第6話 あなたのにおいがしない人
そのことに気づいたのは、事件のあと、ようやく騒ぎが引いた夜更けだった。
鍵守寮の裏手にある小さな炊事場では、遅い片づけがまだ続いていた。土鍋の底にこびりついた粥をこそげる音。帳面を閉じる紙の擦れる音。薄い生姜湯の湯気。央和の袖には外の夜気と油の匂いがあり、麻里佳の指先には墨と乾いた木箱の匂いが残っている。世凪に至っては、古文書蔵へ潜ったあとらしく、黴と紙魚避けの香までまとっていた。
人にはそれぞれ匂いがある。
香木のように上等な匂いばかりではない。寝不足のざらつき、うっかり隠しきれない焦り、誰かを心配しているときの酸いような苦さ。目で見える表情より、鼻先へ届く感情のほうが、ゆかりにとってはずっと先にその人を教えてくる。
だから、隣に立った圭介の気配に、また胸の奥が引っかかった。
近い。息づかいも、衣擦れも、ちゃんと近い。
なのに、匂いだけが、ほとんど来ない。
黒羽織に移った夜気と、封鍵具の金属の冷えた匂いはある。雨に濡れた石段の匂いも少し。けれど、それだけだ。人の内側に必ずあるはずの、熱のような、柔らかい濁りのようなものが、彼からだけ見事に抜け落ちている。
これまでも薄いとは思っていた。思っていたが、今夜ははっきりしすぎていた。
「圭介さん」
帳面を閉じかけていた本人が顔を上げる。
「何だ」
「前からちょっと思ってたんですけど」
「嫌な前置きだな」
「圭介さん、ほんとに匂いしませんね」
世凪が湯呑みを取り落としかけた。麻里佳がむせ、央和が眉ひとつ動かさずにだけ、火箸を置く。
「藤代さん」
麻里佳が小声で言った。
「そういうのは、もう少し、こう……」
「婉曲に?」
「せめて二人きりのところで」
「今さら取り繕っても遅い」
圭介が淡々と言う。
遅いらしい。ゆかりは口をつぐんだが、圭介は怒ったふうではなかった。怒るどころか、書き損じの一行を眺めるような顔で、少しだけ視線を落とした。
「全くしないわけではない」
ややあって、彼は言った。
「おまえが嗅ぎ取れないほど薄いだけだ」
「それ、十分おかしいですよ」
「俺もそう思う」
あまりにあっさり認めるので、今度はゆかりのほうが詰まった。
世凪は空気を読んだつもりらしく、わざとらしく咳払いした。
「ええと、僕は記録庫へ戻ります! この場にいると何となく怒られそうなので!」
「最初からそうしていろ」
央和が言う。
「はい!」
世凪が逃げるように帳面を抱え、麻里佳も「薬湯を取りに」と席を立つ。炊事場に残ったのは、火の赤みと、圭介と、片づけ忘れた湯呑みだけになった。
しんとした沈黙が落ちる。
まずいことを言った自覚はある。あるのに、引っ込めるには気になりすぎた。
「……聞いてもいいですか」
圭介はすぐには答えなかった。炭火の明かりが、横顔の輪郭だけを薄く照らす。感情を読む匂いはなくても、黙り込んだときの彼が少し遠くへ行くことくらいは、最近のゆかりにもわかるようになっていた。
「長くなる」
「今夜はもう帰れません」
「帰る気はあったのか」
「ありましたけど、いまなくなりました」
圭介はほんの少しだけ息を吐いた。呆れたようにも見えたし、諦めたようにも見えた。
「外へ出るか」
裏手の渡り廊下は、水路へ面している。夜の雨鏡京は、昼間よりずっと音が多い。遠くの舟歌。橋板を渡る下駄の高い音。屋台を畳む木箱の軋み。川風は冷たかったが、炊事場の熱を帯びた頬にはちょうどよかった。
欄干にもたれた圭介は、しばらく水面を見ていた。
「幼い頃に、大きな綻びへ呑まれたことがある」
唐突だったが、ごまかす気のない声だった。
「生きて戻った。それで終わりなら、まだよかった」
ゆかりは黙って聞く。
