言香の花嫁は、鍵穴の先を覗く

第5話 最強の相棒は、愛想がない


 雨鏡京の朝市は、目が覚める匂いでできている。

 川から上がったばかりの魚の青さ。濡れた縄。濡れた板。蒸した小豆の湯気。焼き串の脂。威勢のいい掛け声に混じって、荷を数える帳場の墨の匂いまで立っている。橋の下を小舟がくぐるたび、水面の冷たさが風に混ざって、通りを一本ごとに洗っていった。

 そのにぎわいのど真ん中を、ゆかりは早足で進んでいた。

「どうして朝一番から婚礼衣装の反物と干物が同じ道を流れてくるんですか」
「市場だからだ」
「答えになってません」
「水運を使うものは大体ここを通る」
「じゃあ婚礼前の娘さんまで通るのも」
「人足の多い場所だから、待ち合わせに使われやすい」

 隣で圭介が淡々と答える。いつもの黒羽織は人混みの中でも目立つのに、本人は少しも気にしていない。ゆかりのほうは朝から何度も袖を踏まれかけ、三度目でつい舌打ちしそうになった。

 市場の奥、水運問屋が集まる一角で、央和が腕を組んで待っていた。世凪はその後ろで帳面を抱え、いかにも面白いものを見る顔をしている。

「来たか」
 央和が短く言う。
「今朝も一件です。舟着き場の東側。婚約が決まった魚問屋の息子と、米商の娘が巻き込まれました」
「また婚約前ですか」
 ゆかりが言うと、世凪が帳面をぱたぱた振った。
「はいはい、そこが今回の嫌なところです。三日前は紙問屋の若旦那と織元の娘、その前は油屋の番頭と薬種商の姪。ぜーんぶ、祝いが近い組ばかり。しかも壊れる場所は、帳場の錠前とか、荷札を留める金具とか、船蔵の鍵とか、いかにも市場らしいところです」
「婚礼道具そのものじゃないんですね」
「ええ。だから余計に性質が悪い。気づいたときには荷が流れ、噂も流れ、人の縁まで流れます」

 言ってうまいこと言ったつもりなのか、世凪はひとりで頷いた。央和が無言でその後頭部を軽くはたく。

「痛っ。ほら、そういうとこですよ央和さん」
「要点だけ話せ」
「要点なら、礼縁局から正式に記録閲覧の許可が下りてません。だから相手がどこまで婚礼情報を掴んでいるか、こちらからは追いづらいってことです」
「……そこだな」
 圭介が小さく言った。

 ゆかりは舟着き場のほうへ鼻を向けた。

 潮ではない。川の匂いでもない。もっとねばついたものが、朝の風の底でじっとしている。甘いようで甘くない。濡れた紅の紙を何度も握りつぶしたみたいな、悔しさの匂いだ。ひとりぶんではない。何人もの女たちが飲み込んだ息が、古い木箱の隙間へ押し込まれている。

「……います」
「何が」
 世凪が身を乗り出す。
「破談になった女の人たちの匂い。何人ぶんも。泣いたあとに怒るのを諦めた匂いじゃない。怒ったまま、置き場所をなくした匂いです」
「集めている、か」
 圭介が舟着き場の荷の流れを見た。
「婚約前の男女だけを狙う綻びと合う」

 四人で東側の荷場へ向かう。朝の市場は、人の肩と声で押し合っていた。魚籠を担いだ男が怒鳴り、帳場の娘が帳面を抱えて走る。婚礼が近いという若い二人は、舟着き場の脇で青ざめていた。娘の袖には水が跳ね、男の手には鍵束が握られたままだ。

「鍵守寮です」
 麻里佳がすでに先回りしていたらしく、二人を落ち着かせていた。姿勢の崩れないまま、こちらへ一礼する。
「綻びは船蔵の錠前から。荷の出し入れに使う札も一緒に濁りました。幸い、大きく開く前に人を離せています」
「助かります」
 ゆかりが言うと、麻里佳は小さく首を振った。
「助けてくださるのはこれからです」

 娘は今にも泣きそうな顔で言った。
「わ、わたしたち、何もしていません。祝いの日取りを決めただけで」
 男が慌てて続ける。
「誰かの恨みを買うような覚えもない。商いの競りならともかく、婚礼まで巻き込まれる筋合いは」
「そうでしょうね」
 ゆかりはできるだけ柔らかく言った。
「だから調べます。少し、ここにあった匂いを追わせてください」

