言香の花嫁は、鍵穴の先を覗く

第4話 こんなのありえない花嫁修業


 翌々日の昼前、ゆかりは生まれて初めて、自分の帯が他人の思惑でここまできつく締められる経験をした。

「息がしづらいんですが」
「花嫁候補が初手で苦しい顔を見せるものではありません」
「候補じゃありません」
「そういう設定で入るのでしょう」
「設定って言いましたよ今」

 言い返すたびに、背中の紐が容赦なく引かれる。

 藤代香舗の裏で支度を手伝っていた麻里佳は、申し訳なさそうな顔をしながらも手だけは止めなかった。薄青の小袖に灰桜の帯。普段より控えめな色なのに、襟元や袖口はきっちり整えられ、鏡の中の自分は見慣れた町娘より半歩ほどおとなしく見える。

「潜り込む先が先ですから。上流の娘が集まる花嫁指南所に、いつもの勢いで飛び込んだら三呼吸で浮きます」
「三呼吸も持つんですね」
「今日は持たせてください」

 脇で世凪が吹き出した。
「藤代さん、歩幅も小さめに。啖呵は半分で」
「啖呵は切る前提なんですね」
「切らないつもりですか?」
「切らないつもりでしたよ!」

 鍵守寮の一角は、朝から妙ににぎやかだった。

 古い婚礼蔵から見つかった保管札を辿った結果、盗まれた縁鍵の流れが、上流階級向けの花嫁指南所へ伸びているかもしれないとわかったのだ。名家の娘へ礼法や婚礼作法を教えるその場所には、礼縁局の紹介で入る者も多い。記録が流れるなら、あそこを通っていてもおかしくない。表から踏み込めば警戒される。だから、ゆかりが仮婚約中の娘として潜ることになった。

 そう説明したのは圭介だが、最後に淡々と付け足した一言が余計だった。

「あなたは放っておくとすぐ顔に出る。今日は少しだけ黙っていてくれ」

 少しだけ、というところに腹が立った。全部黙れとは言わないかわりに、黙らない未来をきっちり見越している。

 鏡台の前で帯を締め終えた麻里佳は、最後に小さな香袋を袂へ滑り込ませた。
「これは藤代さん自身の匂いが落ち着くように。強くありません。ほのかにだけ」
「ありがとうございます」
「気分が悪くなったら無理をしないでください。あそこ、言葉も視線も多い場所ですから」

 多い場所。

 その言い方だけで、ゆかりの鼻の奥が先にこわばった。人が集まるところには、言葉が積もる。言葉が積もれば、匂いも濃くなる。まして婚礼に関わる娘ばかりが集まる場所だ。期待も見栄も不安も、きっとひとところに溜まっている。

「筆頭は外で待機ですか」
 央和が確認する。
「必要があれば入る。基本は表にいる」
 圭介が答えた。
「婚約者役なのに?」
 ゆかりが言うと、
「迎えに行く理由が残るだろう」
 と返ってきた。

 さらりと言うところがずるい。まだ何も起きていないのに、最後の絵だけはもう頭の中で決めている顔だった。

 榊の家、と呼ばれるその指南所は、北の大路から一本奥へ入った静かな区画にあった。

 門は朱ではなく、深い焦げ茶で塗られている。派手さはないのに、木目の揃い方や金具の磨き方に、金のある家の丁寧さがあった。門の左右には榊が植わり、白い小石がきれいに敷かれている。昼の日差しを受けても眩しすぎず、音まで整えられているような家だった。

 門をくぐった瞬間、匂いが変わる。

 白粉。椿油。新しい半紙。湯気の立つ薬草茶。干した打掛に残る絹の熱。そこへ、言い慣れた挨拶の甘さ、比べられる怖さ、良い縁へ乗り遅れたくない焦りが薄く重なっていた。

 胸の奥がきしむ。

 けれど、以前みたいにすぐ逃げ出したくはならなかった。袂の香袋から、自分の店の香りが小さく立っている。白檀にほんの少しだけ柑の皮を混ぜた、藤代香舗の匂いだ。帰る場所が袖の中にあるみたいで、呼吸がひとつ深くなった。

