今日は入った瞬間から
部室の空気がいつもと少し違った。
「お、春来た」
手を振っている陽向の隣におそるおそる腰をおろす。
「ちょうどよかった。今話してたんだけどさ」
「校内イベントあるだろ?軽音部、出演決まった。他校の軽音部も何校か集まるって」
「……え」
突然の陽向の言葉。
意味を理解するのに時間がかかった。
「うち、部員少ないから全員参加だって。春ももちろん出るから」
「いや、ちょっと待って、俺ーー」
「大丈夫だって。ほら、これ」
渡されたのは、コード譜だった。
最近よく耳にする、流行りのバラード。
「春にはこれを弾き語りしてもらう予定だって。春、ギター上手くなってるし、ちょうどいいだろ」
「……弾き語り」
その言葉が、すごく重く響いた。
「この曲、コードそんな難しくないし、春ならいけるって」
陽向はさらっと言う。
でも。
「…イベントっていつなの?」
「ちょうど三ヶ月後くらい」
ーー三ヶ月。
ギターはまだしも…
「……歌は、無理かもしれない」
ぽつりと口からこぼれた声は、
部室のざわめきに紛れて、
誰にも聞かれていなかった。
胸の奥が、
違った意味でざわついた。
ーー部活を終えると、ギターを持って奏の元へ向かう。
奏はいつも壁にもたれて空を見上げている。
「遅え」
手に持っている甘いコーヒーを差し出す。
「ん、さんきゅ」
受け取った奏がふっと笑う。
これがもう日常になっていた。
ギターを持って、隣に座る。
距離が近いことにも、
少しずつ慣れてきてしまっている自分がいた。
「……弾けよ」
「うん」
指を置いて、コードを鳴らす。
前よりもずっと自然に指が動くようになっていた。
「お前だいぶ上手くなってんじゃん」
「…そ、そうかな?」
「ああ、俺と練習してるおかげだな」
わざとらしく得意気に笑った。
ーーそのまま、ぽん、と
奏の手が頭に乗った。
「……っ」
一気に鼓動が速くなる。
奏にとっては何気ない動作のはずなのに。
ーー俺やっぱり、意識してる?
「…ん?…どした?」
「な、なんでもない」
わかってしまう…この感覚。
ーー好きに、なりかけている。
そう気づいた瞬間、
胸の奥がひやりとした。
…また、同じことになる。
「…なあ」
奏の声に、はっとして顔を上げる。
「お前、なんかあったか?」
「…あ」
少しだけ迷って、重い口を開く。
「校内イベントに出るんだって。三ヶ月後…弾き語り、なんだって」
「でも俺、歌った事なくて」
自分でも情けなくなるくらい小さい声で呟いた。
奏は少しだけ考えるように黙ってから、
「…教えてやるよ」
と、あっさり言った。
「え」
「今まで通り、厳しくな」
そう言って少しだけ口角を上げた。
「…いい、の?」
「は?今更?いつも教えてるだろ」
奏の言葉に、
少しだけ肩の力が抜ける。
「で、どんな曲?」
「こ、これ…なんだけど」
渡されたコード譜を見せる。
「ああ、これか」
懐かしそうに笑った。
「今のお前なら、コードは余裕だろ」
「……たぶん」
「あとは、慣れだな。弾き込め」
「…歌は?」
「それは聴きまくって覚えろ」
投げやりのようだけど、奏らしい答え。
「うん、やってみる」
ギターを構えてコードを鳴らす。
指は、思っていたよりもずっとスムーズに動いた。
「…違うな」
「え?」
「手首、もっと力抜け」
そう言いながら、
俺の手首に触れた。
距離が一気に近くなって、
意識がそこに全部持っていかれそうになる。
「ほら、もう一回」
「…うん」
言われた通り、もう一度弾いてみる。
さっきよりも、
少しだけ音が柔らかくなった。
「そう、それ。そのまま続けて」
そのまま弾き続ける。
そして、
俺の弾くギターにーー
少し遅れて、奏の声が重なった。
聴こえてきたのは、