 錠前はすでに央和が布で囲っていた。鉄の冷たさの奥に、乾いた喉の匂いがこびりついている。

 ――どうしてあの子ばかり。
 ――家に釣り合うから選ばれたくせに。
 ――私は何が足りなかったの。

 ゆかりは眉を寄せた。

「やっぱり、破談の悔しさです。でも一人じゃない。何人もの気持ちが重ねられてる」
「綻びを起こした核は」
 圭介が問う。
「錠前そのものというより、ここを通った荷札と帳面。誰がいつ婚礼を控えているか、順番に知っている人がいるはずです」
「市場で婚礼の日取りを知れる立場」
 圭介はすぐ周囲へ目を走らせた。
「問屋、仲買、荷受け役、帳場。あとは礼縁局の記録に触れた者と繋がっていれば十分だ」

 その声を合図みたいに、船蔵の奥でごとりと音が鳴った。

 皆が振り向く。

 木戸の内側。荷札を掛けた竹釘が並ぶ壁の一点だけが、じわりと黒く濡れていた。鍵穴の形ではない。荷札を引っかける細い金具の穴が、次々に暗く染まっていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。そこから細い赤い糸が垂れ、床板の上を這い始めた。

「下がって!」
 ゆかりが叫ぶ。

 圭介はすでに前へ出ていた。封鍵具を抜き、最も濃い穴へ差し込む。央和が若い二人を庇い、麻里佳が周囲の人足を手際よく遠ざける。世凪は逃げながらもしっかり帳面を抱えていた。

 黒い糸は床の上で絡まり、やがて女物の帯みたいな幅に広がった。そこへ、水に濡れた婚礼文の切れ端がいくつも張りつく。

 花嫁名。
 花婿名。
 吉日。
 仲立人。

 書かれた字は滲んでいるのに、恨みだけが鮮やかだった。

「藤代」
「はい」

 ゆかりは糸の匂いを追う。

 悔しい。惨め。なのに、相手を責めればみっともないと言われる。泣けば縁が遠のくと言われる。だから笑って頭を下げた女たち。その笑ったあとに残った匂いが、ここへ集められている。

「言えなかったんですね」
 思わず口に出る。
「怒ってるって。傷ついたって。なかったことにされるのが一番つらいって」
 赤い糸がびくりと震える。
「家のためだからって、我慢したほうが立派だって、みんなそう言うけど、なくなっていい気持ちじゃない」
 文の切れ端がばたばたと跳ねた。
「ちゃんと悔しかったんでしょう。選ばれなかったのも、比べられたのも、代わりがきくみたいに言われたのも」

 圭介が短く息を合わせるみたいに、封鍵具を押し込む。
「核は怒りの置き場か」
「はい。でも誰かが集めてます。ただ捨てられたものじゃない。集めて、混ぜて、使ってる」
「閉じる」

 金具が噛み、黒が縮んだ。床板の軋みが止み、赤い糸はしゅるしゅると引いた。最後に濡れた荷札が一枚だけ残り、そこへ薄く礼縁局の旧い印が浮かんで、すぐ消える。

 世凪がそれを見逃さなかった。
「見ました!? 今、見ましたよね!?」
「見た」
 圭介が答える。
「旧式の受渡し印だ。現場で出るものじゃない」

 若い男女を落ち着かせ、荷場の騒ぎがひとまず収まったあと、圭介は市場の地図を広げた。場所は舟着き場、紙問屋裏、油屋の荷蔵。全部、水運で婚礼用品が行き来する道筋の近くだ。

「点が線になりすぎていますねえ」
 世凪が言う。
「誰か、婚礼関係の荷を動かすたびに狙っている」
「しかも外から見てわかる祝い荷じゃなく、記録と照らさないと絞れない相手ばかり」
 ゆかりが言う。
「婚約目前の人たちを、わざわざ選んでる」
「なら婚礼用品の流れを読むやつがいる」
 央和が腕を組んだ。
「市場の仲買人か、帳場に顔の利く者だ」
「礼縁局の記録と市場の荷を繋げる役目」
 圭介の視線が冷たく細くなる。
「一人で両方は難しい。記録を流す者と、現場で使う者が別にいるはずだ」

 麻里佳が別紙を差し出した。
「市場で最近、婚礼用品の仲立ちを増やしている商いがあります。三軒。そのうち一軒は、去年、娘さんの婚約が破談になったと聞きました」
「名前は」
「橋南の仲買人、坂巻屋治兵衛」
 麻里佳は淡々と答える。
「嫁入り箪笥や反物の手配が得意で、問屋の裏事情にも通じています」

