七人の訳あり王子と、八番目の薬草姫

「今日から、俺の近くにいろ」
「え」
「表向きは『妹』として。必要な時は——」

言いかけて止まり、少しだけ言葉を選び直す。

「俺の目の届くところにいろ」

命令の形をしているのに、どこか違った。
警戒でもあり、守りでもあり、ベルを『特別な位置』に置く宣言でもある。
それを理解した瞬間、ベルの胸の奥が小さくざわめく。

「……分かりました、レオンハルト殿下」

ベルがそう答えると、レオンハルトの眉がわずかに動いた。

「二人きりの時は、レオと呼べ」

ベルは目を見開く。
話がそこへ飛ぶとは思っていなかった。

「まだ早いです」
「早い?」
「距離を詰めすぎると、勘違いする人が出ます。毒より厄介です」
「誰が勘違いする」
「周りが、です。王宮はそういう場所なんでしょう」

レオンハルトは黙った。
その沈黙は拒否ではない。ベルの判断を受け入れている沈黙。
少しだけ考えてから、低く言う。

「なら、二人きりの時だけだ」
「……考えておきます」
「即答しないのか」
「殿下こそ、命令のたびに全部通ると思わないでください」

そこで今度こそ、レオンハルトはほんの少しだけ笑った。
音にはならない、短い笑み。

ベルがそれを見た直後、レオンハルトは背を向けた。
扉へ向かう直前、ふと足を止めて振り返る。

「ベル」
「はい」
「今まで、誰も気づかなかった。俺も気づかないふりをした」

低い声。
さっきよりも少しだけ、地の響きに近い。

「お前は気づいた。だから——」

言葉が止まる。
視線がベルに戻る。
探るようでもあり、確かめるようでもある、一瞬の間。

「だから、お前は厄介だ」

厄介。
なのにその声は、どこか安堵していた。
ようやく見つけた面倒な味方を前にした人の声。

ベルは小さく息を吸う。
喪布の暗さは変わらない。王宮の静けさも変わらない。
けれど、胸の内の空気だけが少し動いた。
一人きりで放り込まれたわけではないのかもしれないと、ほんの少しだけ思えた。

「厄介で結構です。薬草師なので」

秘喪の一か月は、もう始まっている。
そしてベルは知った。

この王宮で、自分の味方になり得るのは——
少なくとも今は、レオンハルトただ一人かもしれない。

扉が閉まり、会議室に残ったのはベルとレオンハルト、そして机の上に置かれた黒い手袋だけ。
喪布のかかった窓から差す光は薄く、部屋の輪郭をやわらかくぼかしている。

けれどベルの目には、手袋の縫い目だけが妙にくっきり見えた。
上等な革。均一な縫製。王宮の品だ。見えるところには何の瑕疵もない。
だからこそ——混ぜ物は、目に見えないところへ仕込まれる。

「ベル。どうする」

レオンハルトが低く呼んだ。
今の声は命令ではなかった。判断を委ねる声に近い。
さっきまでなら、自分で決めていたはずのことを、今はベルに問うている。
その事実が、状況の重さをかえってはっきりさせていた。

ベルは手袋を見たまま言う。

「まず、これは洗わないでください。油の痕が消えます。証拠が飛びます」
「分かった」

即答だった。
レオンハルトの目がわずかに細くなる。理解の早さが、彼の怖さでもある。
一つ掴めば、その先の手をすぐ打てる人だ。

「執事長を呼ぶ」

扉の外へ短く指示が飛び、ほどなく執事長が現れた。
白手袋のまま、表情を固めている。
呼ばれる前から、ただならぬ話になっていると分かっていた顔だ。
ベルは机に置かれた手袋を指差した。

「これを二重の布袋に入れて封印してください。誰も触れない。保管は執事長が。鍵も執事長だけ」
「かしこまりました」
「できれば布袋も新しいものを。移す時は素手で触らないでください」
「承知しております」

執事長の声は揺れなかった。
だが、目の奥は緊張で固い。封蝋の時と同じだ。
王宮の古い秘密に触れる時の顔だった。
表に出さないだけで、この人もまた一気に血の気が引いているのだろう。