「今日から三日、作法見習いとして預かります」

 出迎えた女は、声だけで人を立たせる力を持っていた。

 年は三十代の半ばほどだろうか。紅をきりりと引いた口元に、厳しさがよく似合う。細身の身体に無駄がなく、浅葱の着物に濃い臙脂の帯がぴたりと収まっている。笑っていないのに冷たい感じはしない。むしろ、ここにいる娘たちを誰より目に入れている人の顔だった。

「英美子と申します。雨宮殿からは事情を伺っています。仮とはいえ婚約中なら、外で恥をかかぬ程度には整えて帰さねばなりません」
「整えて帰すって、品物みたいに」
「品物より手がかかるので、安心なさい」

 ぴしゃりと言われ、ゆかりは口を閉じた。返せないわけではない。でもこの人は、言い返したところで動じない相手だとわかる。

 英美子はゆかりの襟元、帯、足袋の先まで一度で見て、最後に目だけを少し和らげた。
「歩き方は町の娘そのものですが、目は死んでいませんね。よろしい。まずはそこからです」
「死んでいる目のほうが困りません?」
「ここに来る子の半分は、初日そういう顔をします」

 笑い話のようでいて、少しも笑えない言い方だった。

 中庭に面した広間へ通されると、十人ほどの娘が正座していた。年頃はゆかりとそう変わらない。皆、上等な布を控えめに着ているのに、袖口の刺繍や髪の挿しものだけで、育ちの差がわかる。

 視線がいっせいに集まった。

 甘い香。粉っぽい緊張。興味。値踏み。ごくわずかな侮り。

 その中で、ひときわまっすぐな視線を向けてきた娘がいた。

 薄藤色の小袖に、白銀の帯。背筋が針みたいに真っ直ぐで、顎の上がり方にも躾がしみついている。整った顔立ちなのに、目が先にゆかりを切っていた。

「その方ですの。雨宮家へ入る予定の」
「予定ではなく仮です」
 ゆかりが即座に返すと、
「違いを口に出してしまうあたり、ずいぶん率直ですのね」
 と娘は言った。

 広間の空気が、うっすら弾む。

 英美子が片眉を上げた。
「楓葉さん」
「失礼しましたわ、先生。けれど、言葉遣いは早めに直しておいたほうが親切かと思いましたの」
「親切は、ときどき刃物になります」
「承知しております」

 承知していてやっている顔だった。

 楓葉。たしかそう呼ばれた娘は、扇も持たない手を膝に重ねたまま、少しだけ笑った。その笑みの匂いは、花の蜜に似ているのに、あとから舌へ残るのは渋みだ。

「雨宮殿ほどのお家へ入るなら、言葉の端に市井の風が混ざるのは難儀でしょうね。外では案外、そういうところを見られますもの」
「へえ。じゃあ楓葉さんは、ずっと見られてきたんですね」
「ええ、見る価値のあるところを」
「すごい。私は今朝まで、帯で息をするので精一杯でした」
「……負けませんのね」
「売られたので買いました」

 左右から、くす、と笑いが漏れる。

 楓葉の眉がぴくりと動く。露骨に怒るほど幼くはないが、気分を害したのは匂いでわかった。乾いた白梅みたいな香りの下に、ぱちっと小さな火花が混じる。

 英美子が扇子で畳をひとつ叩いた。
「そこまで。ここは花嫁指南所です。喧嘩屋敷ではありません」
「始めたのは向こうです」
「買ったのはあなたです」
「その通りです」

 即答すると、英美子は一拍だけ黙り、それから小さく鼻を鳴らした。
「正直なのは結構。ですが、正直と無遠慮は違います。座りなさい、藤代さん」

 名前を呼ばれたことに少し驚きながら、ゆかりは空いている席に膝を折った。

 最初の稽古は歩き方だった。

 廊下をすべるように進むこと。膝を割らないこと。袖を壁へ当てないこと。襖の前で頭を下げる角度。座布団へ座る位置。盃を持つ指の形。

 難しい。というより、気を配る箇所が多すぎる。

 香袋を納めるときも、普段なら片手で済ませる動作に一つ一つ順番がある。楓葉はそういう所作が実にきれいで、悔しいが見惚れるほどだった。扇を取る指も、襟を正す仕草も、幼いころから身体に入っているのだろう。

 一方のゆかりは、三度目でやっと袖を卓へ引っかけなくなり、四度目で盃を倒さずに済み、五度目で英美子から「今のは人前へ出しても恥が二割減です」と言われた。

「二割しか減ってないんですか」
「伸びしろがあるということです」
「言い方」
「先生、ずいぶんお優しいですのね」
 楓葉が涼しい声で言う。
「あなたには厳しすぎるくらいでちょうどです、楓葉さん」
「まあ」