「戻ってから、他人の感情の匂いを受け取れなくなった。前はどうだったか、今となっては比べようがない。ただ、周りが嗅いでいるものを、俺だけ拾えないらしいと気づくまでに、そう時間はかからなかった」
「らしい、って」
「綻びの現場では、匂いを読む者がいる。礼縁局にも香読みに長けた者は少しはいる。俺だけ、空っぽだった」
川風が袖を揺らした。
「俺からも、ほとんど匂いが立たないそうだ。妙だろう」
妙だ、とは思わなかった。
むしろ、その一言をあまりに平らに言うことのほうが、胸にこたえた。
「……それで」
ゆかりは慎重に言葉を探した。
「それから、どうしたんですか」
「どうもしない」
圭介は即答した。
「拾えないものを惜しんでも仕方がない。目で見る。声を聞く。嘘が混じっていそうなら、記録と手順で潰す。そうやってきただけだ」
「期待しないように?」
その問いに、彼はようやくこちらを見た。
「そうだ」
まっすぐすぎる返事だった。
嘘なら、たぶんもっとましな言い方をする。便利だから、支障はないから、そういう理屈を重ねるはずだ。なのに圭介は、まるで既に削り終えた石の面みたいに、余計な飾りをつけなかった。
「人の本心をあてにしすぎなければ、外れても困らない」
水面がきらりと揺れる。
ゆかりの鼻は、彼から何も拾えない。拾えないのに、その言葉の冷え方だけで、どれだけ長くそうやってきたのかがわかる気がした。
「それ」
ゆかりは、思ったことをそのまま口に出した。
「寂しくないんですか」
圭介は答えなかった。
答えなかった、というより、答えられなかったのだと、沈黙でわかった。
橋の下をくぐる夜舟の棹が、水を切る。遠くで犬が一声鳴いた。都はちゃんと生きているのに、この渡り廊下だけ、妙に静かだった。
「……わからない」
やがて、圭介が低く言う。
「長くそうだったから、寂しいのが普通なのかどうかも」
その言葉が胸に落ちた瞬間、ゆかりは自分の両手を強く握った。
嗅ぎたくもないものが嗅える自分。
嗅ぎたいものが、きっとあるのに嗅げない彼。
どちらがましだなんて、決められるはずがない。
そこへ、廊下の向こうからばたばたと足音がした。世凪が息を切らせ、紙片を振りながら飛び込んでくる。
「橋守から知らせです! 西の水路、柳渡橋の下で綻び! 小さいけど、形が嫌だそうで!」
嫌な形、で通じるのが鍵守寮だった。圭介は一瞬で表情を切り替えた。
「場所は」
「橋脚の点検口! 繋いだ舟が一本、縄を切って流されかけたそうです!」
「央和を起こせ。麻里佳には橋上の封鎖を」
「はい!」
世凪がまた走っていく。
圭介はゆかりに向き直った。
「行けるか」
「行きます」
「さっきの話は忘れろ」
「無理です」
間髪入れず返すと、圭介の眉がわずかに動いた。
「でも、今はそっちです」
ゆかりは柳渡橋の方角を見る。
「仕事、しましょう」
橋の下は、夜になると別の町みたいだった。
橋上の賑わいは木板一枚ぶん遠く、下へ降りれば水の音と湿った石の匂いばかりが広がる。橋脚の脇には細い点検路があり、足を踏み外せばそのまま水路へ落ちる。提灯の明かりは弱く、風が吹くたび頼りなく揺れた。
央和と麻里佳は上から人を遠ざけている。下へ降りたのは、圭介とゆかりだけだった。
「……近い」
ゆかりは鼻を押さえた。
湿った木縄、腐りかけた藻、鉄錆。その下に、別の匂いがある。
胸のつかえ。言いかけてやめた言葉。信じたいのに信じきれない苛立ち。
「妬みじゃない」
ゆかりは小さく言う。
「疑ってる匂いでもない。もっと……確かめたくて、でも聞けなかった感じ」
圭介は提灯を受け取り、橋脚の金具を順に見ていく。視線の動きに無駄がない。釘の緩み、舟を繋いでいた縄の擦れ、点検口の錠前に残った泥。匂いを読めないぶん、目と指先で世界を解いていく人の動きだった。
