸ばせなかった。画面の明かりがベッドのシーツを白く照らしている。表示された名前を見る前から、たぶん父だとわかった。

 ゆっくり手に取る。
 開く。

 ――やっぱり無理だった。ごめん。また埋め合わせさせて。

 それだけだった。

 たったそれだけの文なのに、何度も読んでしまう。
 やっぱり。
 無理だった。
 ごめん。
 また埋め合わせさせて。

 どの言葉も見覚えがある。前にもどこかで読んだことがあるみたいに、既視感だけがやけに強い。実際、きっと似た文面は何度も受け取ってきたのだろう。
 そのたびに、平気な顔をするのが少しずつうまくなった。だから今回も、たぶん、できる。そう思ったのに。

「……今年も同じか」

 声に出してしまうと、思ったより低かった。
 怒っているわけでもない。泣いているわけでもない。ただ、どこか空っぽの音だった。

 同じ。
 今年も、やっぱり同じ。
 それなのに、今年だけは同じでいてほしくなかった。

 父から連絡が来て、朝比奈に「もし一人でいたくないなら」と言われて、昨日あんなふうにこじれて。いろんなことが少しずつ重なったせいで、今年だけは、誕生日がただの“何もない日”で終わらないかもしれないと思ってしまっていたのだ。
 その期待を認めたくなくて、ずっと否定し続けていたくせに、結局ちゃんと期待していた。

 ベッドの端に座ったまま、紬はスマホを握りしめた。
 画面の中の文字はもう変わらない。返信を打つ気にはなれない。責めたいわけでもないし、責めたところで何も戻らないことを知っている。
 ただ、胸の中にできた空洞だけが、言葉にしようのない形で広がっていく。

 そのとき、頭の中に浮かんだのは父の顔ではなかった。

 ファミレスの窓際席。
 紙コップの縁にかかる朝比奈の指。
 低い声で言われた、もし一人でいたくないなら、店、来れば、という一言。

 紬はそこで初めて、自分が今日、本当に会いたかった相手が誰だったのかを思い知る。

 父ではない。
 “ちゃんと来てくれる誰か”だったのかもしれない。
 そしてその顔を、今の自分は朝比奈で思い浮かべてしまう。

 それがまた少し痛かった。

 窓の外はすっかり暗くなっていた。
 部屋の中では時計の数字だけが進んでいく。
 紬はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
 それでも、胸の奥のどこかが、静かに駅前の方を向いているのがわかった。