 ゆかりはその名を聞いたとたん、鼻の奥にさっきの匂いよりもっと濃い渋さを覚えた。柘榴の皮を噛んだみたいな、口の内側がきゅっと縮む匂い。

「その人、たぶん当たりです」
「匂いがするか」
「本人のを嗅いだわけじゃないです。でも、ああいう悔しさの束を、商いの道具みたいに扱う匂い」
「十分だ」
 圭介が地図を畳む。
「行くぞ」

 橋南の倉並びは、朝市の派手さと違って、昼でも薄暗い。水路沿いに蔵が並び、木戸の前には荷車の轍が深く残っている。坂巻屋の看板は控えめだったが、扱う荷は多いらしく、人足が絶えず出入りしていた。

 ゆかりと圭介は夫婦客を装って店へ入った。表向きの用向きは、婚礼箪笥の下見。世凪は少し離れた茶店に陣取り、帳面を開いて監視役を気取っている。央和は裏手へ回った。

 番頭に案内されて蔵を見て回るあいだ、ゆかりは鼻を利かせた。塗り立ての漆、乾いた桐、古い布、墨。どれも商いとしては普通だ。けれど一番奥、婚礼用の小箱が積まれた棚の前で、急に空気が重くなった。

「どうしました、奥さん」
 番頭が愛想笑いを浮かべる。
「顔色が」
「ええと、少し、香りが強くて」
 ゆかりが曖昧に返すと、番頭は商売用の笑顔のまま、棚の箱へ手を向けた。
「祝いの日は香りも大事ですからな。香木を染み込ませる箱もございます」

 違う。香木ではない。

 箱の隙間に、悔しさの匂いが染みている。ひとつだけではない。積まれた箱のいくつかに、同じような残り香がある。蔵を行き来した婚礼の名簿。渡され、外され、積み重ねられた荷札。人の人生が木箱みたいに並べられている感覚に、ゆかりの喉がむかついた。

 そのとき、奥から男の声がした。

「その棚はまだ見せんでいい」
 低くしゃがれた声だった。

 振り向くと、五十過ぎくらいの男が立っている。着物は上等だが、袖口に荷を扱う癖が残っていた。目だけが妙に乾いていて、相手を値踏みするより先に、損か得かを測る顔だ。

「主人です」
 番頭が言う。
「坂巻屋治兵衛」

 治兵衛の目が、ゆかりと圭介を順に撫でた。愛想はある。だが薄い。客への笑みの底に、煮詰めた黒砂糖みたいな苦さが沈んでいる。

「ご婚礼か」
「予定はあります」
 圭介が答える。
「まだ決まっていないことも多い」
「そうか。なら急いで決めるといい。縁は、逃すと戻らん」

 その言葉の最後だけ、妙に強かった。

 ゆかりはすぐにわかった。この人は、自分の娘にそれを逃させたくなかったのだ。逃したのか、逃げられたのかはまだ知らない。でも、その瞬間の悔しさが、いまも喉の奥に刺さったまま抜けていない。

 帰り道、蔵を出てすぐ、圭介が足を止めた。
「どう見た」
「黒です。たぶん、かなり」
「理由」
「蔵の箱に、破談の匂いが何人ぶんも染みてた。あの人自身の匂いも似てました。怒ってるのに、怒りを商いの道具にして押し固めた匂い」
「記録流出の線も濃い」
 圭介は通りの端に立つ荷受け台を見た。
「店の裏木戸から礼縁局の旧式印つき荷札が出入りしている。さっき、番頭が隠した棚の高さもおかしかった。箱の奥に紙束を差し込める」
「じゃあ踏み込みましょう」
「まだ早い」
「え」
「記録を流した相手が誰か、坂巻屋が次に誰を狙うか、その両方が要る。市場の噂だけで動けば証拠を捨てられる」

 悔しいが、その通りだった。

 その日の夕方、世凪が茶店から転げるように戻ってきた。
「聞きました聞きました! 坂巻屋、今夜、灯りを落としてから蔵を一つ開けるそうです。しかも相手は、近々正式な婚約を結ぶ菓子問屋の娘さん! 昨日まで祝い荷の相談に来てたって!」
「場所は」
「水路沿いの二番蔵」
「よし」
 圭介が立ち上がる。
「麻里佳は娘を保護。央和は裏口。世凪は礼縁局まわりの下働きの名を洗え。藤代、おまえは俺と来い」