「こちらだ」
橋脚の裏、外からは見えにくい場所に、古い点検口があった。鉄の輪に小さな鍵穴がついている。そこから黒が細く滲み、夜気を冷やしている。
裂け目はまだ浅い。だが放っておけば、水路に繋がれた舟や橋の金具へ広がる。
「開く前に押さえる」
圭介が言う。
「藤代、匂いの芯を探れ」
「はい」
ゆかりは膝をついて、点検口へ顔を寄せた。
鼻先へ刺さったのは、冷たい水気に混じる、うまく言えなかった言葉の匂いだった。
――ほんとに、私でよかったの。
――かわいそうだからって、言ったんじゃないの。
――そうじゃないなら、ちゃんと、そう言って。
細い声が、鍵穴の向こうで絡まっている。
「女の人」
ゆかりが呟く。
「自分が選ばれた理由を、信じきれなかった。相手がやさしい人だから、なおさら。情けで言われたのか、ほんとに欲しかったのか、わからなくて……」
そのとき、黒がぶわりと膨れた。
点検口が半ば裂け、向こうに小さな異界がのぞく。そこは橋の下そっくりなのに、舟が一艘もない。縄だけが何本も垂れ下がり、誰も繋いでくれないまま、水の上で揺れている。
ゆかりの足もとへ、水しぶきのように紙片が散った。文ではない。短冊だ。恋成就の願い札らしいものが、濡れて文字を滲ませている。
「祭りの残りか」
圭介が低く言う。
柳渡橋は、夏の終わりに願い札を結ぶ場所として知られている。昼間なら賑やかなはずの橋の下で、夜の異界はひどく心細く見えた。
「来る」
圭介が言った次の瞬間、垂れた縄の先が一斉に跳ねた。
蛇みたいにうねった縄が、ゆかりの足首を狙ってくる。圭介が間に入り、封鍵具の柄で一本を払う。縄は硬い音を立てて石へ叩きつけられたが、すぐまた起き上がった。
「下がれ」
「でも匂いが」
「いい、口で追え」
圭介は点検路の狭さを利用して立ち位置を変えた。一本をわざと引きつけ、もう一本の進路を塞ぐ。視線は縄だけでなく、橋脚の継ぎ目と錠前の裂け目を同時に追っている。何が核で、どこを閉じれば全部止まるのか、その形を目で見切っていた。
ゆかりは石壁に手をつき、息を整える。
暗い。狭い。水の反射が揺れて、境目がわかりにくい。匂いだけを頼りに、向こう側の声を拾う。
「情けじゃいやだったんです!」
ゆかりは異界へ向かって叫んだ。
「やさしいから選ばれたんじゃなくて、自分がほしいと思われたかった!」
縄がぴたりと止まる。
「かわいそうだから隣にいるって言われても、うれしくない! それなら断られたほうがまだましだった!」
水面の色が変わった。黒に近かった揺れが、少しだけ鈍い銀へ戻る。
圭介が一歩踏み込み、裂け目の縁へ封鍵具を差し込む。だが奥にまだ芯があるのだろう、黒は完全には崩れない。
「もう一つだ」
彼の声が飛ぶ。
ゆかりは息を吸った。鼻の奥が痛い。けれど、まだ終わっていない。
選ばれた理由を疑う匂い。その裏に、もっと細い、言えなかった側の言葉がある。
「……相手の人も、うまく言えなかった」
ゆかりははっとした。
「ほんとは違う。慰めでも情けでもなくて、ずっと前から好きだった。でも、ちゃんと言葉にするのが下手で、優しくすることで伝わると思ってた」
圭介の目がわずかに細まる。
「そうか」
彼は裂け目の奥を見据えたまま、短く言った。
「なら、そっちを引きずり出せ」
言われて、ゆかりは妙に腹が立った。
「簡単に言わないでください!」
「事実だ」
「事実でも、こういうのは難しいんです!」
「だからおまえがいる」
言い返しかけた言葉が、そこで止まった。
自分には嗅ぎたくもないものが届く。
彼には届かない。
だから、ここでは自分が言うしかない。
