七人の訳あり王子と、八番目の薬草姫

秘喪の最終日の朝、王宮の空気は薄い氷みたいだった。
溶けそうで溶けない。息をすると割れそうで、だから誰も深呼吸をしない。
廊下を行き交う侍女も従者も、足音まで小さくしている。
静かというより、音を立てた瞬間に何かが決まってしまいそうな朝。

ベルは鏡台の前で髪をまとめながら、自分の心臓の音だけがやけに大きいのを聞いていた。
三十日。
たった三十日で、世界が変わった。

最初は手紙だった。次に遺言。
そして偽蜜蝋、改竄、火事未遂、突発性難聴、護符への混入——。
一つ一つを思い返すたび、見えない糸が絡まるみたいに胸が重くなる。

全部が一本の糸で繋がっているのは分かっている。
けれど、その糸の端を握っているのが誰か、それだけがまだ確証になっていない。
今日、それが表へ出る。
そう思うだけで、指先が少し冷えた。

コンコン、と控えめなノック。
扉が開く。

「ベル姉さん」

コンスタンティンが顔を覗かせた。寝衣ではなく、きちんとした服を着ている。
襟も、袖も、できるだけ整えてきたのだと分かる格好。
三十日前と比べて、彼の目は少しだけ強くなっていた。
まだ怯えは残っている。それでも、前みたいにただ守られるだけの顔じゃない。

「……今日だね」
「うん」

コンスタンティンは頷き、机の上の布袋を見た。
偽蜜蝋の欠片。
香料庫で見つかった基材。
第四王子の書記局で押さえた帳簿。
ヨアヒムの護符から出た紙片。

全部が、ベルの鞄の中にある。
ベルが嗅いで、触って、確かめた証拠だ。
言葉だけじゃなく、匂いと手触りで繋いできた線が、今日ようやく形になる。

「怖い?」
「少し」
「僕も」

コンスタンティンは一瞬だけ笑った。
無理に笑っているのではなく、怖いと言えたから少し息ができた、そんな笑いだった。

「でも、ベル姉さんがいると大丈夫な気がする」
「……それ、やめて。私は万能じゃない。最後に決めるのは、あなたたちだよ」
「うん。でも、ベル姉さんがいてくれると、逃げなくていい気がする」

ベルはその言葉に、返事をしなかった。
下手に何か言うと、今度は自分の方が揺れそうだったからだ。

コンスタンティンが何か言いかけた、その時だった。
廊下の先から足音がした。
迷いのない足音。一定の歩幅。急いでいないのに、ためらいがない。
ベルは振り向かなくても分かった。

レオンハルトだ。

扉の前で立ち止まり、ベルを見る。
その目はいつも通り冷静だ。けれど、今日だけは奥に熱がある。
押し殺しているのに、完全には消せていない熱。
それをベルだけが見える。

「準備は」
「できました」
「コンスタンティン」

レオンハルトが弟を見る。
その視線には、兄としての厳しさと、守ろうとする硬さが一緒にあった。

「お前はベルの部屋に戻れ。ここから先は——」
「行く」

コンスタンティンが言った。
レオンハルトが一瞬だけ眉を動かす。
怒りではない。驚きだ。

「聞く権利がある。僕は……逃げない」

声は震えていた。でも、折れていない。
その震えごと前へ出ると決めた声。
レオンハルトは頷いた。

「……分かった。だが俺の後ろを歩け」
「うん」

ベルは心の中で小さく息を吐いた。
この三十日で、守られる側だったコンスタンティンが、守られることを拒むようになった。
それだけで、秘喪が合議の時間だった意味がある。
疑いと痛みばかりではなかったのだと、そう思えた。

