ぼっちの誕生日に、知らない先輩のスマホが鳴った

 その火曜日、紬はいつもより少し早く店に着いた。

 理由ははっきりしている。
 誕生日が近づいているせいだ。

 父からの「会えるかもしれない」という曖昧なメッセージは、結局そのあと何も続かなかった。来るのか来ないのか、待っていればいいのか、最初から忘れていた方がいいのか、そのどれも決まらないまま、日だけがじわじわ近づいてくる。
 紬はそういう宙ぶらりんな時間が嫌いだった。来るかもしれない、で止まっている期待は、来ないと決まってしまうよりたちが悪い。

 店に入ると、まだ夕方の混み始める前で、窓際の席はきれいに空いていた。
 朝比奈はレジ奥にいて、客席より厨房側の伝票を確認しているらしかった。紬に気づくと、いつものように何でもない顔でこちらを見る。

「早い」

 それだけ言う。
 紬は鞄を椅子の脇に置きながら、小さく肩をすくめた。

「授業、早く終わったので」

「ふうん」

 それ以上聞かれないことに、少しだけほっとする。
 早く終わった、は半分本当で半分嘘だ。早く終わったのは事実だが、そのまま寄り道せずにここへ来たのは、自分でもうまく説明できない。家に帰りたくない気分の日は前からあった。でも今はそれだけじゃない気がしていて、その違いを自分の中で名前にしたくなかった。

 注文を済ませてしばらくすると、店内には少しずつ客が増え始めた。制服姿の高校生が二組、仕事帰りらしい男女が一組。ドリンクバーの機械音、皿の触れ合う音、レジの電子音。どれも慣れた店の音なのに、今日はどこか膜を一枚挟んだ向こうにあるみたいだった。

 料理が来ても、紬はすぐには手をつけなかった。
 スマホは鞄の中に入れたままだ。出せば、父から新しい連絡が来ていないことを確認してしまう。来ていないことに安心する自分と、少しだけ期待していたことを知らされるのが嫌だった。

 テーブルの上の水滴を指先でなぞっていると、通路の向こうから朝比奈が歩いてきた。
 今日は紙コップではなく、小さな湯のみみたいな店のカップにコーヒーを入れている。忙しさがひと段落したらしい。

「ここ、いい?」

「……どうぞ」

 向かいに座る。
 朝比奈はコーヒーをひとくち飲み、テーブルの上に置いた。そのまま何も言わない。紬も何も言わない。
 この沈黙は、前なら救われる方の静けさだった。けれど今日は、少しだけ重い。

 その重さを破ったのは朝比奈の方だった。

「この前の話」

 紬は顔を上げる。
「父親の」

 胸の奥が、わずかに固くなる。
 朝比奈の声はいつもと同じで、探るようでも、気を遣うようでもなかった。ただ話題をそこへ置いただけの響きだった。

「……はい」

「今年は来るかもしれない、ってやつ」

 紬は曖昧にうなずく。
 その先を自分から言うつもりはなかったし、朝比奈も別に続きを催促しないだろうと思った。けれど、数秒のあとで彼はふいに言った。

「最初、通知見えたときから、そういうの苦手なんだろうなって思ってた」

 紬の指が止まる。
「……通知?」

「最初のとき。取り違えた日」

 それだけで意味はわかった。
 ロック画面に一瞬表示された、バースデークーポンの通知。あの日、朝比奈が視線を外したのを、紬は覚えている。

 けれど、覚えているのと、今こうして言葉にされるのとはまるで違った。

「見てたんですか」

 声が、自分でもわかるくらい硬くなる。
 朝比奈は一拍遅れて、その硬さに気づいたようだった。

「いや、見ようとして見たわけじゃない。たまたま目に入った」

「……同じです」

 紬はすぐにそう返した。
 自分でも、少し言いすぎだと思う。だが止められなかった。見ようとしていなくても、見えたことには変わりない。しかもそれを覚えていて、今ここで口にしている。

 朝比奈はカップに触れたまま、少しだけ眉を寄せる。
「悪い」

「別に」

 いつもの言葉を口にした瞬間、その薄っぺらさに自分で腹が立つ。
 別に、じゃない。ぜんぜん別にじゃない。見られたくなかった。思い出したくもなかった。あの日の自分に“誕生日”という文字が重なった、その一瞬ごと見透かされた気がする。

 朝比奈はしばらく黙っていたが、やがて低い声で続けた。

「通知だけじゃなくて」

 紬は顔を上げない。
 けれど次の言葉は、聞こえてしまう。

「あの日、お前、すごく一人でいる顔してた」

 胸の奥で、何かがぴんと引きつる。

 一人でいる顔。
 そんなものがあるのかと、まず思った。
 けれど、あるのかもしれない。家に帰りたくなくて、窓際の席に長く座って、誕生日の通知を見たくなくて、スマホを伏せて。そういう日に纏う空気みたいなものを、朝比奈は見ていたのだろうか。

 それがたまらなく嫌だった。

 可哀想だと思われた気がした。
 放っておけない後輩、みたいなものとして最初から見られていた気がした。
 気づいてほしかったわけじゃない。少なくとも、そんなふうには。

「……何ですか、それ」

 紬はようやく顔を上げた。
 朝比奈は少しだけ目を細める。自分の言葉が相手にどう届いたのか、まだ半分しかわかっていない顔だった。

「そのままだけど」

「全然、わからないです」

 声が、少し上ずる。
 周りのテーブルでは誰かが笑っている。グラスが触れ合う音もする。店の中は何も変わっていないのに、ここだけ空気がひどく薄くなったみたいだった。

 朝比奈は何か言おうとして、やめた。
 その一瞬のためらいが、紬には余計に苦しかった。たぶん本当に悪気はないのだろう。見えたことをそのまま言っただけ。気づいたことを隠さなかっただけ。
 でも、それがいちばん残酷なときがある。

 紬はテーブルの上のフォークを持ち直す。手のひらが少し冷たい。
 料理はまだ半分以上残っているのに、もう味なんてしなかった。

 最初から見えていた。
 誕生日の通知も、一人でいる顔も。
 この席に座っていた自分のことを、朝比奈は最初からそういうふうに見ていたのだ。

 その事実だけが、静かに、けれど確実に胸の奥へ沈んでいった。