ゆかりは裂け目の向こうを見た。舟のない水面。垂れた縄。誰も繋いでくれないと思い込んで、先に手を離してしまった心。
「……ちゃんと、言ってほしかったんでしょう!」
声が石壁に跳ね返る。
「察してほしいんじゃなくて、選んだって、あなたがいいって、はっきり聞きたかったんでしょう!」
異界の奥で、見えない誰かが息を呑んだ気配がした。
「やさしいだけじゃ足りないんです。やさしいからこそ、ほんとが見えなくなることがあるんです!」
その瞬間、垂れていた縄が一斉にほどけた。
圭介が封鍵具を深く押し込む。
「閉じろ」
金具が噛み合う硬い音。
裂け目は細く縫われるように閉じていき、濡れた短冊がひらひらと現実の石畳へ落ちた。最後に残った黒は点のように縮み、点検口の鍵穴へ吸い込まれて消える。
静かになった。
水の音だけが戻る。
ゆかりは力が抜け、その場へしゃがみ込みそうになった。だが、先に伸びてきた手が腕を支えた。圭介の手だ。冷えているはずなのに、掌だけはちゃんと人の温度だった。
「立て」
「……立ちます」
立ったものの、足が少しふらつく。点検路は狭い。橋脚を回るとき、ゆかりは足もとの苔に滑りかけた。
水路がすぐ脇に口を開ける。
落ちる、と思うより早く、圭介が肩を引いた。
背中が硬い胸へぶつかる。ぐっと支えられ、ゆかりの鼻先へ黒羽織の布が触れた。
それでも、やっぱり匂いは薄い。
夜気と、金属と、濡れた木の匂いだけ。
なのに今は、その薄さが前よりずっとつらく思えた。
「……危ない」
圭介が言う。
「おまえは足もとを見ろ」
「圭介さんこそ」
「俺は見ていた」
「そういうことじゃなくて」
言ってから、言葉が続かなかった。
そういうことじゃない。
見えているのに届かないものがあること。届かないと知ったまま、期待しない癖を身につけてしまったこと。さっき渡り廊下で聞いた話が、胸の奥にまだ残っている。
橋の上へ戻ると、央和が短く状況を確認し、麻里佳が封鎖を解く支度に入った。世凪は濡れた短冊をつまみ上げ、早くも「恋願いと点検口の鍵穴の相性について」という妙な考察を始めている。
「相性じゃない。放置だ」
圭介が一言で切る。
「はい!」
騒がしいやり取りを聞きながら、ゆかりは欄干の向こうの水面を見た。
さっきまで橋の下にあったのは、誰かの恋のもつれだ。よくあることと言ってしまえば、きっとそうなのだろう。選ばれた理由がわからなくて怖くなることも、うまく言葉にできずにすれ違うことも、都のどこにでも転がっている。
でも、だからこそ思う。
嗅ぎたくもない本音が押し寄せるのは、つらい。
けれど、嗅ぎたいものが永遠に届かないのも、別のつらさだ。
しかも圭介は、それをつらいと呼ぶ言葉すら、どこかへ置き忘れてしまっている。
「藤代」
呼ばれて顔を上げると、圭介が提灯を差し出していた。
「帰り道、足もとを照らせ」
「……はい」
受け取る。薄い光が指先を照らした。
「さっきの綻び」
ゆかりは歩き出しながら言った。
「選ばれた理由がわからないの、苦しかったんでしょうね」
「そうだろうな」
「相手がやさしい人だと、余計に」
圭介は黙っていた。
その沈黙を、いつものように無愛想だと片づける気になれなかった。
ゆかりは提灯の明かりを見つめる。
嗅ぎたくもないものが嗅える自分と、嗅ぎたいものが嗅げない彼。
欠け方は違うのに、どこかで並んでしまう。
だったらせめて、自分だけは。
この人が、わからないまま諦めてきたものを、勝手にないことにしたくない。
そんなふうに思ったのは、たぶん初めてだった。
夜の柳渡橋を渡る風は冷たい。けれどその冷たさの中で、ゆかりの胸には、前とは少し違う痛みが残っていた。
それは恐れではなく、同情でもなく。
たぶん、誰かの孤独が、自分ごととして入り込んできたときの痛みだった。