「それと、手袋係、仕立て係、洗濯係。全員の名簿と当直表を今すぐ。今朝からここに来るまで、殿下の手袋に触れた可能性のある者も」
「加えて」

ベルの言葉を、レオンハルトがそのまま命令に変えた。

「執事長。今言った通りだ。加えて、革用保護油の管理台帳も持って来い。油壺の刻印が分かるものを。未開封の在庫と、使いかけの所在も全部だ」
「承知しました。すぐに」

執事長が一瞬だけ眉を動かした。
そこまで把握しているとは思っていなかった、という表情だ。
だがすぐに頭を下げ、手袋を慎重に回収する準備に入る。

ベルは視線をレオンハルトの手へ戻した。
洗浄したとはいえ、指先の赤みは残っている。節まわりの乾きも強い。
皮膚の内側が、まだ熱を持っているように見えた。

「殿下。しばらく手袋は禁止です」
「喪の形式は」
「形式で手が壊れたら終わります。代わりに薄い布手袋に。皮膚に油が触れないように」
「人目につく場では」
「その時だけ外側に重ねる方法はあります。でも、素肌に触れるものは私が見ます」

レオンハルトは頷く。
その頷き自体が、ベルには意外だった。もっと抵抗すると思っていた。
喪の形式も、王子の威厳も、この人にとっては軽いものではないはずだ。
それでも今は、そちらを後へ回した。

「……お前の言う通りにする」

その言い方が軽い。けれど軽くない。
王子が『誰かの言う通りにする』のは、敗北でも服従でもなく——選択だ。
しかもこの人は、選ぶ時ほど声が静かになるのだとベルは気づく。

ベルは鞄を開け、小瓶を二つ取り出した。
一つは刺激を抑える軟膏。もう一つは、簡易の鎮静茶用の粉末だ。
村で使うには少し強めだが、今のレオンハルトにはそれくらいでいい。

「これは塗ってください。これは夜に少し。眠れないと震えが戻ります」
「命令が多いな」
「治したいんです」
「治す、か」
「手を守るだけじゃ足りません。眠れないままだと、また体が削れます」
「……よく言う」

皮肉の形をしていたが、拒絶ではなかった。

レオンハルトは自分の手を見つめた。
その視線の奥にあるのは怒りではない。長い我慢の痕だ。
この手で署名し、剣を握り、人前では何事もない顔をしてきたのだろう。
震えているのに、震えていないふりをして。

「……今まで誰も言わなかった」
「言える空気じゃなかったんでしょう」

ベルは淡々と返した。
王宮の空気は、弱さを許さない。
ベルでさえ、昨日ここへ来た瞬間に息が浅くなった。
ここで育った人間なら、なおさらだ。

「でも私は薬草師です。王子かどうかは関係ない。症状は症状です」
「随分と割り切る」
「割り切らないと見誤ります」

その言い切りに、レオンハルトの視線が一瞬だけベルへ戻った。
品定めではない。確かめる目だ。
自分の隣に置くに足るか、というより——自分の秘密を預けていいか、という目だった。

ベルは目を逸らさなかった。
逸らしたら、たぶんこの人はまた一歩引く。そう思ったからだ。

「ベル」

レオンハルトが、少しだけ声を落とした。
先ほどよりも近い声だった。

「今の話は、他の兄弟にも言うな」
「言いません」
「なぜ」
「殿下が望まないから」
「それだけか」
「……それと」

ベルは迷い、結局正直に言った。

「今ここで言えば、誰かが必ず利用します。心配も、善意も、毒になる」
「毒、か」
「はい。弱っている人に向けられる親切は、時々いちばん危ないです」

レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
否定も、肯定もせず、ただベルを見ている。
その沈黙の重さごと引き受けるように、ベルもまっすぐ見返した。

レオンハルトの口元が、ほんのわずかに動いた。
笑みにはならない。けれど、張りつめていた硬さが、ほんの少しだけほどける気配があった。