その名前を見たとき、最初に浮かんだ言葉は、『嘘でしょ』だった。
昼休みのテレビは音を絞られていて、字幕だけがやけにくっきりと浮かんでいた。
『死刑判決、再審請求棄却』
そんな言葉の並びの中に、見慣れた文字があった。
——早瀬 湊。
箸を持ったまま、私はしばらく動けなかった。
同姓同名かもしれない。そう思って画面を見続けたけれど、流れた顔写真は記憶の中の輪郭と、あまりにもよく似ていた。
ただ、少しだけ違う。もっと優しく笑っていたはずだ、と思う。
午後の打ち合わせは、ほとんど頭に入ってこなかった。資料の文字を目で追っているだけだった。代わりに、小学校の帰り道が、何度も浮かんでは消えた。
海沿いの細い道。
ランドセルの中で、筆箱がやたらと鳴る。
あのとき、隣を歩いていたのが湊だった。
——でも、いつから話さなくなったんだっけ。
思い出そうとすると、そこだけ、ぽっかりと穴が空いている。外での昼食を終えて、弁護士事務所に戻る頃には、私はもう理由を整えていた。
冤罪の可能性がある。
証拠の扱いに不備があったかもしれない。
再審請求が棄却されたとしても、まだやれることはある。
そういう顔で、上司に話を持ちかけた。
「珍しいな、お前が自分から国選を取りに行くなんて」
軽く笑われたが、止められはしなかった。手続きはすぐに進んで、数日後には面会の許可が下りた。
その間、私は一度も彼の名前を口に出さなかった。呼んでしまったら、何かが決定的に変わってしまう気がした。
面会室は、思っていたよりも明るかった。
白い壁と、床に固定された椅子。中央には分厚いアクリルボードがあって、向こう側とこちら側を、きれいに分断している。天井の隅に、小さな黒い点——おそらく録音用のマイクに違いない。
時計を見ると、接見時間は三十分と表示されていた。
——短い、と思う。
何を聞くかは決めてきたはずなのに、言葉の順番が急に曖昧になる。
ドアの向こうで、鍵の音がした。
遅れて、足音。
現れた湊は、私の記憶よりも、ずっと静かだった。
痩せたわけでも、老けたわけでもない。ただ、何かが圧倒的に足りない気がした。
アクリルボードに顔を近づける。
少し遅れて、湊が頭を下げた。
「……弁護士の葉山です」
用意していた名乗りを口にする。声は思ったよりも平坦だった。
湊は、ゆっくりとこちらを見た。
「早瀬湊さん。今回の事件で、あなたの担当になりました」
一拍、間があく。その間に、私は何かを期待していたのかもしれない。
たとえば、驚いた顔とか。
あるいは、名前を呼ばれるとか。
でも、湊はただ、穏やかに頷いただけだった。
「……よろしくお願いします」
その声は、知らない人に向けたものだった。
最初の数分は、事務的な確認に費やした。判決内容、これまでの主張、再審請求の経緯。湊は質問に対して、過不足なく答えた。感情はほとんど乗っていない。
違和感は、そこにあった。
——こんなに、静かな人だっただろうか。
ふと、思い出したことを口にする。
「海、覚えてますか?」
湊の視線が、わずかに揺れる。
「小学校の帰り道、遠回りして」
湊は、少しだけ考えるように目を伏せてから口を開いた。
「……ごめん、覚えてないよ」
その一言で、何かが砕けた。アクリルボード越しに見えているはずのものが、急に遠くなる。
私は、笑おうとして、上手くできなかった。
「そっか」
それ以上、言葉が出てこなかった。時計の数字だけが、やけに速く減っていく。

面会が終わる直前、私は一つだけ、予定にない質問をした。
「外に出られたら、何がしたい?」
湊は少しだけ首を傾げた。それから、ほんのわずかに、口元を緩める。
「……特に」
静かな声だった。
「ここで、十分なので」
湊のため息が、やけに大きく響いた。
廊下に出ると、外の空気が少しだけ冷たく感じた。夕方の空には、まだ月は出ていない。
それでも私は、なぜか月を探していた。
——見えていると思っていた。
湊のことも、あの頃のことも。
