ぼっちの誕生日に、知らない先輩のスマホが鳴った

 昼休みの終わりに近い時間、教室の後ろの窓が少しだけ開いていて、風がプリントの端を揺らしていた。

 紬は自分の席で英単語帳を開いたまま、ほとんど文字を追えていなかった。さっき進路指導室の前ですれ違った朝比奈の姿が、まだ頭のどこかに残っている。県外の専門学校のパンフレット。脇に抱えた指。聞けなかった一言。
 あの場で何か聞けたとしても、たぶん返ってくるのは短い答えだけだっただろう。なのに、聞けなかったことそのものが、胸の奥に細い棘みたいに引っかかっていた。

「瀬戸」

 名前を呼ばれて顔を上げると、クラスメイトの女子が二人、紬の机の横に立っていた。
「今週の金曜、帰りに駅前寄らない? 新しいクレープ屋できたらしくて」
「あ、あそこ気になってたんだよね」
 もう一人がそう重ねる。悪気のない、軽い誘いだった。放課後に少し寄り道をする、そのくらいの気楽さの表情。

 紬は一瞬だけ返事に迷った。行けないわけじゃない。むしろ、クレープは好きだし、駅前の店なら場所もわかる。断る理由なんて、本当は何もない。
 けれど、その“何もない”ところにこそ、紬はいつも一歩引く。

「ごめん、金曜ちょっと用事あって」

 口から出たのは、いつもの曖昧な断り文句だった。
 女子たちは「あ、そっか」とあっさり引き下がる。
「じゃ、また今度ね」
「うん」

 また今度。
 便利な言葉だな、と一瞬思う。来るかどうかわからない次回に全部預けて、その場だけやわらかく終わらせる言葉。父の使う“埋め合わせはまた今度”に少し似ていて、嫌いなはずなのに、自分も同じものを使っている。

 二人が席へ戻っていく背中を見ながら、紬は単語帳を閉じた。
 感じが悪いわけじゃない、と思う。自分はちゃんと笑ったし、断り方だって角が立たないようにした。あの二人もたぶん、別に気にしていない。だからこれでいい。これがいちばん楽だ。

 仲良くなりすぎない。
 相手の中で自分の席がはっきりできる前に、少しだけ曖昧にしておく。
 そうすれば、後から離れても、たいしたことにならない。

 昔からそうだった。小学校でも、中学でも、最初はそれなりに話す。笑うし、話を合わせるし、誘われれば一度くらいは行く。けれど、そこで少しでも“次も当然ある”みたいな空気が生まれると、急に息苦しくなる。
 次があると思うと、その次がなくなったときの形まで見えてしまう。そうなる前に、少し距離を置いておく方がずっと安全だった。

 放課後、担任にプリントを渡した帰り、紬はそのまま階段を下りた。今日は図書室に寄るつもりもない。寄り道する相手もいない。下駄箱で靴を履き替えて外へ出ると、日が少し傾いていて、校門の前に長い影が伸びていた。

 駅へ向かう道はいつもと同じだ。
 角を曲がればスーパーがあり、その先にドラッグストアがあり、さらに進めば駅前のロータリーが見えてくる。紬はその道を歩きながら、なるべく考えないようにしていた。今日が火曜日じゃないこと。だからファミレスに行く理由がないこと。朝比奈に会えるとも限らないこと。

 なのに、駅前の大きな看板が見えた瞬間、視線が勝手にそちらへ流れる。

 ガラス張りのファミレスの窓には、夕方の光が斜めに映り込んでいた。中の席まではよく見えない。ただ、通路のあたりを黒いエプロン姿が横切った気がした。
 足がほんの少しだけ遅くなる。

 入るつもりはない。
 今日は火曜日じゃないし、もし朝比奈がいたとしても、休憩時間が重なるわけでもない。入って、ひとりで窓際の席に座って、それで何になるのか自分でもわからない。そんなことをしたら、待っているみたいじゃないか、と思う。

 待っているみたい、じゃなくて。
 もう、少し待っているのかもしれない。

 その考えに触れた瞬間、紬は自分で自分に腹が立った。
 何を期待しているのかわからない。たった数回、放課後に話しただけだ。しかも、それは店員と客の会話に毛が生えた程度のものだ。向こうにしたって、ただ顔見知りの後輩が来るから少し話しているだけかもしれない。

 だったら、そこで止めればいい。
 火曜日だけ。店の中だけ。そう決めておけば、余計なことを考えなくて済む。

 紬は信号が青に変わるのを見て、早足で横断歩道を渡った。
 わざとファミレスの方は見ない。けれど見なかったこと自体が、逆に強く意識している証拠みたいで、少し嫌だった。

 家に着いても、まだ空は少し明るい。
 鍵を開けると、いつもどおり中は静かだった。靴を脱ぎ、電気をつけ、鞄を部屋に置く。その一連の動作の中で、ふと、朝比奈に「また火曜?」と聞かれたときの声を思い出す。
 あれは約束じゃなかった。ただの確認とも違う、軽い一言。だからこそ、紬の中では勝手に意味を持ち始めてしまう。

 制服のままベッドに座り、スマホを取り出す。
 通知はない。クラスのグループトークが数件、学校からの連絡が一件。それだけだ。
 画面を閉じる。
 また開く。
 意味はない。別に誰から来るのを待っているわけでもないのに、指だけが落ち着かない。

 もし、朝比奈ともっと話すようになったら。
 火曜日以外にも、学校で普通に話せるようになったら。
 帰り道にちょっと立ち止まるのが当たり前になったら。

 そこまで考えて、紬はすぐに思考を切った。

 そういうのがいちばんだめだ。
 当たり前だと思った瞬間に、なくなったときの痛みが生まれる。最初から当たり前にしなければいい。曖昧なままなら、失くしても失ったとは言いにくい。
 そうやって自分を守ってきたのだし、そのやり方で困ったこともなかったはずなのに。

 なのに、火曜日の窓際席だけが、少しずつ“ただの席”ではなくなっていく。
 自分でも知らないうちに、そこへ行けば少し軽くなると思い始めている。

 紬はベッドに倒れ込み、枕元にスマホを放った。
 天井を見上げる。白い。何も書いていない。何も映らない。

 明日は水曜で、その次は木曜で、その次は金曜だ。
 火曜日まではまだ遠い。
 そう思った瞬間、紬は思わず片腕で目を覆った。

 会いたいなんて言葉にしてしまうほどじゃない。
 でも、次の火曜日が来ることを、少しだけ待っている。

 その程度のことさえ、認めるのはまだ難しかった。