 夜の水路は、昼より音がよく響く。櫂の水音、綱の軋み、どこかの料理屋から流れる三味線。その合間を縫って、二人は二番蔵の裏へ回った。

 木戸の隙間から灯りが漏れている。

 中では、若い娘が震えながら立っていた。前には治兵衛。足もとには婚礼用の朱塗りの長持。その金具から、黒い靄が細く立ちのぼっている。

「だから考え直せと言っている」
 治兵衛の声は、昼の店より生々しかった。
「相手の家は大きい。おまえのところよりずっと。結ばれれば一生困らん。少しくらいの噂や迷いで手放すものじゃない」
「でも、わたし……」
 娘の声が裏返る。
「好きな人が」
「好きで腹は膨れん!」

 怒鳴った途端、長持の金具が黒く裂けた。

 娘が悲鳴を呑む。

 治兵衛はそれに構わず続けた。
「うちの娘もそうだった。好きだ何だと夢みたいなことを言って、結局は向こうの家に切られた! 格が足りん、持参が足りん、気が利かん。足りん足りんと並べられて、泣くことも許されんかった!」
 靄が膨らむ。
「なら最初から、揉めん相手へ行けばよかったんだ。比べられん相手、断られん相手、家に釣り合う相手へ!」

 その言葉に、蔵じゅうの金具がびりびりと震えた。

 ゆかりは木戸を押し開けた。
「それで、他の人の縁まで壊していいわけじゃないでしょう!」

 治兵衛が振り向く。驚きより先に、見つかった苛立ちが顔に出た。

「鍵守寮か」
「ええ。そこまでです」
 圭介が一歩前へ出る。
「婚礼記録の不正入手、綻びの誘発、未遂で済めば軽いほうだ」
「未遂?」
 治兵衛が嗤う。
「何も知らん若造が。おまえらは壊れた娘の顔を見たことがあるか。選ばれなかったあとで、家のために笑うしかない娘の顔を」
「ある」
 圭介は揺れない声で返した。
「だからこそ、勝手に人生を並べ替える真似は止める」

 長持の金具がぱっくり開き、黒い裂け目になった。

 中から吹いた風は、湿った化粧の匂いを運んだ。何人もの女たちの悔しさが、重たい裾を引きずるみたいに蔵の床へ広がる。娘が膝をつきそうになるのを、圭介が横手で支えた。
「藤代!」
「はい!」

 ゆかりは裂け目の前へ出た。

 苦しい。多すぎる。ひとりひとりは違うはずの涙が、似た言葉で丸められてしまっている。

 ――あなたより釣り合う子がいる。
 ――今さら文句を言うのはみっともない。
 ――家のためと思いなさい。

 そのたびに黙った女たちの息が、蔵の中を埋めていた。

「悔しかったんでしょうね」
 ゆかりは治兵衛を見ずに言った。
「娘さんが傷ついたの、見てられなかったんでしょうね」
 靄が揺れる。
「だからって、誰にも選ばせないようにしていいわけじゃない。傷つかない相手だけ選ばせるのは、守るんじゃなくて、閉じ込めることです」
「黙れ」
 治兵衛が呻く。
「おまえに何がわかる」
「全部はわかりません」
 ゆかりははっきり言った。
「でも、悔しかった気持ちを、知らない娘たちへ配り直すのが違うことくらいはわかります」
 裂け目の向こうで、白い手が何本も止まった。
「選ばれなかった痛みは、その人のものです。勝手に集めて、次の人を脅す道具にしないでください」

 治兵衛の顔が歪む。怒りと、もう引き返せないと知った人の苦さが混ざっていた。

「……礼縁局の若いのが言ったんだ」
 搾り出すみたいな声だった。
「記録があれば、失敗しにくい相手を選べると。破談も減る、揉め事も減る、娘が泣くことも減ると。だったら、そうしてやりたかっただけだ」
「名は」
 圭介が鋭く問う。
「知らん。下働きだ。顔もよく覚えていない。札だけ置いていった」

 そこまで言ったところで、裂け目が一気に広がった。

 蔵の扉、長持の金具、荷札を吊るす釘穴。閉じるための小さな金具が、全部、同じ黒で染まる。娘が悲鳴を上げる。ゆかりの頬を紙片が切った。

「圭介さん! 悔しさだけじゃない、これ、選ばれた側の怯えも混ざってる!」
「言えるか」
「やります!」

 ゆかりは息を吸い込んだ。喉が痛い。でも言うしかない。

「選ばれたって、安心できるわけじゃない!」
 黒がぴたりと震える。
「自分より誰かが上なら、すぐ取り替えられるかもしれないって、怖かったはずです! 選ばれなかった人も、選ばれた人も、比べられる側はずっと苦しい!」
 白い手がほどける。
「だから、自分で選びたいんでしょう! 断られても、迷っても、誰かに並べ替えられたくなんかない!」

