言香の花嫁は、鍵穴の先を覗く

第7話 言葉に乗せた感情


 祭りの夜の雨鏡京は、川そのものが光っているみたいだった。

 南の水路に沿って何百という灯籠が並び、屋台の明かりが橋桁の影を金色に染めている。薄桃の紙で包んだ灯り、藍の縁取りを入れた灯り、夫婦円満だの恋の成就だのと縁起のいい文句を書き連ねた灯り。水へ流す前の灯籠は、まだ誰の願いも乗せていない顔をして、岸辺に整然と並べられていた。

 年に一度の灯籠流しは、恋の願いを水へ預ける夜だ。
 都じゅうの娘も若旦那も、ここぞとばかりに身なりを整えてやってくる。

 ゆかりは橋のたもとで足を止め、こめかみを押さえた。

「まだ始まってないのに、もうきつい……」

 鼻先に流れ込んでくる匂いが多すぎる。
 白粉の甘さ。油で揚げた菓子の香ばしさ。新しい反物の糊。酒。花。汗。そして、その全部の下に沈んでいる、人の本音の匂い。

 どうか私を見つけて。
 あの家より、うちのほうが上だと知らしめたい。
 今年こそいい話をつかみたい。
 どうせ遊びだろうけど、今夜だけなら。
 どうしてあの子ばかり選ばれるの。

 祝祭の夜は、明るい声のぶんだけ、胸の裏側もざわつく。
 恋を願う場はきれいだが、きれいなだけでは終わらない。比べる心も、負けたくない心も、少しだけ相手を見下す心も、一緒くたになって灯りの周りを回っている。

 横で圭介が立ち止まった。
「帰るか」
「帰りません」
 反射で答えると、圭介は呆れたようでも責めるようでもない目を向けてきた。
「顔色が悪い」
「祭りなんて大体こうです。始まったらもっとすごいだけで」
「威張ることではない」
「威張ってません」

 そう言い返しながらも、声に少し棘が混じったのが自分でわかった。匂いが多いと、頭の中で余計なものまで擦れ合う。

 今夜の警戒は礼縁局からも正式に出ていた。恋願いの灯籠へ紛れ、縁鍵を使ったまじないや偽の縁結び札が出回ることがあるらしい。祭りに集まる人の数を考えれば、綻びが起きてもおかしくない。

 だからこそ、鍵守寮も総出だった。
 少し離れたところでは央和が川縁の見回りへ人を振り分け、麻里佳が流し場の順路を整理している。世凪は「恋願いの文例集」と書かれた冊子をどこからか手に入れ、「これ、七割が同じ言い回しです」と妙なところで感心していた。

「七割どころか九割同じでも驚かん」
 圭介が言う。
「願掛けの文なんてそんなものですって。『どうかあの方と』は定番です」
「おまえは書いたことがあるのか」
「ありません」
「即答だな」
「圭介さんだってなさそうです」
「ない」

 そこだけは妙に息が合って、ゆかりは少しだけ口もとをゆるめた。

 そのとき、鋭く澄ました声が背後から飛んできた。

「あなたたち、こんな入口で立ち話をしている場合かしら」

 振り向くと、楓葉がいた。
 今夜の彼女は薄青の小袖に銀糸の帯を合わせ、髪には白い小花の簪を差している。気位の高さが歩いているみたいな娘だが、祭りの取り仕切りを任されたせいか、今夜はいつも以上に背筋がぴんと伸びていた。

 名家の娘である楓葉の家は、灯籠流しへ多額の寄進をしている。流し場の一角を預かっているのも、その縁だ。

「立ち話ではありません。見回り前の確認です」
 ゆかりが言うと、楓葉はふんと鼻を鳴らした。
「なら結構。今夜は粗相をしないでちょうだい。ここには都の人が大勢集まるのよ」
「ご心配どうも」
「心配ではなく忠告よ」