【終】
そのことに気づいたのは、事件のあと、ようやく騒ぎが引いた夜更けだった。
鍵守寮の裏手にある小さな炊事場では、遅い片づけがまだ続いていた。土鍋の底にこびりついた粥をこそげる音。帳面を閉じる紙の擦れる音。薄い生姜湯の湯気。央和の袖には外の夜気と油の匂いがあり、麻里佳の指先には墨と乾いた木箱の匂いが残っている。世凪に至っては、古文書蔵へ潜ったあとらしく、黴と紙魚避けの香までまとっていた。
人にはそれぞれ匂いがある。
香木のように上等な匂いばかりではない。寝不足のざらつき、うっかり隠しきれない焦り、誰かを心配しているときの酸いような苦さ。目で見える表情より、鼻先へ届く感情のほうが、ゆかりにとってはずっと先にその人を教えてくる。
だから、隣に立った圭介の気配に、また胸の奥が引っかかった。
近い。息づかいも、衣擦れも、ちゃんと近い。
なのに、匂いだけが、ほとんど来ない。
黒羽織に移った夜気と、封鍵具の金属の冷えた匂いはある。雨に濡れた石段の匂いも少し。けれど、それだけだ。人の内側に必ずあるはずの、熱のような、柔らかい濁りのようなものが、彼からだけ見事に抜け落ちている。
これまでも薄いとは思っていた。思っていたが、今夜ははっきりしすぎていた。
「圭介さん」
帳面を閉じかけていた本人が顔を上げる。
「何だ」
「前からちょっと思ってたんですけど」
「嫌な前置きだな」
「圭介さん、ほんとに匂いしませんね」
世凪が湯呑みを取り落としかけた。麻里佳がむせ、央和が眉ひとつ動かさずにだけ、火箸を置く。
「藤代さん」
麻里佳が小声で言った。
「そういうのは、もう少し、こう……」
「婉曲に?」
「せめて二人きりのところで」
「今さら取り繕っても遅い」
圭介が淡々と言う。
遅いらしい。ゆかりは口をつぐんだが、圭介は怒ったふうではなかった。怒るどころか、書き損じの一行を眺めるような顔で、少しだけ視線を落とした。
「全くしないわけではない」
ややあって、彼は言った。
「おまえが嗅ぎ取れないほど薄いだけだ」
「それ、十分おかしいですよ」
「俺もそう思う」
あまりにあっさり認めるので、今度はゆかりのほうが詰まった。
世凪は空気を読んだつもりらしく、わざとらしく咳払いした。
「ええと、僕は記録庫へ戻ります! この場にいると何となく怒られそうなので!」
「最初からそうしていろ」
央和が言う。
「はい!」
世凪が逃げるように帳面を抱え、麻里佳も「薬湯を取りに」と席を立つ。炊事場に残ったのは、火の赤みと、圭介と、片づけ忘れた湯呑みだけになった。
しんとした沈黙が落ちる。
まずいことを言った自覚はある。あるのに、引っ込めるには気になりすぎた。
「……聞いてもいいですか」
圭介はすぐには答えなかった。炭火の明かりが、横顔の輪郭だけを薄く照らす。感情を読む匂いはなくても、黙り込んだときの彼が少し遠くへ行くことくらいは、最近のゆかりにもわかるようになっていた。
「長くなる」
「今夜はもう帰れません」
「帰る気はあったのか」
「ありましたけど、いまなくなりました」
圭介はほんの少しだけ息を吐いた。呆れたようにも見えたし、諦めたようにも見えた。
「外へ出るか」
裏手の渡り廊下は、水路へ面している。夜の雨鏡京は、昼間よりずっと音が多い。遠くの舟歌。橋板を渡る下駄の高い音。屋台を畳む木箱の軋み。川風は冷たかったが、炊事場の熱を帯びた頬にはちょうどよかった。
欄干にもたれた圭介は、しばらく水面を見ていた。
「幼い頃に、大きな綻びへ呑まれたことがある」
唐突だったが、ごまかす気のない声だった。
「生きて戻った。それで終わりなら、まだよかった」
ゆかりは黙って聞く。
