ぼっちの誕生日に、知らない先輩のスマホが鳴った

 その日は、休憩に入るまで朝比奈がなかなかこちらへ来なかった。

 店は思ったより混んでいた。
 窓際の席から見える範囲だけでも、テーブルのほとんどが埋まっている。高校生のグループが二組、仕事帰りらしい大人が数人、奥には家族連れ。料理が運ばれるたび、皿の触れ合う音と、ソースの匂いが空気に混ざる。ドリンクバーの機械音まで、今日は少し忙しそうに聞こえた。

 紬はグラスの中の炭酸が抜けていくのを見ながら、さっきから何度目かわからないくらい通路の方へ目をやっていた。別に急いで話したいことがあるわけじゃない。ただ、視界のどこかに朝比奈がいるのを確認すると、なぜか少し落ち着く。いなければいないで、今日は忙しいのだろうと思うだけなのに、いるとわかる方がずっと楽だ。

 ようやく店の流れが一段落した頃、奥の席の片づけを終えた朝比奈が、厨房の方で誰かに呼び止められた。短く二、三言葉を交わしたあと、彼は小皿の載ったトレーを片手にこちらへ向かってくる。

 紬は思わず背筋を伸ばした。
 だが、運ばれてきたのは料理ではなかった。小さな白い皿。上には、四角く切られた淡いクリーム色のケーキがひと切れだけ乗っている。表面に薄く粉砂糖がかかっていて、その横に半分に切られた苺が添えられていた。

 朝比奈はその皿を、紬の前にではなく、テーブルの真ん中に置いた。

「新作」

 それだけ言う。
 紬は皿と朝比奈を見比べた。

「……何ですか、これ」

「試作」

「店で出すやつですか」

「来月かららしい」

「らしいって」

「俺が考えたわけじゃないから」

 そう言って、朝比奈は向かいの席に座った。手には今日はアイスコーヒーではなく、紙カップのホットコーヒーを持っている。忙しかったせいか、額の前の髪が少しだけ乱れていて、制服のシャツの袖もいつもより高くまくられていた。

 紬は皿を見たまま、すぐには手を伸ばさなかった。

「余ったんですか」

「余った」

「ほんとに?」

 朝比奈はコーヒーの縁に口をつけかけて、ほんの少しだけ止まった。

「……半分ほんと」

「半分」

「余らせた」

 紬は顔を上げた。
 朝比奈は言ってから少しだけ目をそらし、何でもない顔を作ろうとして失敗したみたいな表情をしている。ほんのわずかだが、それが可笑しくて、紬は笑いそうになるのをこらえた。

「店員がそういうことしていいんですか」

「だめなら持ってこない」

「それもそうですけど」

「食べないなら戻す」

「戻さなくていいです」

 あわてて言うと、朝比奈の目元がほんの少しだけゆるんだ。
 紬は観念してフォークを手に取る。ひと切れしかないケーキは、試すというより、ほんとうに“少しだけ食べてみろ”と言われているみたいな量だった。

 端を小さく切って口に入れる。
 思っていたより、甘さは強くなかった。しっとりしたスポンジの中に、ミルクっぽい軽いクリームが薄く挟まっていて、苺の酸味があとから追いついてくる。市販の派手な甘さではなく、ちゃんとデザートの味がした。

「……おいしいです」

「へえ」

「その反応なんですか」

「もっと嫌そうな顔するかと思った」

「別に甘いもの嫌いじゃないので」

 言ってから、しまったと思う。
 あまり大したことでもないのに、知られたくなかったわけではないのに、自分の“好き”をひとつ渡してしまった感じがした。

 朝比奈は頷きながら、ホットコーヒーをひとくち飲んだ。

「前もそんな顔してた」

「前?」

「コンビニの新作見て、立ち止まってるの」

 紬は一気に顔を上げた。
「見てたんですか」

「たまたま」

「絶対たまたまじゃないでしょう」

「店の前だから視界に入っただけ」

 言いながら、朝比奈は悪びれた様子もない。
 紬は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。コンビニのスイーツ棚の前で立ち止まったのは、確かにほんの数秒だったはずだ。それを見られていたのかと思うと落ち着かない。けれど、それ以上に、そんな細かなことまで視界に入っていたらしいことの方が、妙に胸に残った。