 相変わらず言い方が角ばっている。
 だが前みたいに、あからさまな侮りだけではなかった。指南所での一件以来、楓葉はゆかりを見る目を少しだけ改めたらしい。それでも口が優しくなるわけではないのが、いかにもこの娘だった。

「楓葉様、北側の流し場に紙足りません!」
 下働きの娘が駆けてくる。楓葉は即座にそちらへ向き直った。
「紙箱は二つ奥の台に積んであるわ。濡れているものは使わないで。書き直しの人を先に通しなさい」

 きつい声なのに、指示は的確だ。
 ゆかりは少しだけ意外に思った。

「見直したか」
 圭介が低く言った。
「別に」
「顔に出ている」
「圭介さん、たまにそういうところだけ細かいですよね」

 言って、二人は人の流れへ紛れた。

 空が濃紺へ沈むころ、灯籠流しが始まった。

 水際にしゃがんだ娘が、そっと灯りを押し出す。
 その後ろで若い男が、願いを書いた紙片をもう一度読み返している。夫婦連れは笑い合いながら、幼い子に灯籠の持ち方を教えていた。橋の上から見れば、光の種が水の面へ一粒ずつ蒔かれていくみたいだ。

 きれいだ、と最初は思った。
 だが、灯りが流れ出すほどに匂いは濃くなった。

 紙に乗せた願いは、文字になるぶんだけ輪郭を持つ。
 曖昧だった羨みも、口にしなかった打算も、誰かへ向けた執着も、水へ渡すための言葉を得た途端、匂いを増してゆかりの鼻先へ押し寄せた。

 甘ったるい香。青く刺す香。湿って沈む香。焦げたように苦い香。
 恋の成就を願う夜なのに、流れているのは恋ばかりではない。格。見栄。親の期待。婚礼資金。家同士の釣り合い。今の相手よりもっと都合のよい誰かがいるのではないかという迷い。

 ゆかりは呼吸を浅くした。

「藤代」
 圭介の声がした。
「平気です」
 反射で返したが、すぐに後悔した。
 平気なわけがない。耳の奥で水音が遠くなる。灯籠の明かりが揺れるたび、胸のあたりがざわざわと逆立った。

 流し場の中央で、ざわめきが大きくなった。
 誰かが落とした灯籠へ別の灯籠がぶつかり、火が移りかけたらしい。慌てて水をかける人、悲鳴を上げる娘、見物人を下がらせる警備の声。

 その瞬間だった。

 川沿いに吊るされた飾り灯の金具が、一斉に鈍く鳴った。
 からん、とひどく小さな音だったのに、ゆかりの背筋は凍った。

 いやな匂いがする。

 恋の願いが濁って腐ったような、ぬるい匂いだ。
 しかも一つではない。何十、何百という灯籠から漏れたものが、水面の上で混ざり合っている。

「圭介さん!」
 叫ぶのと、川面の光が歪むのが同時だった。

 流れていた灯籠の列が、ひとところで渦を巻く。
 水の上へ円い影が開き、灯籠の底に穿たれた小さな通し穴が、全部まとめて巨大な鍵穴になったみたいに黒を形づくる。水がそこだけ深く沈み、願いを書いた紙が風もないのに舞い上がった。

「下がれ!」
 央和の声が飛ぶ。
 人々が悲鳴を上げて後退する。

 黒い穴の向こうには、水ではなく無数の灯りが見えた。誰かに選ばれたかった夜。選ばれなかった夜。選ばれたふりをした夜。口では幸せだと言いながら、腹の底では別の名を思い出していた夜。
 そんなものが、遠い灯りになって幾重にも重なっている。