 圭介が封鍵具を裂け目へ差し込んだ。黒が荒れる。蔵の壁板が鳴り、灯りが揺れる。

「藤代、もう一つ」
「はい!」
「最後の核だ」

 まだ残っている。治兵衛の奥に。

 娘を守りたかった。泣かせたくなかった。けれど本当は、自分があの日どうにもできなかった悔しさを、誰かの人生で塗りつぶしたかった。その匂いが、裂け目の芯になっている。

 ゆかりは治兵衛を真っ直ぐ見た。
「娘さんに必要だったのは、絶対に失敗しない相手じゃない」
 男の目が揺れる。
「泣いたとき、悔しいって言っていいって、隣で言ってくれることだったんじゃないですか」
 治兵衛の喉が鳴った。
「選ばれなかった痛みまで、なかったことにしないで、一緒に腹を立ててくれることだったんじゃないですか」

 その瞬間、裂け目の奥で何かが崩れた。

 圭介が封鍵具を深くひねる。
「閉じろ」

 光は走らない。ただ、重く滞っていた空気が、一気に引いた。

 黒い裂け目が縫い合わされるみたいに細くなり、荷札の紙片が床へはらはら落ちる。長持の金具は鈍い朱を取り戻し、蔵の暗がりには、水路から来る夜気だけが残った。

 膝をついた治兵衛は、しばらく顔を上げなかった。

 裏口から入ってきた央和が男を取り押さえ、麻里佳が娘を連れ出す。世凪は少し遅れて駆け込み、状況を見るなり目を丸くした。
「うわあ、終わってる! 僕の見せ場!」
「最初からない」
 央和が一刀両断する。
「ひどい!」

 騒がしい声の中、ゆかりは息を吐いた。急に足から力が抜ける。たぶん気を張りすぎたせいだ。壁へ手をつこうとしたところで、圭介の手が先に肘を支えた。

「立てるか」
「……ぎりぎり」
「なら外へ」

 水路沿いの夜風は冷たかった。さっきまで蔵の中にこもっていた悔しさが洗い流されていく。それでも鼻の奥はまだつんと痛む。

「今日はきつかったか」
 圭介が隣で言う。
「多かったです。似た匂いが重なってたから、余計に」
「そうか」

 またそれだけか、と思った次の瞬間だった。

「助かった」
 低い声が、風に紛れず落ちた。

 ゆかりは思わず足を止めた。
「……いま、何て」
「聞こえたはずだ」
「もう一回」
「断る」
「どうしてですか」
「二度言うと軽くなる」

 そんな理屈があるものか。あるものかと思うのに、胸の奥が勝手にあたたかくなる。香袋を開けたときのような、ふわりと甘い匂いが自分の内側から立った。

 圭介はその匂いに気づかない。気づかないまま、水路の先を見ている。
「おまえがあの場で止めなければ、蔵一つでは済まなかった」
「圭介さんが支えてくれたからです」
「それでもだ」
「……じゃあ、おあいこです」
「どういう計算だ」
「私が言葉を拾って、圭介さんが閉じる。片方だけじゃ足りないってことです」

 圭介は少しだけ目を細めた。笑ったわけではない。でも、いつもの石みたいな無表情より、ほんのわずかやわらかい。

 そこへ、帳面を抱えた世凪が駆け寄ってきた。
「礼縁局の下働き、絞れそうです! 旧い受渡し印を扱える若いの、ここ半年で三人! しかも一人、坂巻屋の蔵へ出入りした記録が――って、あれ?」

 世凪は二人を見比べ、にやりとした。
「何だその顔は」
 圭介が冷たく言う。
「いえいええ。改めて思いまして。お二人、最強の相棒ですねえ」
「違います」
「違う」

 ぴたりと重なった。

 一拍遅れて、世凪が腹を抱える。
「同時! 今のは見事に同時!」
「うるさい」
 ゆかりと圭介がまた揃って言うと、今度は央和まで背を向けたまま肩を揺らした。麻里佳は口元を袖で隠し、治兵衛を連れていく足取りを少しだけ緩める。

 笑われている。完全に笑われている。

 ゆかりは耳まで熱くなりながら、水路の向こうを睨んだ。都の夜はまだ動いている。舟は行き交い、灯りは揺れ、誰かの縁もまたどこかで結ばれたり、ほどけたりしている。

 けれど今夜だけは、腹立たしさの裏に、確かに別のものがあった。

 愛想はない。言い方も足りない。なのに、隣に立つと、不思議とひとりではないと思える。

 そのことが、いちばん厄介だった。

【終】