ぼっちの誕生日に、知らない先輩のスマホが鳴った

 誕生日の三日前、父から久しぶりにメッセージが来たのは、昼休みの終わりだった。

 教室にはまだざわめきが残っていて、前の席の男子が机を後ろに向けたまま、週末の予定を誰かと話していた。窓の外では体育の授業らしい笛の音が鳴っている。そんな、どこにも特別なもののない昼の終わりに、スマホが一度だけ短く震えた。

 画面に表示された名前を見た瞬間、紬は無意識に背中を伸ばしていた。

 父。

 その二文字は、何度見ても少しだけ体の内側を固くさせる。
 開くか迷って、結局すぐには触れられなかった。通知欄に見えているのは短い一文だけだ。

 ――今年は、会えるかもしれない。

 その“かもしれない”が、ひどく厄介だった。

 来る、と言い切ってくれた方がまだましだ。来ない、と先にわかっていた方が、もっと楽だ。けれど“会えるかもしれない”は、待つ側にだけ、勝手に余白を作る。そこへ期待が入り込む。

 紬は結局、授業が始まるチャイムが鳴るまでそのメッセージを開けなかった。
 五時間目の古典の最中も、ノートの余白に視線を落とすふりをしながら、頭の中ではずっとその一文が繰り返されていた。

 今年は、会えるかもしれない。
 会える“かもしれない”。

 放課後、駅へ向かう足取りは、いつもより少しだけ重かった。

 火曜日だ。
 本当なら、教室を出る頃から少しずつ胸が軽くなっていくはずの日だった。ファミレスの窓際席と、ガラス越しのロータリーと、黒いエプロンの背中を思い出すだけで、家に帰るまでの時間がほんの少し楽になる日。

 なのに今日は、父からのメッセージがその道の真ん中に座り込んでいて、うまく跨いで通れない。

 ファミレスの自動ドアが開く。
 冷房の空気と、スープと油の匂いが混ざったいつものにおい。店内はほどよく混んでいて、ドリンクバーの氷の音や誰かの笑い声があちこちで小さく重なっている。

「いらっしゃいませ」

 顔を上げると、朝比奈がいた。

 その瞬間、紬は自分の顔が少しだけ救われたのを感じた。
 たったそれだけのことで、さっきまで肺の上に乗っていた重さがわずかにずれる。

「窓際、空いてる」

 いつも通りの短い言い方。
「……はい」

 紬は席に着き、鞄を足元に置く。メニューを開く手つきが、今日は少し鈍い。何を頼むか決めるのに迷っているわけじゃない。ただ、考えようとすると、すぐ別のことが割り込んでくる。

 会えるかもしれない。
 その一文を、朝比奈に見透かされるわけがないのに、妙に落ち着かなかった。

 注文を取りに来たのは別の店員で、紬は無難な軽食とドリンクバーを頼んだ。スマホは出さないままにしておく。画面を見たら、またあの一文が目に入る。そうわかっていた。

 けれど、伏せたままでも気配は消えない。

 料理が運ばれてきても、紬はしばらく手をつけなかった。
 窓の外を見る。バスが一台入ってきて、数人の学生が降りる。信号が変わる。ロータリーの端で自転車が一台止まる。何も考えなくていい景色のはずなのに、今日はどれも薄い膜の向こうにあるみたいだった。

「食べないの」

 低い声がして、紬は顔を上げた。

 朝比奈が水差しを持ったまま、テーブルの横に立っている。グラスの水を足すでもなく、ただ少しだけこちらを見ていた。

「……食べます」

「そう」

 それだけ言って去っていく。
 その何でもないやり取りのあと、紬はようやくフォークを持った。

 食事の味は、今日はほとんどわからなかった。
 それでも、向かいの席に誰かが来るかもしれないと思うと、少しだけ手の動きが戻る。朝比奈が休憩に入る時間を、紬はもうなんとなく知っている。店が少し落ち着いて、レジ前の流れが途切れたころ。そういうのを知っている自分が少し可笑しくて、でも今はその可笑しさに救われてもいた。

 十分後、思ったとおり朝比奈が紙コップのコーヒーを持ってやってきた。

「ここ、いい?」

「……どうぞ」

 向かいに座る。
 今日の朝比奈は、いつもより口数が少ないようにも、変わらないようにも見えた。違うのはたぶん紬の方だ。相手が同じでも、自分の内側がざわついていると、全部が少しずれて感じる。