 綻びだ。
 しかも広い。

 圭介はすでに封鍵具を抜いていた。世凪が青い顔で退路を開け、麻里佳が周囲の人を避難させる。楓葉は混乱した下働きたちを怒鳴りつけるようにして誘導していた。

「列を乱さないで! 子どもを先に、川から離して!」

 その叫びの直後、足もとの板がきしんだ。
 仮設の流し台を支えていた木枠の金具から、細い黒が走っていたのだ。綻びの枝が地面へ伸びている。

「楓葉様!」
 ゆかりは駆けた。

 楓葉は振り返るのが遅れた。裾が木枠へ引っかかり、体勢を崩す。黒い裂け目が足首へ絡みつくように伸びた。

 ゆかりは手を伸ばし、楓葉の腕をつかんで引いた。
 冷たい。裂け目に触れた袖口から、ぞっとする湿り気が伝わる。

「離しなさい!」
 楓葉が反射的に叫んだ。
「離したら落ちます!」
「わたくしは落ちない!」
「今落ちかけてます!」

 引っ張り合う格好になり、黒がさらに濃くなる。
 楓葉のまとう白粉の香りの下から、強い匂いが噴いた。

 負けたくない。
 間違えたくない。
 ちゃんとしている娘だと、ずっと思われていたい。

 その匂いは高慢さだけではなかった。
 失敗したら終わると信じている人の、張りつめた匂いだ。

「楓葉様、こっち見て!」

 ゆかりは思いきり声を張った。
「今、体裁なんか守らなくていい! 怖いなら怖いでいいから、手を貸してって言って!」

 楓葉の瞳が見開かれる。
 震えた唇が、ようやく動いた。

「……っ、手を……」

 最後まで言う前に、圭介が踏み込んだ。
 封鍵具が木枠の金具へ打ち込まれ、黒が火花みたいに散る。央和が反対側から木枠を蹴り戻し、麻里佳が楓葉の背を押して安全な側へ引き込んだ。

「綻びの核は水面です!」
 世凪が叫ぶ。
「灯籠の願文が混線しています!」
「混線で済ませるな」
 圭介が切る。

 だが状況は最悪に近かった。水面の巨大な鍵穴は、流れてきた灯籠を飲み込みながら広がっている。綻びの向こうで、無数の願い文が誰のものでもない声になってさざめいていた。

 好きだと言って。
 うちの家を選んで。
 娘に恥をかかせないで。
 この縁談だけは逃がしたくない。
 あの子より先に。
 あの人の隣へ。
 誰でもいいから、ひとりにはしないで。

 ゆかりは息を呑んだ。
 胸の奥がきりきり痛む。恋の願いというより、見捨てられたくない心が何重にもこびりついている。

「藤代!」
 圭介が振り返る。
「核の匂いは」

 ゆかりは水面を見た。
 あまりに多すぎる。多すぎて、どれが核なのかわからない。どの願いも少しずつ自分本位で、少しずつ寂しい。きれいに見える灯りの列が、全部ひび割れたガラスみたいに思えた。

「わかり、ません……」

 情けない声が出た。
 鼻の奥が痛い。吐きそうだ。どうして自分は、こんなものばかり嗅いでしまうのだろう。

 誰かの幸せを見に来たのに、その裏側ばかり見えてしまう。
 祝う声より、比べる心が強く届く。
 好きという言葉より、選ばれたいという焦りのほうが先に匂う。

 これでは、人を幸せにする力どころか、幸せの上澄みを剥がすだけだ。

「……もう、やだ」

 こぼれた声は、自分でも驚くほど弱かった。
「こんなの、見たくない……」

 圭介の眉がわずかに動く。
 だが次の瞬間、彼は封鍵具を央和へ預け、ゆかりの腕をつかんだ。

「こっちだ」

「でも」
「いいから来い」

 半ば引きずるように、人混みの裏手へ連れ出される。
 屋台の並びを外れ、使われていない荷置き小屋の陰へ入ると、祭りのざわめきが少しだけ遠くなった。まだ水面の明かりは見えるが、匂いは幾分薄い。

