七人の訳あり王子と、八番目の薬草姫

足音は衛兵のそれじゃない。
あまりに静かで、あまりにまっすぐ。
無駄がない。廊下そのものが道を譲るみたいな歩き方。

扉を開けようとした瞬間、外から低い声がした。

「ベル」

短い呼び方。
ベルが扉を開けると、レオンハルトが立っていた。黒い外套、布手袋。
目だけでベルの様子を拾い、すぐに視線が部屋の奥へ流れる。

「……コンスタンティン」

部屋の中にいるのを見て、レオンハルトの眉がわずかに動く。
心配というより、状況把握の動き。
誰がここにいて、何が起きたのかを一瞬で組み立てている顔。

コンスタンティンが椅子から立ち上がり、口を開く。

「兄上、僕……」

言葉が詰まった。
ベルが先に出る。

「殿下。これを見てください」

ベルは鞄から布袋を取り出し、机に置く。
結び目をほどく。封筒を見せると、レオンハルトの目が一瞬で冷えた。
あの封蝋を、彼も知っている。

「どこで手に入れた」
「コンスタンティンの部屋の引き出しに入っていたそうです。本人は触ってない」
「……」

レオンハルトは封蝋を見つめ、次にベルを見る。
問いかける順番が早い。この人は物を見る前に、誰を信じるかを決めている。

「お前の判断は」
「偽物です」
「根拠」
「匂い。割れ方。混ぜ物の癖。蜂蜜の甘さが『香料の甘さ』です。油の匂いも混じってる。蜜蝋じゃない」

レオンハルトは布手袋越しに封蝋へ触れた。
爪で軽く縁を叩く。音が鈍い。
彼の目がさらに細くなる。

「……本物なら、ここまで雑じゃない」
「はい。見た目は似せてるけど、質が違う。急いで作ったか、技術が足りない」
「どちらでも、雑な仕事だ」

低い声。
怒りを抑え込んだ時の声だと、ベルには分かった。

コンスタンティンが震える声で言う。

「僕、疑われるよね……」
「疑わせるために置かれた」

レオンハルトが即答した。
冷静すぎるくらい冷静に。
その冷静さが、逆にコンスタンティンを支えている。

「コンスタンティン。お前は悪くない」
「……でも……」
「でも、だ」

レオンハルトの声が低くなる。
今度は、王子としてではなく兄として言っている声。

「お前は狙われた。だから守る」
「兄上……」
「今夜はここを出るな。部屋付きの侍女も入れ替える。お前に触れるもの、運ばれるもの、全部見直す」

その一言で、コンスタンティンの目からぽろりと涙が落ちた。
ベルは胸の奥が少し痛んだ。
この子は、言葉一つで救われる。
そして同じくらい簡単に、言葉一つで潰される。

コンスタンティンの目に、ようやく少しだけ色が戻る。
安心したというより、怯える先が『自分』ではなく『敵』へ移った顔。

ベルはその横顔を見ながら、胸の奥で静かに息を吐く。
間に合った。
まだ何も解決していない。
でも、少なくともこの子が一人で朝を迎える事態は避けられた。

「誰がこの封蝋を扱える」
「香料庫。養蜂場。厨房。それと、封蝋の保管に触れられる人です」
「執事長の管轄だな」
「はい」

レオンハルトはベルへ視線を戻す。
もうコンスタンティンを落ち着かせる段階は終わった、という目。
ベルは答えて、すぐに付け足した。

「でも、『執事長がやった』とは限りません。執事長は鍵を持ってる。鍵を持っている人間は、利用もされます」
「分かっている」

レオンハルトは短く言った、その「分かっている」の中には、苛立ちが混じっていた。
執事長個人への疑いというより、この王宮の仕組みそのものへの苛立ち。
鍵が一つあれば、責任も疑いも、そこへ集中してしまう。
その構造ごと、彼は嫌っているように見えた。