会議室の扉の前には、衛兵が二人立っていた。
最終日。
ここで決まらなければ、遺言通り王政は廃止になる。

ベルは鞄の上から証拠の輪郭を確かめる。
紙の硬さ。蜜蝋の欠片。小さな重み。
そして、自分の胸の奥にあるもう一つの鍵の存在も。

今、結末への扉が開く。

長いオーク材の机。喪布のかかった窓。
光は弱いのに、逃げ場だけはどこにもない。
その下に座る七人の王子——いや、王子と呼ばれてきた七人。

上座にレオンハルト。
その隣にジークムント。片耳の聴力が落ちているのに、姿勢は崩さない。
崩さないことそのものが、いまの彼の武器になっていた。

ルーペルトは腕を組み、苛立ちを押し込めた顔をしている。
フロリアンは緊張した笑みを貼りつけているが、もう以前の『依存の目』はしていない。
カシミールは余裕の笑みを浮かべているが、目の奥はまったく笑っていない。
ヨアヒムは礼拝堂の空気をそのまま持ち込んだように、静かに手を組んでいる。
末席にはコンスタンティン。小さな拳を膝の上で握りしめ、逃げずに前を見ていた。

そして——机の末端に、ベルは座った。
最初に座らされた場所と同じなのに、重さはまるで違った。
もう『呼ばれた少女』ではない。今日のベルは、この会議を動かす側にいる。

執事長が入ってきた。
いつも通り白手袋。いつも通り淡々。
けれど今日だけ、目の下の影が少し深い。
眠れていない顔だ。王宮じゅうがそうなのかもしれない。

「秘喪最終日。合議の結論をお決めいただく日でございます」

執事長の声は整っていた。
整っているからこそ、その文言の重さだけが際立つ。

「全員一致で結論が得られなかった場合、陛下の遺言に従い、王政は廃止——」
「分かっている」

レオンハルトが短く切った。
その一言で、部屋の空気がさらに張る。

「まず、決める前にやるべきことがある」
「……何を」

ジークムントが静かに言うと、レオンハルトはベルを見た。
『行け』という視線。
ベルは頷いた。今日は逃げない。

ベルは鞄を机の上に置き、布袋を並べた。
小さな袋ばかりなのに、この一か月の不穏さが全部そこへ詰まっているように。

「最初に確認します。これは『王位を決める会議』ではなく、『盤面を揺らして合議を割ろうとした者』を潰す会議でもあります」

ルーペルトが鼻を鳴らした。

「今さらだ。とっとと名前を出せ」
「名前だけなら簡単。でも納得が要るでしょう」

ベルは淡々と言い、布袋の一つを開けた。
偽蜜蝋の欠片から、甘い香りが一瞬だけ立つ。
本物の蜂蜜とは違う、喉に残る甘さだ。

「これ、コンスタンティンの部屋に置かれた封蝋と同じ匂いです」
「……」

コンスタンティンが唇を噛む。
ベルはそこで止まらず、次の紙片を出す。

「ルーペルトの書記局で改竄されたインクにも、同じ香料が混じっていました」
「証拠は?」

ジークムントの声は冷たい。
ベルは紙片を差し出した。
ヨアヒムの護符から出た、偽封蝋の欠片付きの短文。
そこにも同じ甘さが残っている。

「香料庫で見つけた基材から作れます。蜂蜜ではなく、香料で甘さを作った匂いです。喉に残る甘さで分かる」
「……感覚の話だな」

ジークムントが言う。
その声音には、切り捨てるための冷たさがあった。
ベルは即座に返した。

「感覚は証拠になります。薬草師は匂いと違和感で命を救ってきた。疑うなら、今ここで嗅いでください」
「嗅げ、と?」
「はい。これは誰にでも分かる差です。本物の蜜蝋はもっと澄んでいる。こちらは甘さが重い。残る。意図して混ぜた甘さです」

ベルが言い切ると、会議室の空気がわずかに動く。
言葉だけじゃない。物がある。匂いがある。
ここから先は、もう『気のせい』では済まない。

一瞬の沈黙に、ジークムントは動かなかった。
動かないことそのものが、逆に答えになる。
反論しない。遮らない。けれど認めもしない。
その静けさが、この場でいちばん冷たかった。