ぼっちの誕生日に、知らない先輩のスマホが鳴った

 最初から見えていた。
 その言葉が落ちたあとの沈黙は、たぶん数秒しかなかった。けれど紬には、皿の上の湯気が完全に消えるくらい長く感じられた。

 朝比奈はカップに触れたまま、次の言葉を探しているようだった。
 言い方を間違えたと、さすがに気づいたのだろう。けれど、だからといって、きれいに取り消せるような話でもない。見えていたものは見えていたのだし、あの日の紬がどんな顔をしていたのかなんて、本人にだって正確にはわからないのだから。

「そういう意味じゃなくて」

 朝比奈がようやく言った。
 声は低く、いつもどおり静かだった。でも、その静かさが今はひどく遠い。

「どういう意味ですか」

 紬は自分でも驚くくらい平たい声で返した。
 怒鳴ってはいない。泣いてもいない。ただ、感情をこぼさないようにぎりぎりのところで押し固めた声になっている。

 朝比奈は一度だけ目を伏せ、それから紬を見た。

「放っておけないって思っただけ」

 その言葉が、胸のいちばん嫌な場所に刺さる。

 放っておけない。
 それはたぶん、優しい言い方なのだろう。人によっては救いにも聞こえるかもしれない。けれど紬には、その言葉が、自分が“放っておけない側の人間”として見られていた証明にしか聞こえなかった。

「……それ」

 紬は唇の内側を噛んだ。
 ここでやめればいい、とどこかで思う。これ以上聞けば、自分がもっと嫌な気持ちになるのはわかっている。それでも止まれなかった。

「同情ってことですよね」

 朝比奈の目がわずかに動く。
 それは驚いたのか、言い当てられたと思ったのか、すぐには判別できなかった。

「瀬戸」

「違うんですか」

 自分でも、いやな聞き方だと思う。
 でも、朝比奈が“違う”と言ってくれるなら、それで済むのかもしれないとも思っていた。最初に気づかれたのがどんな理由でも、今は違うと、ちゃんとそう言ってくれるなら。

 けれど朝比奈は、すぐには答えなかった。

 店の奥でベルが鳴る。
 どこかの席で椅子が引かれる。
 レジ前では、会計を待つ客の声が重なる。

 いつもの店の音がそのまま流れているのに、紬の耳には朝比奈の沈黙だけが大きく響いた。

「最初は」

 朝比奈が言う。
 たったそれだけで、紬の喉の奥が冷えた。

「……気になったから、っていうのはある」

 紬は目を閉じたくなった。
 最初は。
 ある。
 否定でも肯定でもない、逃げ道の残った言い方。朝比奈らしいといえば朝比奈らしいのかもしれない。わからないことをわからないままにしておける人の言い方。けれど今の紬には、その曖昧さが何より苦しかった。

「それ、同じじゃないですか」

 思ったより低い声が出た。
「可哀想だから気になったってことですよね」

「可哀想だとは言ってない」

「言ってなくても」

 紬は言いかけて、言葉を飲み込む。
 言ってなくても、そう見えた。そう感じた。たぶんそれで十分だった。

 朝比奈の表情は大きく変わらない。けれど、カップを持つ指先だけが少し強く縁を押さえているのが見えた。困っているのだろう。言葉がうまく見つからないのか、あるいは何を言っても今は間違うとわかっているのか。

 その様子に、紬はさらにみじめになる。

 困らせたいわけじゃなかった。
 責めたいわけでもない。
 ただ、放っておけないと思われた相手が自分だったという事実に、勝手に傷ついているだけだ。なのに、それをうまく隠せない自分がひどく子どもに思えた。

「俺は」

 朝比奈が口を開く。
「今は別に」

 そこでまた、一拍空いた。

 今は別に、何なのか。
 同情じゃないのか。
 気になってるだけじゃないのか。
 その続きが出る前に、紬の方が先に耐えられなくなる。

「もういいです」

 朝比奈が黙る。
 紬は自分の皿を見た。冷めた料理が半分以上残っている。フォークの先にはさっき切ったままの一切れが刺さっていたが、食べる気にはなれなかった。

「瀬戸」

「いいですって」

 今度は、はっきり遮った。
 そこでようやく、周りの空気が少しだけこちらに触れた気がした。隣の席の客が一瞬だけ視線を上げたような気配。聞こえるほど大きな声ではないのに、感情はそれだけで周囲へ滲む。

 紬はナプキンをテーブルに置いた。
 鞄を足元から取り上げる。椅子の脚が床を擦って、思ったより大きな音がした。

「帰ります」

「まだ食べてないだろ」

「食欲ないんで」

 朝比奈も立ち上がりかけた。
 その動きに、紬の胸がさらにざわつく。引き止められたくないのに、追ってこられたらもっと苦しいのに、それでも立ち上がる気配に期待みたいなものが混ざってしまう自分が嫌だった。

「……悪かった」

 朝比奈が言う。
 その言葉はたしかに誠実だった。軽く済ませようとする謝り方ではない。けれど、今の紬にはもう遅い。何に対する謝罪なのかが曖昧なままでは、かえって痛かった。

「何がですか」

 思わずそう返してしまう。
 朝比奈は言葉に詰まった。

 見たことか、と思う。
 そう思った自分に、紬はすぐ後悔する。こんなふうに相手の言葉尻を追い詰めたいわけじゃない。ただ、曖昧なまま優しくされるのが、一番苦しいだけだ。

「……ごちそうさまでした」

 紬はそれだけ言って視線を外した。
 注文した料理がほとんど残っていることに気づき、少しだけ喉が熱くなる。店員のいる場所で、こんなふうに席を立つのは最低だと思う。朝比奈に迷惑がかかるかもしれないとも思う。
 でも、それでもここに座り続ける方がずっと無理だった。

 伝票をつかみ、足早にレジへ向かう。
 背中に何か言葉が飛んでくる気がしたが、結局、朝比奈は何も言わなかった。

 会計をしているあいだ、手のひらが少し湿っていた。店員が「ありがとうございました」と言う。紬も反射的に頭を下げる。そういう形だけの礼儀はちゃんとできるのに、中身はどこか全部崩れていた。

 自動ドアが開く。
 夜の空気が流れ込む。外は思ったより冷えていて、店内のぬるい空気を一気に押し返した。

 紬は足早に歩き出した。
 駅前の信号も、ロータリーの灯りも、何も見たくなかった。スマホは鞄の中で静かなままだ。父からも、母からも、誰からも来ていない。なのに胸の内側だけがひどく騒がしい。

 最初は、気になったから。
 放っておけないって思っただけ。
 その言葉たちが、何度も頭の中で反響する。

 わかっている。朝比奈はたぶん悪くない。
 見えたものを見えたと言っただけで、変にごまかさなかっただけだ。自分を救う役を気取ったわけでもない。
 それでも、最初の自分が“そういう目”で見られていたのだと知った瞬間から、火曜日の窓際席まで少しだけ違う場所になってしまった。

 優しさが痛いときがあるなんて、紬はたぶん前から知っていた。
 ただ、その痛みをくれる相手が朝比奈だとは、思っていなかった。