レオンハルトは考える間もなく命令を出す。

「ベル、この封筒はお前が預かれ」
「え」
「お前の嗅覚が証拠だ。改竄されないよう、お前が持て」
「……はい」

ベルは封筒を布袋に戻し、鞄へ入れた。
急に重みが増した気がする。
紙一枚のはずなのに、王宮の中を動かすだけの意味がそこへ詰まっている。

レオンハルトは扉の方へ向き、立ち止まった。

「今夜のことは他の兄弟に話すな。特にジークムントに知られる前に、こちらで盤面を取る」
「はい」

その言い方に、ベルは小さく引っかかった。
ジークムントの名が真っ先に出る。
警戒しているのか、盤面を読まれるのが厄介なのか。
どちらにせよ、兄弟の中にも順序があるのだと分かる言い方。

扉に手をかけたところで、ベルはふと口を滑らせた。

「……ところで殿下。何の用だったんですか?」

レオンハルトが振り返る。目が細くなる。

「用がないと来てはダメなのか」
「はぁ?」
「お前の部屋の前に衛兵を増やした。異変があれば報告が上がる。今夜は、報告より先に俺が見に来ただけだ」
「見に……」
「悪いか」
「悪くはないですけど、もっと言い方があると思います」
「ない」

言い切るのが早すぎて、ベルは返事に詰まった。
この人は時々、大事なことをわざと雑に言う。

レオンハルトは今度はコンスタンティンへ向き直る。

「今夜はベルの部屋にいろ。明日まで部屋へ戻るな」
「え、でも……」
「部屋が『狙われる場所』になった。戻るな。侍女も近づけるな。明日、俺が正式に配置を変える」
「兄上が、来てくれる?」
「朝一番で行く」
「……うん」

コンスタンティンは頷きながら、ベルを見る。

「……ベル姉さん、いい?」
「いいよ」

ベルが言うと、コンスタンティンは少しだけ呼吸が落ち着いた。
ほんの少しでも、この子が今夜一人きりで怯えずに済むなら、それでいいと思えた。

レオンハルトは扉の方へ向いたまま、ふと立ち止まる。

「ベル」
「はい」
「よく気づいた」

それだけ。
褒め言葉が短い。
でも、その短さが重い。
軽く労うのではなく、ちゃんと働きを認める時の言い方。

「……薬草師なので」

ベルが返すと、レオンハルトの口元がほんのわずかに緩む。
すぐに消える。
消える前にベルは見てしまった。
あの一瞬の緩みは、他の誰に向ける時とも少し違って見えた。

そしてレオンハルトは、最後にもう一つだけ言った。

「コンスタンティンがお前を頼ったのは正解だ。……一人で抱えさせるな」

命令の形ではなく、願いの形。
ベルへ託すしかないと思った人の願い。

淡々と言い切って、レオンハルトは扉を開けた。
その背中が、なぜか少しだけ早足に見えた。
急いでいるのか、気持ちを整えたいのか、そこまでは分からない。

扉が閉まり、ベルは息を吐いた。
鞄の中の封筒が、いつもより重い。
コンスタンティンが椅子に座り直し、小さく言う。

「……ベル姉さん、僕、怖かった」
「うん」
「でも、少しだけ……大丈夫になった」

ベルは頷き、月の葉の袋を手に取った。

「じゃあ、少し飲もう。眠れるように」
「ベル姉さんも?」
「私も」
「眠れる?」
「眠れるようにするの」

コンスタンティンが少しだけ笑う。
その小さな変化に、ベルもようやく肩の力を抜いた。

湯を沸かしながら、ベルは鞄の中の封筒の匂いを思い出す。
甘さの中の油。焦げの早い煙。
あれは、急いで作られた偽物だ。

急いだのは誰。
誰が、コンスタンティンを落とす必要があった?
しかも、父王の封蝋を真似るというやり方で。

「……ベル姉さんの月の葉、すごい効く……気がする……」

やがて、寝息が聞こえてくると、ベルは湯気の向こうで、目を細めた。

秘喪の王宮は、静かに息を止めている。
そしてその静けさの中で、誰かが確かに動いている。
毒だけじゃない。偽封蝋まで持ち出して、盤面そのものを崩そうとしている誰かが。