「戻ってから、他人の感情の匂いを受け取れなくなった。前はどうだったか、今となっては比べようがない。ただ、周りが嗅いでいるものを、俺だけ拾えないらしいと気づくまでに、そう時間はかからなかった」
「らしい、って」
「綻びの現場では、匂いを読む者がいる。礼縁局にも香読みに長けた者は少しはいる。俺だけ、空っぽだった」
川風が袖を揺らした。
「俺からも、ほとんど匂いが立たないそうだ。妙だろう」
妙だ、とは思わなかった。
むしろ、その一言をあまりに平らに言うことのほうが、胸にこたえた。
「……それで」
ゆかりは慎重に言葉を探した。
「それから、どうしたんですか」
「どうもしない」
圭介は即答した。
「拾えないものを惜しんでも仕方がない。目で見る。声を聞く。嘘が混じっていそうなら、記録と手順で潰す。そうやってきただけだ」
「期待しないように?」
その問いに、彼はようやくこちらを見た。
「そうだ」
まっすぐすぎる返事だった。
嘘なら、たぶんもっとましな言い方をする。便利だから、支障はないから、そういう理屈を重ねるはずだ。なのに圭介は、まるで既に削り終えた石の面みたいに、余計な飾りをつけなかった。
「人の本心をあてにしすぎなければ、外れても困らない」
水面がきらりと揺れる。
ゆかりの鼻は、彼から何も拾えない。拾えないのに、その言葉の冷え方だけで、どれだけ長くそうやってきたのかがわかる気がした。
「それ」
ゆかりは、思ったことをそのまま口に出した。
「寂しくないんですか」
圭介は答えなかった。
答えなかった、というより、答えられなかったのだと、沈黙でわかった。
橋の下をくぐる夜舟の棹が、水を切る。遠くで犬が一声鳴いた。都はちゃんと生きているのに、この渡り廊下だけ、妙に静かだった。
「……わからない」
やがて、圭介が低く言う。
「長くそうだったから、寂しいのが普通なのかどうかも」
その言葉が胸に落ちた瞬間、ゆかりは自分の両手を強く握った。
嗅ぎたくもないものが嗅える自分。
嗅ぎたいものが、きっとあるのに嗅げない彼。
どちらがましだなんて、決められるはずがない。
そこへ、廊下の向こうからばたばたと足音がした。世凪が息を切らせ、紙片を振りながら飛び込んでくる。
「橋守から知らせです! 西の水路、柳渡橋の下で綻び! 小さいけど、形が嫌だそうで!」
嫌な形、で通じるのが鍵守寮だった。圭介は一瞬で表情を切り替えた。
「場所は」
「橋脚の点検口! 繋いだ舟が一本、縄を切って流されかけたそうです!」
「央和を起こせ。麻里佳には橋上の封鎖を」
「はい!」
世凪がまた走っていく。
圭介はゆかりに向き直った。
「行けるか」
「行きます」
「さっきの話は忘れろ」
「無理です」
間髪入れず返すと、圭介の眉がわずかに動いた。
「でも、今はそっちです」
ゆかりは柳渡橋の方角を見る。
「仕事、しましょう」
橋の下は、夜になると別の町みたいだった。
橋上の賑わいは木板一枚ぶん遠く、下へ降りれば水の音と湿った石の匂いばかりが広がる。橋脚の脇には細い点検路があり、足を踏み外せばそのまま水路へ落ちる。提灯の明かりは弱く、風が吹くたび頼りなく揺れた。
央和と麻里佳は上から人を遠ざけている。下へ降りたのは、圭介とゆかりだけだった。
「……近い」
ゆかりは鼻を押さえた。
湿った木縄、腐りかけた藻、鉄錆。その下に、別の匂いがある。
胸のつかえ。言いかけてやめた言葉。信じたいのに信じきれない苛立ち。
「妬みじゃない」
ゆかりは小さく言う。
「疑ってる匂いでもない。もっと……確かめたくて、でも聞けなかった感じ」
圭介は提灯を受け取り、橋脚の金具を順に見ていく。視線の動きに無駄がない。釘の緩み、舟を繋いでいた縄の擦れ、点検口の錠前に残った泥。匂いを読めないぶん、目と指先で世界を解いていく人の動きだった。
