ぼっちの誕生日に、知らない先輩のスマホが鳴った

 翌朝、校門をくぐった瞬間から、紬は少しだけ落ち着かなかった。

 理由ははっきりしている。
 朝比奈が同じ校舎のどこかにいるからだ。

 そんなのは今までも同じだったはずなのに、火曜日のファミレスで向かい合ってからは、学校の中にいる“同じ高校の先輩”が、ただの背景ではなくなってしまった。視界のどこかにいるかもしれない、というだけで、意識がそちらへ引かれる。

 昇降口で靴を履き替え、二年の教室へ向かう。廊下は朝のざわつきで満ちていた。提出物を思い出して慌てる声、部活の朝練帰りの汗の匂い、誰かが落としたプリントを拾う音。そういう全部の中に紛れながら、紬はできるだけ普通の顔で歩いた。

 普通でいるのは、得意なはずだった。

 教室へ入ると、前の席の男子が「あ、瀬戸、英語の課題出した?」と聞いてきた。
「まだ」
「やば、俺も」
 そんなやり取りをしながら鞄を机にかける。窓際の席に座って、ノートを出して、朝の十分をいつもどおりに過ごす。そうしているあいだにも、意識のどこかが廊下の足音を拾っていた。

 ばかみたいだ、と紬は思う。
 約束をしたわけでもない。朝比奈が自分を探すわけもない。そもそも学年が違うのだから、校内で顔を合わせること自体、そう多くはないのに。

 一時間目が終わり、二時間目が終わる。
 特に何も起こらないまま昼休みになって、紬はようやく少し肩の力を抜いた。購買へ行こうか迷っていると、クラスの女子が「瀬戸、一緒に行く?」と声をかけてきた。
「ごめん、今日いい」
「あ、そっか。じゃ、また」
 悪くない距離感の会話。そういうものなら、紬にもできる。

 教室に残る生徒が減ると、窓の外のグラウンドの声が少しだけ近くなる。紬は財布だけ持って席を立ち、結局、購買には行かずに自販機のある一階まで降りた。昼休みの廊下は、授業のあいだよりもずっと人が多い。階段を下りきったところで、向こうから数人の男子が笑いながら歩いてくるのが見えた。

 その先頭に、朝比奈がいた。

 紬の足が、ほんのわずかに止まる。

 朝比奈は誰かと騒いでいるわけではなかった。隣の男子が何か言って、後ろの二人が笑っていて、朝比奈はそれに短く返しているだけだ。けれど、ファミレスで客の間を歩くときとは違う、学校の中の朝比奈だった。エプロンの代わりに制服を着て、片手に紙パックのジュースを持っている。いつも通り無口そうなのに、店にいるときより少し遠い。

 目が合うかもしれないと思って、紬は反射的に視線をそらしかけた。
 だが、その一瞬前に、朝比奈の目がこちらを捉えた。

 ほんの一秒にも満たない時間だった。
 それでも、気づいた、というのははっきりわかった。

 朝比奈は足を止めない。ただ、すれ違う直前に、ごくわずかに顎を引いた。挨拶というほど大きくはない、でも他人に向けるには少しだけ親しい動きだった。

 紬は何も返せなかった。
 それなのに、すれ違いざま、胸の奥がひどく近いところで鳴る。

 後ろから朝比奈たちの会話が遠ざかっていく。
 何を話していたのかは聞き取れなかった。紬は自販機の前に立ち、意味もなく財布の小銭を数えた。炭酸を買おうとして、結局いつもの水を選ぶ。ボタンを押す指先が少しだけ落ち着かない。

 校内では、話しかけられない。
 それは別に朝比奈が冷たいからではなく、学校という場所がそうさせるのだと思う。ここには火曜日の窓際席も、氷の鳴るグラスも、短い休憩時間もない。周りの視線と、授業の続きみたいな空気と、学年の違いだけがある。

 なのに、さっきのわずかな仕草ひとつで、ファミレスで向かい合っていた時間がちゃんと現実だったのだとわかってしまう。店の中だけの、たまたまの会話じゃなかったのだと。

 教室へ戻る途中、階段の踊り場の窓からグラウンドが見えた。サッカー部がボールを追っている。風が吹くたび、窓の隙間から土の匂いが入ってくる。紬はペットボトルの蓋を開けて、一口だけ水を飲んだ。冷たさが喉を落ちても、胸のざわつきはそのまま残っている。

 五時間目のあと、担任に頼まれて職員室へプリントを持って行くことになった。
 ついでに進路指導室の前を通る。三年のフロアに近いせいか、廊下に貼られたポスターの内容も少し変わる。大学説明会、就職案内、専門学校のオープンキャンパス。二年の自分にはまだ少し遠い紙の束の前で、紬はふと立ち止まった。

 そのとき、進路指導室のドアが開いた。

 出てきたのは朝比奈だった。

 今度こそ、本当に足が止まる。
 朝比奈の手には、見慣れない色のパンフレットが数冊あった。県外の専門学校の名前が大きく印刷されている。写真には実習室のようなものが載っていた。

 朝比奈も、紬に気づく。
 一瞬だけ、どちらも何も言わない。

「……こんにちは」

 ようやく紬がそう言うと、朝比奈は少しだけ目を細めた。
「ん。どうした」
「プリント、頼まれて」
 自分でも説明する必要のないことを言っていると思う。けれど、何も足さずにその場に立っているのが難しかった。

 朝比奈は手元のパンフレットを軽く持ち直した。隠すでもなく、見せるでもなく、ただ持っているだけの動作だった。

「そっちは」

 と聞きかけて、紬は言葉を飲み込んだ。
 進路のことなんて、自分が聞いていいのかわからない。ファミレスで少し話すようになったからといって、学校の廊下で踏み込んでいい距離とは限らない。

 その迷いが伝わったのか、朝比奈は紬の顔を見て、ほんの少しだけ首を傾けた。
「何」
「……いえ、別に」

 別に。
 また、その言葉を使ってしまう。

 朝比奈はそれ以上追わなかった。
「そう」
 短く言って、パンフレットを脇に抱え直す。

 それで会話は終わってしまった。
 終わってしまったのに、紬の中には、聞けなかったことだけが残る。県外。専門学校。進路。朝比奈がこの学校を卒業したあと、火曜日の店にいなくなる未来が、唐突に輪郭を持ち始める。

「じゃ」

 朝比奈が言う。
「……はい」

 すれ違う。
 さっき昼休みに廊下ですれ違ったときより、今の方がずっと近かったのに、言えなかったことの分だけ遠く感じた。

 職員室へ向かう途中、紬は持っていたプリントの角を少しだけ強く握っていた。
 聞けないことがあるのは当然だ。まだその程度の関係だというだけだ。そう思う。思うのに、胸の奥では別の感情が静かにざわついている。

 火曜日の窓際席で向かい合っているときには見えなかった“その先”が、校舎の廊下では急に現実になる。
 学校の中の朝比奈は、やっぱり少し遠い。
 でも、遠いままじゃ嫌だと思ってしまった自分に、紬は授業が始まるまで気づかないふりをし続けた。