 圭介はゆかりを小屋の壁際へ立たせ、自分がその前へ立った。
 視界の半分が、黒い羽織で遮られる。

「……何してるんですか」
「壁だ」
「は」

 圭介は真顔のままだった。

「見なくていいものまで見えるなら、せめて俺が壁になる」

 風が、ほんの一瞬だけ止まった気がした。

 ゆかりは言葉を失う。
 上手い慰めではない。きれいな言い回しでもない。けれど、その不器用な一言だけで、張りつめていたものが少しだけほどけた。

 全部を消してくれるわけじゃない。
 匂いはまだある。祭りも綻びも終わっていない。
 それでも、自分ひとりで全部受け止めなくていいのだと、そう言われた気がした。

「……そんなので、全部は防げませんよ」
 ゆかりはかすれた声で言った。
「知っている」
「圭介さん、紙の壁より薄そうですし」
「それは喧嘩を売っているのか」
「少しだけ」

 圭介は小さく息を吐いた。笑ったわけではないのに、その吐息だけで胸の奥が少し軽くなる。

 そこへ、衣擦れの気配がした。

「失礼」

 小屋の陰へ現れたのは、濃い鼠色の狩衣を着た男だった。年は三十前後だろうか。礼縁局の札を下げている。顔立ちは穏やかで、声にも角がない。

「藤代ゆかり殿ですね。あなたのお力の話は聞いております」

 その言葉の匂いに、ゆかりは反射で身を強ばらせた。

 甘い。
 だが、人を安心させる甘さではない。紙へ蜜を塗って虫を寄せるような、妙に均一な甘さだ。言葉の端に、本心を隠すための薄い漆が塗られている。

「礼縁局の者です」
 男は丁寧に会釈した。
「今夜の件、鍵守寮だけでは手が回らぬ場面もありましょう。あなたほどの感覚があれば、礼縁局でもっと有意義に――」

「用件を簡潔に」
 圭介が遮った。

 男はにこやかなまま、視線だけを圭介へ向ける。
「雨宮殿。これは本人にとってもよい話です。婚礼記録と照らし合わせれば、彼女の力は都のためにもっと役立てられる」

 都のため。
 便利な言い方だ。
 だが匂いは違う。

 役立てたいのではない。
 使いたいのだ。
 誰がどんな言葉を口にし、どんな本心を抱いているか。その選別へ、ゆかりの鼻を組み込みたい。そういう匂いがした。

「お断りします」
 ゆかりははっきり言った。
「まだ説明もしておりませんよ」
「説明の前に、あなたの言い方が嫌です」

 男の笑みがほんのわずかだけ薄くなる。

「率直なお方だ」
「美点だ」
 圭介が言う。

 男はひとつ息を整えた。
「礼縁局には、縁談で傷つく娘を減らしたいという考えがあります。あなたも祝言の場で、どれだけの濁りを見てきたかご存じでしょう。それを正せる仕組みがあるなら、悪い話ではないはずだ」

 その一言で、ゆかりの胸が冷えた。

 仕組み。
 人の心を、仕組みで。

 水面の綻びが大きくなった理由が、少しだけ見えた気がした。誰かが願いを願いのまま扱っていない。比べて、選別して、整理しようとしている。

「お引き取りを」
 圭介の声が低くなる。
「公務の妨げです」

 男はそれ以上食い下がらなかった。
 ただ最後に、ゆかりへだけ柔らかく笑いかける。

「気が変わったら礼縁局へ。あなたのような方は、大事に遇されるべきです」

 その“遇する”という言葉が、どうしようもなく気持ち悪かった。

 男が去ると、ゆかりは思いきり息を吐いた。
「大事にって言いながら、箱に入れて鍵かけそうな言い方でしたね」
「同感だ」
「礼縁局って、あんな人ばかりですか」
「少なくとも、まともな接触ではない」

 圭介は川のほうを見た。
 綻びはまだ続いている。逃げている時間はない。

「戻れるか」

 問われて、ゆかりは唇を結んだ。
 怖い。気持ち悪い。全部見たくない。
 でも、さっき楓葉を引いた腕にまだ震えが残っている。逃げれば、あの場の誰かがまた巻き込まれる。