 朝比奈はコーヒーに口をつけてから、ふいに言った。

「今日、静かだな」

 紬はフォークを持ったまま止まった。
「いつも静かです」

「そういう静かじゃなくて」

 朝比奈は言葉を探すみたいに少しだけ視線をずらした。
「考えごとしてる感じの方」

 そう言われて、紬は思わず苦く笑いそうになる。
 やっぱりこの人は、変なところばかり見てくる。

「顔に出てました?」

「ちょっと」

「最悪だ」

「最悪ではないだろ」

 いつもなら、そこで少し笑えたはずだった。
 けれど今日は、その先の言葉が出てこない。朝比奈はそれを急かさなかった。紙コップの縁を親指で押さえたまま、紬が口を開くのを待つでもなく、ただそこに座っている。

 その待たなさが、かえって紬を話しやすくさせる。

「……父から、連絡が来て」

 言ってしまってから、少しだけ後悔した。
 家のことを、自分から誰かに言うのは久しぶりだった。しかも相手は、クラスメイトでもない。火曜日にしか会わない、バイト中の先輩だ。

 朝比奈は「うん」とだけ返した。
 その一音が、続きを要求しない形で置かれる。

「今年は会えるかもしれないって」

 紬は視線を皿に落としたまま言った。
「……たぶん、会えないんだと思います」

 朝比奈はすぐには何も言わなかった。
 慰めもしないし、「そんなことないだろ」と軽くも言わない。店内のざわめきの中で、紙コップを持つ指先だけが少し動く。

「会いたいの」

 問い方はまっすぐだった。
 紬はその言葉に、一瞬だけ息を止める。

 会いたいのか。
 昔なら、たぶん会いたかった。来ると言われれば疑いなく待っていた。今はどうだろう。父そのものに会いたいのか、約束がちゃんと守られる一日がほしいのか、自分でもよくわからない。ただ、来るかもしれないと言われた瞬間に胸が揺れたのは事実だった。

「……わかんないです」

 ようやくそう答えると、朝比奈は「そっか」とだけ言った。
 それ以上、父のことも、誕生日のことも掘り下げない。

 沈黙が落ちる。
 けれど気まずくはなかった。店の奥で食器が触れ合う音がして、誰かが追加注文を頼んでいる声が遠く混ざる。その全部が背景に下がって、テーブルの上だけが少し静かになる。

 朝比奈は紙コップを置き、視線を窓の方へ流したまま、何でもない声で言った。

「もし一人でいたくないなら」

 紬は顔を上げる。

「店、来れば」

 その言い方は軽かった。
 特別な約束みたいに重くならないように、わざと軽くしたのかもしれない。
 来てほしい、とも。待ってる、とも。誕生日だから何かしてやる、とも言わない。ただ、“来れば”とだけ、場所を差し出す。

 紬は返事ができなかった。

 そんな誘い方はずるいと思う。
 優しすぎないのに、断りにくい。期待させるくせに、期待しすぎて傷つくほどの形にはなっていない。逃げ道がちゃんと残っている。だから、余計に心に残る。

「……別に」

 とっさに出そうになったいつもの言葉を、紬は飲み込んだ。
 別に、で切ってしまったら、この一言までなかったことにしてしまいそうだったから。

「考えときます」

 代わりに出たのは、それだった。
 朝比奈は一瞬だけ紬の顔を見て、それから小さくうなずく。

「ん」

 たったそれだけなのに、胸の奥のざわつきがさっきまでとは少し違うものになる。父のメッセージが作った不安の上に、朝比奈の一言が静かに置かれて、重さの形が変わる。

 紙コップの縁から立つわずかな湯気が、照明に溶けていく。
 紬は視線を皿へ戻した。冷めかけた料理を口に運ぶ。さっきまでより少しだけ味がする。

 朝比奈はそれ以上何も言わなかった。
 店の奥から呼ばれると、「はい」と短く返して立ち上がる。去り際、いつものように振り向きはしない。ただ、椅子を戻す手つきだけが少し丁寧だった。

 ひとりになってから、紬はグラスを持った。氷がからんと鳴る。

 もし一人でいたくないなら、店、来れば。

 その言葉を、心の中で一度だけなぞる。
 約束じゃない。
 だから、期待してもいいのかどうか、まだわからない。
 それなのに、帰り道も、家に着いてからも、その一言だけは繰り返し思い出してしまうのだと、紬はその時点でもう半分わかっていた。