優しくて真っ直ぐなメロディ。
ーーその瞬間。
世界が、止まった。
テレパシーのように、
心の奥に触れてくる歌声。
「……っ」
手が止まる。
息が、上手くできなかった。
ーーこの声。
知ってる。
忘れるはずがない。
あの夜、俺を救った音。
「……なんで」
涙が溢れてきて視界が滲んでいく。
「…おい」
奏の声から、
戸惑っているのが伝わってくる。
「ちょ、お前なんで泣いてんの」
胸の奥が全部、
涙と一緒に溢れてきて止まらなかった。
ーーあの時。
全部失ったと思った。
居場所も、大事な人も。
あの瞬間、
全部、壊れた。
どこにも居場所が無くなった俺に、
届いた音。
俺を救ってくれた音。
「…春」
その声にはっとして現実に戻る。
目の前に奏がいるのに、
視界が滲んで、前が見えない。
「……っ、やめ……」
「おい…どうした?」
困ったような声。
後ずさろうとした瞬間、
ぐっと腕を引かれた。
「……危ねえだろ」
そのまま、引き寄せられる。
抱きしめらているわけじゃない。
でも。
触れてる体温が暖かくて、
ーー嫌じゃない。
むしろ、離れたくないとさえ思ってしまう。
「…大丈夫か?」
心配そうな声が、すぐ近くに落ちる。
「なんでそんな泣いてんの」
…わからない。
でも、このままここにいたら、
俺はきっと。
"「俺、先輩の事好きです…」"
ーーそんなのだめだ。
「……っ、やめて」
とっさに、奏を突き放した。
「……は?」
驚いた顔でこちらを見てる奏。
「……ごめん」
それだけ言って走り出した。
ーーまた、同じだ。
近づいて、期待して、好きになって、
最後には全部失う。
そんなのもう、絶対に嫌だ。
「おいっ、春」
振り返らないまま、
ただ、走り続けた。
ーー逃げるしか、なかった。
部室の空気がいつもと少し違った。
「お、春来た」
手を振っている陽向の隣におそるおそる腰をおろす。
「ちょうどよかった。今話してたんだけどさ」
「校内イベントあるだろ?軽音部、出演決まった。他校の軽音部も何校か集まるって」
「……え」
突然の陽向の言葉。
意味を理解するのに時間がかかった。
「うち、部員少ないから全員参加だって。春ももちろん出るから」
「いや、ちょっと待って、俺ーー」
「大丈夫だって。ほら、これ」
渡されたのは、コード譜だった。
最近よく耳にする、流行りのバラード。
「春にはこれを弾き語りしてもらう予定だって。春、ギター上手くなってるし、ちょうどいいだろ」
「……弾き語り」
その言葉が、すごく重く響いた。
「この曲、コードそんな難しくないし、春ならいけるって」
陽向はさらっと言う。
でも。
「…イベントっていつなの?」
「ちょうど三ヶ月後くらい」
ーー三ヶ月。
ギターはまだしも…
「……歌は、無理かもしれない」
ぽつりと口からこぼれた声は、
部室のざわめきに紛れて、
誰にも聞かれていなかった。
胸の奥が、
違った意味でざわついた。
ーー部活を終えると、ギターを持って奏の元へ向かう。
奏はいつも壁にもたれて空を見上げている。
「遅え」
手に持っている甘いコーヒーを差し出す。
「ん、さんきゅ」
受け取った奏がふっと笑う。
これがもう日常になっていた。
ギターを持って、隣に座る。
距離が近いことにも、
少しずつ慣れてきてしまっている自分がいた。
「……弾けよ」
「うん」
指を置いて、コードを鳴らす。
前よりもずっと自然に指が動くようになっていた。
「お前だいぶ上手くなってんじゃん」
「…そ、そうかな?」
「ああ、俺と練習してるおかげだな」
わざとらしく得意気に笑った。
ーーそのまま、ぽん、と
奏の手が頭に乗った。
「……っ」
一気に鼓動が速くなる。
奏にとっては何気ない動作のはずなのに。
ーー俺やっぱり、意識してる?