「……顔に出やすいんですかね」

「たぶん」

「また、たぶん」

「便利だからな」

 その言い方に、紬は小さく息を漏らした。
 ケーキをもうひとくち食べる。さっきより苺の酸味がよくわかった。甘いものを誰かの前で食べるのは、たぶん久しぶりだ。母の前ですら、わざわざ「好き」と言ったことはない気がする。好きだと認めると、その分だけ期待が増える。そういうものから、なるべく自分を遠ざけてきた。

 なのに今は、目の前に小皿があって、向かいに朝比奈がいて、自分が少しずつそれを食べている。その状況が不思議なくらい自然だった。

「朝比奈さん、今日ちょっと疲れてます?」

 言ってから、紬は自分でも驚いた。
 そんなことを口にするつもりはなかった。ただ、さっきから朝比奈のまばたきがいつもより少し重たく見えて、カップを持つ手の動きもわずかに遅い気がした。

 朝比奈は一瞬だけ黙った。
「なんで」

「……何となく」

「何となくでわかる?」

「違ったならいいです」

「違わなくはない」

 その答え方が、否定よりも少しだけうれしく感じてしまう。
 気づいたことを、外していなかったのだと思うと、胸の奥が静かにあたたかくなる。

「昨日、閉店まで入ってて」

 朝比奈はカップの縁を親指でなぞりながら言った。
「で、今日朝から一限あって、昼休みに先生につかまった」

「それは疲れますね」

「まあ」

「なのにバイト」

「休めない日だったから」

 短い説明。けれど、前ならそれで終わっていたはずの話の続きを、今日は少しだけ知りたいと思ってしまう。何時に寝たのか、妹の迎えはどうしたのか、先生には何を言われたのか。そういう細部を聞けるほどの距離ではないのに、聞きたいと思うこと自体が、紬には少し新しかった。

 朝比奈はカップを置き、皿の上に残った最後のひとかけを顎で示した。

「それ、食べないならもらう」

「食べます」

 紬は慌ててフォークを伸ばす。
 その反応が可笑しかったのか、朝比奈がはっきりわかるくらいに笑った。声には出さないが、目元がやわらぐ。学校の廊下ですれ違うときでも、店で客に向けるときでもない、今だけの表情だった。

 紬は最後のひとかけを口に入れた。
 苺の酸味はもうなくて、クリームの甘さだけが舌に残る。

「甘すぎます」

 わざとらしく言うと、朝比奈はすぐに返した。

「顔、そうでもない」

 前にも聞いたその言葉に、紬はまた笑ってしまう。
 今度はこらえきれなかった。喉の奥から小さな声が漏れて、向かいの朝比奈もつられたみたいに少しだけ口元をゆるめる。

 テーブルの上には空いた小皿だけが残った。
 ほんのひと口ずつの試作だったはずなのに、その甘さは思っていたより長く残る。舌の上ではなく、もう少し別の場所に。

 そのとき、ホールの奥から「朝比奈くん、お願い」と声が飛んだ。
 朝比奈は「はい」と返して立ち上がる。けれど、すぐには戻らず、紬の空いた皿を見てから小さく言った。

「それ、来月出るらしいから」

「……はい」

「食べたくなったら頼めば」

 頼めば。
 それはただの商品の案内のはずなのに、紬には別の意味も少しだけ混ざって聞こえた。次も来れば、という響きに近い何か。

 朝比奈はそれ以上何も足さず、カップを持ってホールへ戻っていく。
 黒いエプロンの背中を見送りながら、紬は自分の口元にまだ少しだけ残っている甘さを、意識しないふりで飲み込んだ。