ぼっちの誕生日に、知らない先輩のスマホが鳴った

 火曜日の放課後、紬はホームルームが終わるより少し早く、担任に呼び止められた。

「瀬戸、これ進路指導室に持っていってくれる?」
 差し出されたのは、薄いクリーム色の封筒だった。二年の学年印が押してある。
「今ですか」
「うん、職員室行くついででいいから」
「……わかりました」

 どうせこのまま帰るだけだった。
 紬は封筒を受け取り、鞄を肩にかけ直して教室を出た。

 三年の教室が並ぶ廊下は、二年のフロアより少し静かに感じる。もう進路が具体的な形を持っているせいか、掲示板のポスターもどこか現実的だ。大学説明会、専門学校の体験授業、企業見学会。色とりどりなのに、どれも“先の話”ではなく“決める話”として貼られている。

 紬は封筒の端を持ち直した。
 自分にも、いずれはそういう紙が現実になるのだろう。けれど今はまだ少し遠い。遠いはずなのに、今日はその距離がいつもより近く見える。

 進路指導室の前まで来たところで、ちょうどドアが内側から開いた。

 紬の足が止まる。

 出てきたのは朝比奈だった。

 制服のシャツの上に薄い紺のカーディガンを羽織っていて、左腕には何冊かのパンフレットを抱えている。厚みのある光沢紙の冊子で、上に見えている一冊には大きく校名が印刷されていた。見知らぬ地名。県外の、専門学校らしい。

 朝比奈もすぐに紬に気づいた。

 一瞬だけ、どちらもそのまま立ち止まる。
 それは気まずい沈黙ではなく、ただ、ここで会うと思っていなかった相手を認識するための短い間だった。

「……こんにちは」

 先に言ったのは紬だった。
 口にしてから、放課後の学校でそんなにきちんと挨拶をする必要もなかったかもしれないと思う。けれど、何も言わずにすれ違う方がもっと不自然だった。

 朝比奈は軽く目を細めた。
「ん。どうした」

 どうした、と聞かれて、紬は手元の封筒を少し持ち上げる。
「これ、持ってくるように言われて」
「先生に?」
「はい」

 朝比奈はそれだけで納得したらしく、小さくうなずいた。
 それきり会話は途切れる。朝比奈の抱えたパンフレットの角が、廊下の蛍光灯を鈍く反射していた。

 紬はその束から目を離せない。

 県外。専門学校。
 文字を読むつもりはなかったのに、勝手に意味だけが目に入ってくる。

「……それ」

 言いかけて、紬は口を閉じた。
 朝比奈が視線だけで続きを促すように、わずかに首を傾ける。

「いや」

 別に。
 その言葉を使いかけて、紬はほんの少しだけ腹が立った。自分に対してだ。聞きたいくせに、いつも同じところで飲み込む。聞いたところで何が変わるわけでもないのに、聞かないままでも落ち着かない。

 朝比奈は数秒待ってから、抱えていたパンフレットを片手で持ち直した。
「進路のやつ」

 紬は顔を上げる。
「……見ればわかるか」
 朝比奈がそう付け足して、ほんの少しだけ笑う。自嘲に近い、ごく薄い笑い方だった。

「専門学校、ですか」

「うん」

「県外なんですね」

「たぶん」

 また、たぶん。
 曖昧な言い方に聞こえるのに、朝比奈が使うと、まだ決まりきっていない現実そのものみたいに聞こえる。

「行きたいんですか」

 聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。
 けれど朝比奈は眉をひそめるでもなく、少しだけ視線を廊下の窓の方へ流した。