 その返しに、今度はゆかりが笑いそうになる。

 昼の休み、娘たちが別室で茶を飲んでいる間に、ゆかりは厠へ立つふりで廊下を曲がった。奥の帳場へ続く小さな渡り廊下。雨戸の脇に積まれた書状箱。そこに、見覚えのある札色が混じっていた。

 淡い灰青の封紙。角へ押された鍵形の印。

 礼縁局だ。

 箱の蓋は半分開いており、中には何通もの紹介状が差し込まれていた。家名、年頃、持参品、希望する縁組の条件。表書きだけでも、そういう内容だとわかる。墨の匂いの下に、冷えた金属みたいな匂いがうっすらしていた。

 婚礼蔵の保管札で嗅いだものに近い。

 ゆかりが息を潜めた、そのときだった。

 紙の匂いとは別に、もっと細い異臭が鼻先をかすめた。

 甘いようで甘くない。塗り固めた蜜に、針の先ほどの鉄臭さが混じっている。胸の奥を引っかく、あの嫌な匂いだ。

「……っ」

 今ここで?

 顔を上げる。匂いは箱からではない。もっと左。広間へ戻る廊下の、その先。

 ゆかりは反射的に踵を返した。

 広間では、午後の稽古が始まるところだった。娘たちが鏡台の前に座り、婚礼当日の口上を練習している。緊張で喉が上ずる者、言葉だけは滑らかでも匂いが空っぽの者。そんな中、楓葉が髪を整えようと、蒔絵の小箱を開けていた。

 その箱の金具から、黒いにおいが立ちのぼっている。

「それ、触らないで!」

 叫ぶのと、楓葉の指先が金具へかかるのが同時だった。

 ぱき、と乾いた音がする。

 小箱の留め金に刻まれた鍵穴模様が、墨を流したみたいに滲んだ。次の瞬間、鏡台の鏡が曇る。ひとつ、ふたつ、みっつ。部屋に並ぶ鏡がいっせいに白く濁り、その奥に、知らない花嫁の横顔が映った。

 娘たちが悲鳴を上げる。

 英美子が立ち上がるより早く、ゆかりは楓葉の腕を引いていた。箱が畳へ落ち、金具から細い黒糸みたいな影が伸びる。影は鏡台の脚へ絡み、畳の縁を這って広がっていく。

「下がって! 鏡から離れて!」
「な、なにこれ」
「綻びです!」

 言いながらも、匂いを追う。

 悔しさ。飲み込んだ言葉。選ばれたいのに、うまく振る舞うほど自分が消えていく苦しさ。

 鏡の奥に映る花嫁は、白粉を塗った顔で笑っていた。けれど目だけが笑っていない。言いたいことを呑み込んだ匂いが、鏡面の向こうで膨らんでいる。

 誰のものだ。楓葉ではない。もっと前の、箱の持ち主だ。

 英美子が娘たちを庇うように前へ出た。
「皆さん、廊下へ! 楓葉さん、手を貸しなさい!」
「でも、箱が」
「物より先に命です!」

 その声には一片の迷いもなかった。

 ゆかりは畳へ落ちた小箱を見つめた。蒔絵の藤。内側に薄い香の移り。祝いのための髪飾りを入れる箱だろう。けれど匂いは祝いではなかった。

「……笑う練習ばかり、させられた」

 口から言葉がこぼれる。

 鏡の奥の花嫁が、ぴたりと動きを止めた。

「似合う顔をして、静かにして、家のために頷けって。そんなのばっかり覚えて、ほんとのことは一度も言えなかった」

 黒い影が、ゆらりと揺れる。

 英美子が鋭くこちらを見た。止めない。聞いている。

 ゆかりは一歩だけ鏡へ近づいた。怖い。けれど、怖がっている暇はない。
「綺麗にしてもらっても、選んでほしい相手に選ばれなかったら、ただ置いていかれるだけだ」
 白い曇りの向こうで、花嫁の唇がかすかに震える。
「なのに泣くのもみっともないって言われた。だから箱の中へしまったんでしょう。髪飾りも、笑う顔も、一緒に」