「……戻ります」
「無理はするな」
「します」
「するな」
「じゃあ、ほどほどにします」

 そんな言い合いを交わして、小屋の陰を出る。

 川辺へ戻ると、綻びは形を変えていた。巨大な鍵穴の周囲に、灯籠が同じところを回り続けている。水面に流れていくはずの願いが、どれも前へ進めない。

 人々のざわめきの向こうで、楓葉がまだ現場に立っていた。袖は濡れ、顔色も悪い。それでも下働きの娘をかばうように前へ出ている。

「楓葉様、下がってください!」
 ゆかりが叫ぶ。
「あなたこそ、また無茶をしに来たの」
「無茶をしないと間に合わないんです!」

 楓葉は何か言い返しかけ、だが言葉を飲み込んだ。
 さっき助けられたことが、彼女にもまだ残っているらしい。

「……何をすればいいの」

 その聞き方は、前とは違った。
 命令でも皮肉でもなく、本当に必要なことを知ろうとする声だった。

「流し場の灯籠、家の名が大きく書いてあるものから外してください」
 ゆかりは鼻を押さえながら言った。
「見栄の匂いが濃いのが混ざってる。願いだけの灯りと分けたいんです」

 楓葉は目を見開いた。
 たぶん、そんな分け方をしたことは一度もないのだろう。だが彼女はすぐ、後ろを振り返って声を張った。

「紋入りの灯籠を右へ! 名を誇る文句のものも分けなさい! 恋願いだけのものを中央へ寄せて!」

 下働きたちが走る。
 世凪が「家名が大きいほどよく燃えます!」などと余計なことを言って央和に小突かれた。

 ゆかりは水面へ集中した。
 匂いがさっきより少しだけ分かれてきた。見栄と打算の灯りが端へ寄ることで、真ん中に残った匂いが浮き上がる。

 恋の願いの匂い。
 それは甘いだけではない。恥ずかしさも、不安も、拒まれる怖さも混じっている。
 でも、その中に一つだけ、真っすぐな匂いがあった。

 選ばれたい、ではない。
 わたしも選ぶ、という匂いだ。

 かすかな檜の葉を指で折ったときみたいな、青くて強い匂い。

「圭介さん、真ん中じゃない!」
 ゆかりは叫んだ。
「少し北! 橋脚の影に、流れていけない灯籠が引っかかってる!」

 央和が即座に舟を回し、橋脚脇へ竿を伸ばす。そこで見つかったのは、一つだけ妙に重い灯籠だった。外から見れば普通だが、底板に小さな鍵穴の飾りが刻まれ、そこへ灰色の糸が幾重にも巻きついている。

「細工だ」
 圭介が低く言う。

 その灯籠が核だった。
 誰かが恋願いの夜へ、人の願いを絡ませる仕掛けを混ぜ込んだのだ。

「世凪、願文の筆跡を控えろ。麻里佳、周辺の灯籠を離せ」
 圭介が指示を飛ばす。
 そして自分は橋脚の縁へ飛び乗った。黒羽織が灯りを背負い、夜の水の上で切っ先みたいに見える。

 綻びの向こうから、声にならない願いが噴いた。
 好きだと言わせたい。
 釣り合う相手を逃したくない。
 どうせ恋なんて、整えた者が勝つ。

 ゆかりは歯を食いしばる。
 違う。そんなものだけじゃない。

「ほんとの願いは、怖くても自分で差し出すものだ!」

 叫ぶと同時に、水面の灯りの一つがふっと明るくなった。
 小さな紙片が浮かび上がる。そこに書かれていたのは、飾り気のない短い文だった。

 ――あの人と、ちゃんと話せますように。

 それは相手を奪う願いでも、家を勝たせる願いでもない。
 たったそれだけの、拙い願いだ。
 けれど、その拙さが、この場でいちばんまっすぐだった。

 圭介が封鍵具を灯籠の底へ差し込む。

「閉じろ」

 低い声が、水面の上で冴えた。
 灰色の糸が一斉に切れ、巨大な鍵穴が縫い合わされるように細くなっていく。回り続けていた灯籠の列が、ようやく下流へほどけはじめた。橋の上で悲鳴を上げていた人々が、息を呑んでその光景を見守る。

