そしてこの夜に、事件が起きた。
いや、事件というほどではないのかもしれない。
でもミレイユにとっては、かなり『大変な出来事』だった。
殿下が今夜も疲れていることは、朝からわかっていた。
何か難しい案件を抱えているらしく、午前中は謁見、午後は会議、夕食のあとも書類仕事が続いた。
そのあいだずっと、ミレイユは執務室にいて殿下を見ていた。
殿下は表情には出さない。
公の場で顔を乱すことをしない人だ。
けれど猫としてそばにいると、それ以外のところで疲れが滲み出るのがわかる。
肩の線。呼吸の間。ペンを持つ指先の重さ。
夕方になるほど、その全部が少しずつ沈んでいく。
こちらが何もできないのに、気づいてしまうのがもどかしかった。
(今日も、かなり疲れてる)
夜も更けて、殿下がようやく仕事を切り上げ、寝所に入った。
ミレイユも後についていく。
殿下がベッドに入り、目を閉じる。
ミレイユはいつものように、ベッドの端へ丸まった。
今では毎夜ここが定位置だ。
(今日も疲れた顔をしていた……)
すぐには眠れなかった。
ミレイユはそっと立ち上がり、寝台の上を音を立てないよう歩く。
殿下の方へ、少しずつ。
眠っている殿下の顔を見た。
公務中や謁見中の顔とは違う。
力が抜けて、ただの若い人の顔になっている。
睫毛の影も、呼吸に合わせてわずかに上下する胸元も、眠っている人らしく無防備だった。
(疲れているね……)
しばらく、その横顔を見ていた。
なぜ見ているのか、自分でもわからない。
何かしてあげたいような、でも何もできないような、もどかしい気持ちだけが胸に残る。
(せめて、少しでも楽になってくれれば……)
そのときだった。
ふわり、と何かが押し上げてきた。
衝動、というのか。
『したい』という気持ちが、頭ではなく体の方から込み上げてきた。
考えるより先に、ひげの先までそわそわするような感覚が走る。
(え?なに?何がしたいの私?)
ミレイユは殿下の黒髪を見る。
(……ぺろぺろしたい)
(は!?)
(え、ちがう、なんでそういう方向に……)
(でも……したい……ぺろぺろ……)
(しません!しませんよ!王太子に猫が頭をぺろぺろするなんて、失礼極まりない!礼儀知らずにもほどがある!絶対にしません!)
猫の本能と、令嬢としての理性が激しくぶつかり合った。
三秒ほど、本気で葛藤した。
かなり本気だった。たぶん人生でも上位に入るくらい真剣な葛藤だった。
「ぺろ(した!!!!)」
ミレイユは、殿下の黒髪を一舐めしていた。
(なんで!?なんでしたの私!?)
自分で自分に衝撃を受けていると、殿下が少しだけ動いた。
起きたか、とミレイユはぎくりとする。
耳がぺたりと伏せられ、尻尾の毛がふくらみかけた。
心臓が、どくんと大きく跳ねる。
でも殿下の寝息はそのまま、穏やかに続いている。
眠ったままだ。
(よかった……気づかれなかった)
ミレイユは素早くベッドの端へ戻り、何事もなかった顔で丸くなった。
いや、何事もなかった顔をしているつもりだったが、心臓はどきどきしていたし、たぶん耳もまだ少し寝ていた。
(今のは何。猫が好きな相手の頭を舐める、というのは聞いたことがある。あれか。あれが発動したのか。でも令嬢がやることではない。猫だけど。猫だから仕方がないのか。でもやった本人は私だし……)
(そもそも、好きな相手って何。誰が誰を好き。私が殿下を好き、ということ?そういうこと?猫として?それとも……?)
(考えない!考えてはいけない!あれは本能!猫科の本能!私はただ一時的に猫の体を借りている公爵令嬢なので、そういう感情とは無関係!無関係、のはず!)
(混乱する……!)
頭の中は大混乱なのに、体だけが妙に満たされていた。
喉の奥から、またごろごろと音が漏れる。
(体は満足しているらしい!!困る!!)