 鏡のひとつに、ぴしりと亀裂が入った。

 まずい、と思ったとき、廊下の向こうから速い足音がした。

 黒い羽織が視界を切る。

「全員、目を伏せろ」

 圭介だった。

 いつ入ってきたのかもわからない。彼は鏡台とゆかりの間へ滑り込み、懐から封鍵具を抜くと、最も濃く曇った鏡の縁へ差し込んだ。金具同士が噛み合う硬い音。空気が張る。

「藤代、核は箱でいいな」
「はい。箱の中に閉じ込めたままの、花嫁の本音です」
「言葉は続けられるか」
「やります」

 楓葉が廊下の端で息を呑んでいる。顔色が真っ白だ。さっきまでのとげとげしい匂いは消え、代わりに冷えた水みたいな恐怖が立っていた。

 ゆかりは小箱を拾い上げた。指先が震える。

「綺麗に整えてもらっても、嬉しいわけじゃなかった」
 黒い影が細くなる。
「だって、その先にいる相手を、自分で選んでない」
 鏡の中の花嫁が、初めてこちらを見た。
「祝われても、羨ましがられても、欲しかったのはそんなことじゃなかった。たった一人に、ちゃんと好きだって言われたかったんだ」

 最後の一言で、鏡面の曇りが内側から崩れた。

 圭介が封鍵具をひねる。
「閉じろ」

 白い音がした。

 音としか言えない、光とも風ともつかないものが部屋を走り、黒い糸は一気に縮んだ。鏡の亀裂はそこで止まり、曇りは朝露みたいに消えていく。小箱の金具だけが、熱を失ったように冷たくなった。

 静まり返った広間に、誰かの浅い息だけが残る。

 真っ先に動いたのは英美子だった。彼女は娘たちを見回し、怪我人がいないと確かめると、ゆっくり息を吐いた。
「……全員、無事ですね。楓葉さん、立てますか」
「は、はい」
「なら立ちなさい。腰が抜けた顔のままでは、外の風に負けます」

 言い方は厳しいのに、その手は楓葉の肘をきちんと支えていた。

 楓葉は立ち上がり、しばらくしてから、ゆかりへ向き直った。唇が二度ほど迷い、ようやく言葉になる。
「さっきは……助けていただいて、ありがとうございました」
「いえ」
「いえ、で済ませないでくださいまし。わたくし、あんなものが本当にあるとは」
「ありますよ。だから触る前に止めたかったんですけど」
「ええ。叫び方は、少々、いえ、だいぶ荒かったですが」
「そこは譲らないんですね」
「あなたもですわね」

 ほんの少しだけ、楓葉の口元が和らいだ。

 英美子は、ゆかりの手の中にある小箱を見た。
「その箱、預からせてもらえますか」
「先生、これ」
「わかっています。誰かが持ち込んだのでしょう。榊の家に置くべきものではなかった」
「礼縁局からの紹介状も、たくさんありますよね」

 ゆかりが言うと、広間の空気がまた少し張る。

 英美子は一瞬だけ目を細めた。誤魔化す匂いではない。測る匂いだ。この娘にどこまで言うべきか、短い時間で秤にかけている。

「あります」
 やがて彼女は言った。
「良い縁を望む家ほど、役所の札をありがたがるものです。家柄、持参金、血筋、噂。きれいに整えた紙を見せられると、それだけで安心する人も多い」
「先生は?」
「安心しません」
 きっぱりとした返事だった。
「紙は人を黙らせるために使われることがあります。けれど、一緒に暮らすのは紙ではありません」

 その言葉の底に、焦げたような苦さがあった。

 この人は何かを知っている。そう思ったけれど、今はまだ、それ以上踏み込める空気ではなかった。

 午後の稽古はそこで打ち切りになった。娘たちは別室で落ち着くまで休まされ、鏡台はすべて布で覆われた。圭介と央和が広間を改め、世凪は帳場で目を輝かせながら紹介状の差出元を控えている。麻里佳は娘たちへ温かい茶を配り、何事もなかったように姿勢よく座って見せて、皆の呼吸を落ち着けていた。

 その間、ゆかりは廊下の端で英美子に呼び止められた。

「藤代さん」
「はい」
「あなた、鼻が利くのね」
「……まあ、人よりは」
「便利でしょうね、と軽くは言いません。ああいう場所で、あれだけの匂いを一度に拾うのはつらいでしょう」
「つらくないって言ったら嘘です」
「でしょうね」

