ぼっちの誕生日に、知らない先輩のスマホが鳴った

 終礼が終わると、教室の空気は一気に軽くなる。
 椅子を引く音、部活の話、今日の寄り道の相談。誰かの笑い声が立つたび、教室は少しずつ放課後の顔になっていった。

 瀬戸紬は、最後のチャイムの余韻が消えるのを待ってから鞄を持ち上げた。急ぐ理由はない。かといって、残る理由もなかった。

「瀬戸、今日まっすぐ帰る?」
 前の席の男子が振り向いて聞いてきたので、紬は曖昧に笑った。
「うん、たぶん」
「そっか。じゃ、また明日」

 また明日。
 その言葉は便利だ。今日の続きを期待させず、でも冷たくもない。紬は小さく会釈して、教室を出た。

 廊下には運動部の掛け声が遠く混じっていた。昇降口で上履きを脱ぎ、外に出る。春の終わりの夕方は、まだ少し明るい。校門の前では、何人かの生徒が自転車にまたがりながら騒いでいた。誰かが誰かの肩を軽く叩き、また笑う。その輪を横目に見ながら、紬は駅の方へ歩き出す。

 家とは反対方向ではない。けれど、最短でもない。

 改札の近くまで来ると、見慣れた赤と黄色の看板が見えた。駅前のファミレス。ガラス張りの窓の向こうでは、制服姿の高校生がドリンクバーの前でじゃれ合っていて、その奥では小さな子どもがスプーンを鳴らしていた。

 自動ドアが開く。冷房の匂いと、油と甘いソースの混ざった空気が頬に触れた。
「いらっしゃいませ。お一人さまですか」
「はい」

 案内を待つまでもなく、店員は窓際の二人席へ視線を向けた。紬がよく座る席だ。駅前のロータリーが見える端の席。人の流れを見下ろせるのに、店の奥に寄っていて、あまり目立たない。

 ありがとうございます、と言って座る。鞄を壁際に置き、制服の袖を少しだけまくる。メニューは開かない。注文するものは、だいたい決まっている。安いドリンクバーと、長居しても不自然じゃない軽いもの。今日は小さめのハンバーグプレートにした。

 注文を終えると、やることがなくなる。紬はスマホを取り出した。通知は学校の連絡アプリが一件、ニュースアプリが数件。それだけだった。父からのメッセージ欄は静かなまま。母からも何も来ていない。

 それを見て、少しだけ肩の力が抜ける。

 連絡がないのは、寂しいことのはずなのに、いざ本当に何もないと、ほっとする自分がいる。返事に困る言葉も、期待を持たされる文面も、来ないなら来ないで、そのほうがずっと楽だった。

 ドリンクバーに立つ。氷を落とす音が、グラスの中で乾いた響きを立てた。オレンジジュースを少し、炭酸を少し。味のことを考えているわけではない。手持ち無沙汰で何度も席を立たなくて済む組み合わせを、いつの間にか選ぶようになっていただけだ。

 席へ戻る途中、四人組の女子高生が楽しそうに写真を撮っているのが見えた。テーブルの上には山盛りのポテト。ひとりが「やば、盛れてない」と笑って、もうひとりが「それ加工でどうにかなるって」と返す。そういう会話を、紬は嫌いではない。うるさいとも思わない。ただ、自分のいる場所ではない気がするだけだ。

 料理が運ばれてきても、紬はすぐには箸をつけなかった。窓の外を見ながら、ロータリーを回るバスをぼんやり追う。スーツ姿の会社員、塾の鞄を持った小学生、腕を組んで歩くカップル。みんな行く先があるように見える。自分にだって家はあるし、帰れば自分の部屋もある。でも、行く先と帰りたい場所は、同じとは限らない。

 ハンバーグを一口食べる。少し冷めていて、ソースが甘い。特別おいしいわけでもない味に、なぜか安心する。ここでは何も期待しなくていい。すごくおいしいわけでも、すごく楽しいわけでもない。ただ、いてもいい感じがする。長居する客も、一人で黙っている客も、別に珍しくない場所だから。

 紬はたいてい、家に帰りたくないわけではないのだと思う。
 ただ、帰ってもすぐに「おかえり」があるわけじゃない時間に、まっすぐ部屋へ入って、制服のまま鞄を床へ置いて、しんとした空気の中で電気をつける、その一連の流れが少しだけ苦手なだけだ。

 だから、ここで時間を薄める。
 夕方と夜のあいだの、名前のつかない時間を、ドリンクバーの氷みたいに溶かしていく。

 食事を半分ほど食べたところで、ふいに隣のテーブルから「ねえ、来月どうする?」という声が聞こえた。誕生日の話らしかった。プレゼントだの予定だの、途切れ途切れの単語が耳に入る。紬は水を飲んで、聞こえないふりをした。

 来月。
 その言葉にだけ、胸の奥がうっすら固くなる。

 まだ先だ。忘れていればいい。そう思ってスマホを伏せる。画面に何も映っていなくて、また少しだけ安堵する。

 来ないものを待たなくていい日は、それだけで少し楽だった。