「…ん?…どした?」
「な、なんでもない」
わかってしまう…この感覚。
ーー好きに、なりかけている。
そう気づいた瞬間、
胸の奥がひやりとした。
…また、同じことになる。
「…なあ」
奏の声に、はっとして顔を上げる。
「お前、なんかあったか?」
「…あ」
少しだけ迷って、重い口を開く。
「校内イベントに出るんだって。三ヶ月後…弾き語り、なんだって」
「でも俺、歌った事なくて」
自分でも情けなくなるくらい小さい声で呟いた。
奏は少しだけ考えるように黙ってから、
「…教えてやるよ」
と、あっさり言った。
「え」
「今まで通り、厳しくな」
そう言って少しだけ口角を上げた。
「…いい、の?」
「は?今更?いつも教えてるだろ」
奏の言葉に、
少しだけ肩の力が抜ける。
「で、どんな曲?」
「こ、これ…なんだけど」
渡されたコード譜を見せる。
「ああ、これか」
懐かしそうに笑った。
「今のお前なら、コードは余裕だろ」
「……たぶん」
「あとは、慣れだな。弾き込め」
「…歌は?」
「それは聴きまくって覚えろ」
投げやりのようだけど、奏らしい答え。
「うん、やってみる」
ギターを構えてコードを鳴らす。
指は、思っていたよりもずっとスムーズに動いた。
「…違うな」
「え?」
「手首、もっと力抜け」
そう言いながら、
俺の手首に触れた。
距離が一気に近くなって、
意識がそこに全部持っていかれそうになる。
「ほら、もう一回」
「…うん」
言われた通り、もう一度弾いてみる。
さっきよりも、
少しだけ音が柔らかくなった。
「そう、それ。そのまま続けて」
そのまま弾き続ける。
そして、
俺の弾くギターにーー
少し遅れて、奏の声が重なった。
聴こえてきたのは、
優しくて真っ直ぐなメロディ。
ーーその瞬間。
世界が、止まった。
テレパシーのように、
心の奥に触れてくる歌声。
「……っ」
手が止まる。
息が、上手くできなかった。
ーーこの声。
知ってる。
忘れるはずがない。
あの夜、俺を救った音。
「……なんで」
涙が溢れてきて視界が滲んでいく。
「…おい」
奏の声から、
戸惑っているのが伝わってくる。
「ちょ、お前なんで泣いてんの」
胸の奥が全部、
涙と一緒に溢れてきて止まらなかった。
ーーあの時。
全部失ったと思った。
居場所も、大事な人も。
あの瞬間、
全部、壊れた。
どこにも居場所が無くなった俺に、
届いた音。
俺を救ってくれた音。
「…春」
その声にはっとして現実に戻る。
目の前に奏がいるのに、
視界が滲んで、前が見えない。
「……っ、やめ……」
「おい…どうした?」
困ったような声。
後ずさろうとした瞬間、
ぐっと腕を引かれた。
「……危ねえだろ」
そのまま、引き寄せられる。
抱きしめらているわけじゃない。
でも。
触れてる体温が暖かくて、
ーー嫌じゃない。
むしろ、離れたくないとさえ思ってしまう。
「…大丈夫か?」
心配そうな声が、すぐ近くに落ちる。
「なんでそんな泣いてんの」
…わからない。
でも、このままここにいたら、
俺はきっと。
"「俺、先輩の事好きです…」"
ーーそんなのだめだ。
「……っ、やめて」
とっさに、奏を突き放した。
「……は?」
驚いた顔でこちらを見てる奏。
「……ごめん」
それだけ言って走り出した。
ーーまた、同じだ。
近づいて、期待して、好きになって、
最後には全部失う。
そんなのもう、絶対に嫌だ。
「おいっ、春」
振り返らないまま、
ただ、走り続けた。
ーー逃げるしか、なかった。