「こちらだ」
橋脚の裏、外からは見えにくい場所に、古い点検口があった。鉄の輪に小さな鍵穴がついている。そこから黒が細く滲み、夜気を冷やしている。
裂け目はまだ浅い。だが放っておけば、水路に繋がれた舟や橋の金具へ広がる。
「開く前に押さえる」
圭介が言う。
「藤代、匂いの芯を探れ」
「はい」
ゆかりは膝をついて、点検口へ顔を寄せた。
鼻先へ刺さったのは、冷たい水気に混じる、うまく言えなかった言葉の匂いだった。
――ほんとに、私でよかったの。
――かわいそうだからって、言ったんじゃないの。
――そうじゃないなら、ちゃんと、そう言って。
細い声が、鍵穴の向こうで絡まっている。
「女の人」
ゆかりが呟く。
「自分が選ばれた理由を、信じきれなかった。相手がやさしい人だから、なおさら。情けで言われたのか、ほんとに欲しかったのか、わからなくて……」
そのとき、黒がぶわりと膨れた。
点検口が半ば裂け、向こうに小さな異界がのぞく。そこは橋の下そっくりなのに、舟が一艘もない。縄だけが何本も垂れ下がり、誰も繋いでくれないまま、水の上で揺れている。
ゆかりの足もとへ、水しぶきのように紙片が散った。文ではない。短冊だ。恋成就の願い札らしいものが、濡れて文字を滲ませている。
「祭りの残りか」
圭介が低く言う。
柳渡橋は、夏の終わりに願い札を結ぶ場所として知られている。昼間なら賑やかなはずの橋の下で、夜の異界はひどく心細く見えた。
「来る」
圭介が言った次の瞬間、垂れた縄の先が一斉に跳ねた。
蛇みたいにうねった縄が、ゆかりの足首を狙ってくる。圭介が間に入り、封鍵具の柄で一本を払う。縄は硬い音を立てて石へ叩きつけられたが、すぐまた起き上がった。
「下がれ」
「でも匂いが」
「いい、口で追え」
圭介は点検路の狭さを利用して立ち位置を変えた。一本をわざと引きつけ、もう一本の進路を塞ぐ。視線は縄だけでなく、橋脚の継ぎ目と錠前の裂け目を同時に追っている。何が核で、どこを閉じれば全部止まるのか、その形を目で見切っていた。
ゆかりは石壁に手をつき、息を整える。
暗い。狭い。水の反射が揺れて、境目がわかりにくい。匂いだけを頼りに、向こう側の声を拾う。
「情けじゃいやだったんです!」
ゆかりは異界へ向かって叫んだ。
「やさしいから選ばれたんじゃなくて、自分がほしいと思われたかった!」
縄がぴたりと止まる。
「かわいそうだから隣にいるって言われても、うれしくない! それなら断られたほうがまだましだった!」
水面の色が変わった。黒に近かった揺れが、少しだけ鈍い銀へ戻る。
圭介が一歩踏み込み、裂け目の縁へ封鍵具を差し込む。だが奥にまだ芯があるのだろう、黒は完全には崩れない。
「もう一つだ」
彼の声が飛ぶ。
ゆかりは息を吸った。鼻の奥が痛い。けれど、まだ終わっていない。
選ばれた理由を疑う匂い。その裏に、もっと細い、言えなかった側の言葉がある。
「……相手の人も、うまく言えなかった」
ゆかりははっとした。
「ほんとは違う。慰めでも情けでもなくて、ずっと前から好きだった。でも、ちゃんと言葉にするのが下手で、優しくすることで伝わると思ってた」
圭介の目がわずかに細まる。
「そうか」
彼は裂け目の奥を見据えたまま、短く言った。
「なら、そっちを引きずり出せ」
言われて、ゆかりは妙に腹が立った。
「簡単に言わないでください!」
「事実だ」
「事実でも、こういうのは難しいんです!」
「だからおまえがいる」
言い返しかけた言葉が、そこで止まった。
自分には嗅ぎたくもないものが届く。
彼には届かない。
だから、ここでは自分が言うしかない。
ゆかりは裂け目の向こうを見た。舟のない水面。垂れた縄。誰も繋いでくれないと思い込んで、先に手を離してしまった心。