 最後に黒がひとしずくみたいに沈み、水面にはただ灯籠の列だけが残った。

 終わった。

 緊張が抜けた途端、ゆかりは膝が笑うのを感じた。だが今度は転びそうになる前に、楓葉が片腕を支えた。

「しっかりなさい」
 言い方はいつも通りだったが、声は少し震えていた。

「……ありがとうございます」
 ゆかりが言うと、楓葉は眉をひそめた。
「礼を言うのはわたくしのほうよ」

 その言葉に、ゆかりは目を瞬かせた。

 楓葉は濡れた袖を握りしめたまま、視線を逸らす。
「さっき、助けられたわ。それに……あなたが言った通りだった」
「何がですか」
「怖いなら怖いと言えばいい、って」

 少しの沈黙。
 祭りのざわめきが遠くで戻りはじめる。

「わたくし、ずっと、失敗したくなかったの」
 楓葉が低く言う。
「ちゃんとした娘だと思われていれば、縁談でも家でも間違えないと思ってた。だから、そうじゃないものを見下していたのかもしれない」

 ゆかりは何も言わずに聞いた。

「……でも今夜、助けられたのはわたくしだった」
 楓葉はようやくこちらを見た。
「前に、失礼なことを言ったわね」

 謝るのが苦手なのだろう。きれいに頭を下げることもできず、口調も少し硬い。それでも十分だった。

「ええ、かなり」
 ゆかりが言うと、楓葉はむっとした。
「そこで素直に頷くの」
「だって事実ですし」

 そのやり取りを横で聞いていた世凪が、ぼそっと呟いた。
「仲良くなる前の手順が大変ですねえ」
 央和が無言で後頭部をはたく。

 圭介が橋脚から戻ってきた。袖口は少し濡れているが、表情はいつも通りだ。

「藤代」
「はい」
「礼縁局の札を下げた男の人相は覚えているな」
「蜜を塗った紙みたいな匂いの人ですよね」
「匂い以外で」

 ゆかりは少し考え、男の顔つきと声を思い出した。楓葉も横から、「流し場の北に立っていたなら、寄進台帳に出入りの記録があるかもしれない」と言った。さっきまで意地の張り合いをしていた娘が、いまはちゃんとこちらの捜査へ加わってくれている。

 祭りの警戒はまだ終わらない。
 けれど今夜の綻びは、ただの事故ではなかった。
 誰かが、恋の願いの多い夜を選んで細工した。しかも礼縁局の名を使ってゆかりへ接触までしてきた。

 水面を流れていく灯籠を見ながら、ゆかりは胸の奥を押さえた。

 きれいな願いばかりではない。
 人の本音は相変わらず濁るし、見たくないものもこれからまだ嗅いでしまうだろう。
 それでも今夜、たった一つだけ、まっすぐな願いがあった。
 怖くても、ちゃんと話したいと願う灯りがあった。

 ああいうものがあるなら。
 全部を呪いだと言い切るのは、まだ早いのかもしれない。

「帰り、少し遠回りしませんか」
 気づけば、ゆかりはそう口にしていた。

 圭介がこちらを見る。
「匂いを散らしたいので」
「……わかった」

 短い返事。
 だがそのとき、祭りの風の中に、ごくかすかに、雨に濡れた木みたいな気配がした気がした。

 錯覚かもしれない。
 それでも、さっき小屋の陰で自分の前へ立った背中を思い出すと、胸の奥のざわつきは少しだけ別の熱を帯びた。

 水路を流れていく灯籠の列は、もう同じ場所を回っていない。
 行き先のわからない夜の水へ、それでも一つずつ、自分の願いを預けて進んでいく。

 ゆかりはその光を見つめながら、黒羽織の背を半歩だけ近く感じていた。

【終】