しかも困ったことに、あの一舐めで少しだけ安心した自分がいる。
それがいちばん困る、とミレイユ
いや、事件というほどではないのかもしれない。
でもミレイユにとっては、かなり『大変な出来事』だった。
殿下が今夜も疲れていることは、朝からわかっていた。
何か難しい案件を抱えているらしく、午前中は謁見、午後は会議、夕食のあとも書類仕事が続いた。
そのあいだずっと、ミレイユは執務室にいて殿下を見ていた。
殿下は表情には出さない。
公の場で顔を乱すことをしない人だ。
けれど猫としてそばにいると、それ以外のところで疲れが滲み出るのがわかる。
肩の線。呼吸の間。ペンを持つ指先の重さ。
夕方になるほど、その全部が少しずつ沈んでいく。
こちらが何もできないのに、気づいてしまうのがもどかしかった。
(今日も、かなり疲れてる)
夜も更けて、殿下がようやく仕事を切り上げ、寝所に入った。
ミレイユも後についていく。
殿下がベッドに入り、目を閉じる。
ミレイユはいつものように、ベッドの端へ丸まった。
今では毎夜ここが定位置だ。
(今日も疲れた顔をしていた……)
すぐには眠れなかった。
ミレイユはそっと立ち上がり、寝台の上を音を立てないよう歩く。
殿下の方へ、少しずつ。
眠っている殿下の顔を見た。
公務中や謁見中の顔とは違う。
力が抜けて、ただの若い人の顔になっている。
睫毛の影も、呼吸に合わせてわずかに上下する胸元も、眠っている人らしく無防備だった。
(疲れているね……)
しばらく、その横顔を見ていた。
なぜ見ているのか、自分でもわからない。
何かしてあげたいような、でも何もできないような、もどかしい気持ちだけが胸に残る。
(せめて、少しでも楽になってくれれば……)
そのときだった。
ふわり、と何かが押し上げてきた。
衝動、というのか。
『したい』という気持ちが、頭ではなく体の方から込み上げてきた。
考えるより先に、ひげの先までそわそわするような感覚が走る。
(え?なに?何がしたいの私?)
ミレイユは殿下の黒髪を見る。
(……ぺろぺろしたい)
(は!?)
(え、ちがう、なんでそういう方向に……)
(でも……したい……ぺろぺろ……)
(しません!しませんよ!王太子に猫が頭をぺろぺろするなんて、失礼極まりない!礼儀知らずにもほどがある!絶対にしません!)
猫の本能と、令嬢としての理性が激しくぶつかり合った。
三秒ほど、本気で葛藤した。
かなり本気だった。たぶん人生でも上位に入るくらい真剣な葛藤だった。
「ぺろ(した!!!!)」
ミレイユは、殿下の黒髪を一舐めしていた。
(なんで!?なんでしたの私!?)
自分で自分に衝撃を受けていると、殿下が少しだけ動いた。
起きたか、とミレイユはぎくりとする。
耳がぺたりと伏せられ、尻尾の毛がふくらみかけた。
心臓が、どくんと大きく跳ねる。
でも殿下の寝息はそのまま、穏やかに続いている。
眠ったままだ。
(よかった……気づかれなかった)
ミレイユは素早くベッドの端へ戻り、何事もなかった顔で丸くなった。
いや、何事もなかった顔をしているつもりだったが、心臓はどきどきしていたし、たぶん耳もまだ少し寝ていた。
(今のは何。猫が好きな相手の頭を舐める、というのは聞いたことがある。あれか。あれが発動したのか。でも令嬢がやることではない。猫だけど。猫だから仕方がないのか。でもやった本人は私だし……)
(そもそも、好きな相手って何。誰が誰を好き。私が殿下を好き、ということ?そういうこと?猫として?それとも……?)
(考えない!考えてはいけない!あれは本能!猫科の本能!私はただ一時的に猫の体を借りている公爵令嬢なので、そういう感情とは無関係!無関係、のはず!)
(混乱する……!)
頭の中は大混乱なのに、体だけが妙に満たされていた。
喉の奥から、またごろごろと音が漏れる。
(体は満足しているらしい!!困る!!)
しかも困ったことに、あの一舐めで少しだけ安心した自分がいる。
それがいちばん困る、とミレイユ