「……ちゃんと、言ってほしかったんでしょう!」
声が石壁に跳ね返る。
「察してほしいんじゃなくて、選んだって、あなたがいいって、はっきり聞きたかったんでしょう!」
異界の奥で、見えない誰かが息を呑んだ気配がした。
「やさしいだけじゃ足りないんです。やさしいからこそ、ほんとが見えなくなることがあるんです!」
その瞬間、垂れていた縄が一斉にほどけた。
圭介が封鍵具を深く押し込む。
「閉じろ」
金具が噛み合う硬い音。
裂け目は細く縫われるように閉じていき、濡れた短冊がひらひらと現実の石畳へ落ちた。最後に残った黒は点のように縮み、点検口の鍵穴へ吸い込まれて消える。
静かになった。
水の音だけが戻る。
ゆかりは力が抜け、その場へしゃがみ込みそうになった。だが、先に伸びてきた手が腕を支えた。圭介の手だ。冷えているはずなのに、掌だけはちゃんと人の温度だった。
「立て」
「……立ちます」
立ったものの、足が少しふらつく。点検路は狭い。橋脚を回るとき、ゆかりは足もとの苔に滑りかけた。
水路がすぐ脇に口を開ける。
落ちる、と思うより早く、圭介が肩を引いた。
背中が硬い胸へぶつかる。ぐっと支えられ、ゆかりの鼻先へ黒羽織の布が触れた。
それでも、やっぱり匂いは薄い。
夜気と、金属と、濡れた木の匂いだけ。
なのに今は、その薄さが前よりずっとつらく思えた。
「……危ない」
圭介が言う。
「おまえは足もとを見ろ」
「圭介さんこそ」
「俺は見ていた」
「そういうことじゃなくて」
言ってから、言葉が続かなかった。
そういうことじゃない。
見えているのに届かないものがあること。届かないと知ったまま、期待しない癖を身につけてしまったこと。さっき渡り廊下で聞いた話が、胸の奥にまだ残っている。
橋の上へ戻ると、央和が短く状況を確認し、麻里佳が封鎖を解く支度に入った。世凪は濡れた短冊をつまみ上げ、早くも「恋願いと点検口の鍵穴の相性について」という妙な考察を始めている。
「相性じゃない。放置だ」
圭介が一言で切る。
「はい!」
騒がしいやり取りを聞きながら、ゆかりは欄干の向こうの水面を見た。
さっきまで橋の下にあったのは、誰かの恋のもつれだ。よくあることと言ってしまえば、きっとそうなのだろう。選ばれた理由がわからなくて怖くなることも、うまく言葉にできずにすれ違うことも、都のどこにでも転がっている。
でも、だからこそ思う。
嗅ぎたくもない本音が押し寄せるのは、つらい。
けれど、嗅ぎたいものが永遠に届かないのも、別のつらさだ。
しかも圭介は、それをつらいと呼ぶ言葉すら、どこかへ置き忘れてしまっている。
「藤代」
呼ばれて顔を上げると、圭介が提灯を差し出していた。
「帰り道、足もとを照らせ」
「……はい」
受け取る。薄い光が指先を照らした。
「さっきの綻び」
ゆかりは歩き出しながら言った。
「選ばれた理由がわからないの、苦しかったんでしょうね」
「そうだろうな」
「相手がやさしい人だと、余計に」
圭介は黙っていた。
その沈黙を、いつものように無愛想だと片づける気になれなかった。
ゆかりは提灯の明かりを見つめる。
嗅ぎたくもないものが嗅える自分と、嗅ぎたいものが嗅げない彼。
欠け方は違うのに、どこかで並んでしまう。
だったらせめて、自分だけは。
この人が、わからないまま諦めてきたものを、勝手にないことにしたくない。
そんなふうに思ったのは、たぶん初めてだった。
夜の柳渡橋を渡る風は冷たい。けれどその冷たさの中で、ゆかりの胸には、前とは少し違う痛みが残っていた。
それは恐れではなく、同情でもなく。
たぶん、誰かの孤独が、自分ごととして入り込んできたときの痛みだった。
【終】