「行きたいのもある」

「のも」

「行けるかどうかは別」

 その答え方が、妙に朝比奈らしかった。
 気持ちだけで決められる話じゃない、と最初から知っている声音。

 窓の向こうでは、グラウンドの隅を吹く風で、ネットがわずかに揺れていた。廊下に差し込む西日が、二人の足元を長く伸ばす。

「家のこととか?」

 紬は自分でも驚くほど自然にそう聞いていた。
 朝比奈は一瞬だけ視線を戻し、それから小さく肩をすくめる。

「まあ、それも」

「妹さん」

 この前の話を覚えていたことが、口に出してから急に気恥ずかしくなる。
 朝比奈はけれど、変に反応しなかった。

「うん。あと金」

 短く、まっすぐな言い方だった。ごまかさない代わりに、余計な説明もしない。
 それで十分伝わる。

 紬は封筒の角を指先でなぞった。
 進路のことを、漠然と“やりたいことを選ぶ話”だと思っていた自分が少し浅かった気がする。選びたい気持ちだけでは決まらない。家のこと、金のこと、残る人のこと。朝比奈の抱えているパンフレットは、その全部を腕の中にまとめているように見えた。

「……朝比奈さんなら」

 紬は言葉を探す。
「どこ行っても、やっていけそうなのに」

 言ってしまってから、ずいぶん曖昧で無責任な励ましだと思った。けれど他に言い方が見つからなかった。朝比奈は店でも学校でも、何でもそつなくこなしているように見える。だから、行けない理由より、行ける感じの方が先に浮かぶ。

 朝比奈はしばらく黙って、それから低く息をついた。
「そう見えるだけだろ」

 責めるような言い方ではなかった。
 ただ事実を訂正するみたいに静かだった。

「見えるだけじゃ、だめですか」

 紬がそう返すと、朝比奈は少しだけ目を丸くした。
 予想していなかった返し方だったのかもしれない。

「だめではないけど」

「けど?」

「見えるだけだと、期待されるから面倒」

 それは冗談ではなかった。
 朝比奈の口からその言葉が出ると、胸の奥のどこかが小さくきしむ。期待されることを面倒だと思う人。頼られることに慣れすぎて、自分の気持ちを置く場所が後ろに回っている人。

 紬は、ほんの少しだけ顔を伏せた。
 自分は期待するのが怖くて距離を取る。朝比奈は期待されることに疲れている。向いている方向は違うのに、どこか同じ重さを持っているような気がした。

 廊下の向こうから、チャイムの前触れみたいなざわめきが聞こえる。部活へ向かう足音、誰かの笑い声、先生を呼ぶ声。放課後の校舎が、少しずつ動き出していた。

「あ」

 紬は思い出したように封筒を見た。
「これ、渡さないと」

「ん。先生、中いる」

 朝比奈がドアの方へ顎を向ける。
 紬は「ありがとうございます」と言って一歩踏み出しかけ、そこでまた立ち止まった。

 朝比奈はもう行くつもりらしく、パンフレットを抱え直している。
 その動きが、紬には急に落ち着かなく見えた。今ここで別れたら、また火曜日の店まで会話は持ち越せないのかもしれない。そう思った瞬間、口が勝手に動いた。

「……次の火曜も、いますか」

 言ってしまってから、心臓が一拍遅れて強く打つ。
 何を聞いてるんだろうと思う。シフトを確認したい客みたいで、変だ。けれど、もう言葉は戻らない。

 朝比奈はほんの一瞬だけ黙ったあと、目元をわずかにゆるめた。
「たぶん」

 またその言い方だった。
 でも今度の“たぶん”は、さっきの進路の話よりずっと近くて、やわらかい。

「そっか」

 紬はそれだけ言うのがやっとだった。
 朝比奈は小さくうなずき、「じゃ」と背を向ける。歩き出した背中は、すぐに廊下の光の中へ溶けていった。

 進路指導室のドアを開ける前に、紬は一度だけ深く息を吸った。
 県外。専門学校。行けるかどうかは別。
 さっき聞いた言葉が、封筒の紙越しにじんわり伝わってくる気がする。

 次の火曜も、たぶんいる。
 たったそれだけのことなのに、胸のざわつきは少しだけましになった。

 けれど同時に、火曜日がずっと続くわけじゃないのだと、初めてはっきりわかった。
 その事実だけが、放課後の明るい廊下の中で、ひどく静かに紬のそばに残った。