私が見ていたのは、全部――私の中にあったものだった。
昼休みのテレビは音を絞られていて、字幕だけがやけにくっきりと浮かんでいた。
『死刑判決、再審請求棄却』
そんな言葉の並びの中に、見慣れた文字があった。
——早瀬 湊。
箸を持ったまま、私はしばらく動けなかった。
同姓同名かもしれない。そう思って画面を見続けたけれど、流れた顔写真は記憶の中の輪郭と、あまりにもよく似ていた。
ただ、少しだけ違う。もっと優しく笑っていたはずだ、と思う。
午後の打ち合わせは、ほとんど頭に入ってこなかった。資料の文字を目で追っているだけだった。代わりに、小学校の帰り道が、何度も浮かんでは消えた。
海沿いの細い道。
ランドセルの中で、筆箱がやたらと鳴る。
あのとき、隣を歩いていたのが湊だった。
——でも、いつから話さなくなったんだっけ。
思い出そうとすると、そこだけ、ぽっかりと穴が空いている。外での昼食を終えて、弁護士事務所に戻る頃には、私はもう理由を整えていた。
冤罪の可能性がある。
証拠の扱いに不備があったかもしれない。
再審請求が棄却されたとしても、まだやれることはある。
そういう顔で、上司に話を持ちかけた。
「珍しいな、お前が自分から国選を取りに行くなんて」
軽く笑われたが、止められはしなかった。手続きはすぐに進んで、数日後には面会の許可が下りた。
その間、私は一度も彼の名前を口に出さなかった。呼んでしまったら、何かが決定的に変わってしまう気がした。
面会室は、思っていたよりも明るかった。
白い壁と、床に固定された椅子。中央には分厚いアクリルボードがあって、向こう側とこちら側を、きれいに分断している。天井の隅に、小さな黒い点——おそらく録音用のマイクに違いない。
時計を見ると、接見時間は三十分と表示されていた。
——短い、と思う。
何を聞くかは決めてきたはずなのに、言葉の順番が急に曖昧になる。
ドアの向こうで、鍵の音がした。
遅れて、足音。
現れた湊は、私の記憶よりも、ずっと静かだった。
痩せたわけでも、老けたわけでもない。ただ、何かが圧倒的に足りない気がした。
アクリルボードに顔を近づける。
少し遅れて、湊が頭を下げた。
「……弁護士の葉山です」
用意していた名乗りを口にする。声は思ったよりも平坦だった。
湊は、ゆっくりとこちらを見た。
「早瀬湊さん。今回の事件で、あなたの担当になりました」
一拍、間があく。その間に、私は何かを期待していたのかもしれない。
たとえば、驚いた顔とか。
あるいは、名前を呼ばれるとか。
でも、湊はただ、穏やかに頷いただけだった。
「……よろしくお願いします」
その声は、知らない人に向けたものだった。
最初の数分は、事務的な確認に費やした。判決内容、これまでの主張、再審請求の経緯。湊は質問に対して、過不足なく答えた。感情はほとんど乗っていない。
違和感は、そこにあった。
——こんなに、静かな人だっただろうか。
ふと、思い出したことを口にする。
「海、覚えてますか?」
湊の視線が、わずかに揺れる。
「小学校の帰り道、遠回りして」
湊は、少しだけ考えるように目を伏せてから口を開いた。
「……ごめん、覚えてないよ」
その一言で、何かが砕けた。アクリルボード越しに見えているはずのものが、急に遠くなる。
私は、笑おうとして、上手くできなかった。
「そっか」
それ以上、言葉が出てこなかった。時計の数字だけが、やけに速く減っていく。

面会が終わる直前、私は一つだけ、予定にない質問をした。
「外に出られたら、何がしたい?」
湊は少しだけ首を傾げた。それから、ほんのわずかに、口元を緩める。
「……特に」
静かな声だった。
「ここで、十分なので」
湊のため息が、やけに大きく響いた。
廊下に出ると、外の空気が少しだけ冷たく感じた。夕方の空には、まだ月は出ていない。
それでも私は、なぜか月を探していた。
——見えていると思っていた。
湊のことも、あの頃のことも。
私が見ていたのは、全部――私の中にあったものだった。