 英美子は庭へ目を向けた。榊の葉先が風で擦れ、小さな音を立てる。

「けれど、あなたは逃げなかった」
「逃げたいことなら、何度もあります」
「それでも残る子は、簡単には折れません」

 褒めたようにも、祈ったようにも聞こえる声だった。

 ゆかりが返す言葉を探しているうちに、門のほうがにわかに騒がしくなった。さざめきはすぐこちらへ近づいてくる。娘たちのひそひそ声。衣擦れ。誰かが小さく息を呑む音。

 何事かと思って顔を上げると、渡り廊下の先に、見慣れた黒い羽織が現れた。

 圭介だ。

 綻びを封じるときの鋭い空気はもう引っ込めている。代わりに、役所へ伺いを立てるときの、あの妙に整った顔で立っていた。夕方の光を背にしているせいだけではない。姿勢も、歩幅も、声をかける間も、どこへ出しても恥ずかしくない男そのものだ。

「迎えに来た」
 英美子へ向けて軽く一礼し、ゆかりへ視線を移す。
「本日の見習いはここまでと聞いた」

 聞いた、ではなく、さっきまで中にいたでしょうよ、と言いたい。でも周りの娘たちの視線が多すぎて、それを言うとこちらだけが常識のない娘になる。

「え、ええ」
「足は痛まないか」
「少しは」
「なら帰りは急がない」

 何その言い方。

 気遣いとしては正しい。正しすぎる。正しすぎるせいで、脇の娘たちがひそひそと囁き合い始める。
「まあ」
「本当に迎えに」
「雨宮殿って、あんなふうに」
「藤代さん、仮とおっしゃっていたのに」

 聞こえてますけど。

 しかも圭介は、その声が届いていない顔でゆかりの手から小さな荷物を自然に受け取った。さらに、歩き出そうとしたゆかりの袖口が帯へ挟まっているのを見て、ためらいなく指で外す。

 触れられたのは一瞬だったのに、そこだけ熱くなる。

 やめてほしい。こういうところだ。こういうところが、ずるい。

 顔を上げると、楓葉までぽかんとしていた。さっきまで刺々しかった娘が、いまは別の意味で言葉を失っている。英美子だけが口元を隠し、わずかに肩を揺らした。

「では、お預かりした娘はお返しします」
 英美子が言う。
「行儀はまだ半分ですが、鼻と度胸は充分でした」
「助かりました」
 圭介が答える。
「それから、雨宮殿」
「何でしょう」
「その顔で迎えに来るのは、若い娘のいる家へ少々毒です」
「……意味がわかりません」
「わからないなら、そのままでいてください」

 英美子の返しに、娘たちがまたざわついた。

 門を出て、榊の葉の匂いが遠のいたころ、ゆかりはようやく大きく息を吐いた。外の道はいつもの都だ。荷車の軋み。豆売りの声。水路の湿った風。整えられすぎた屋敷の空気から出たせいで、雑多な匂いさえほっとする。

 圭介はゆかりの半歩前を歩きながら、手にした荷物を当然のように持ったままだった。
「中で何か掴んだか」
「礼縁局の紹介状が山ほど。あと、変な箱。たぶん以前、婚礼に使われた髪飾り箱です」
「英美子は」
「知ってること、ありそうです。でも全部は言ってない」
「そうか」

 それだけ言って黙るから困る。ゆかりはしばらく歩き、とうとう堪えきれずに口を開いた。
「さっきの」
「どれだ」
「迎えに来たときのあれです」
「あれ」
「板についてました」
「婚約者役として不自然では困る」
「そういう意味じゃなくて」

 言いかけて、言葉が詰まる。

 どう言えばいい。周りの娘たちがざわついたこと。袖を外す手つきが自然すぎたこと。見せかけのはずなのに、あの一瞬だけ本当にそう見えてしまったこと。全部まとめると、たぶん非常にみっともない。

 圭介が足を緩め、こちらを見る。
「何だ」
「……こういうところ、ずるいって言ってるんです」
「どこがだ」
「だから、その」
「迎えに行く役目は最初から決めていただろう」
「そうじゃなくて」
「では何だ」
「わからないならもういいです!」

 顔が熱い。腹立たしい。腹立たしいのに、袂の香袋より先に、自分の胸の奥から甘い匂いが立っているのがわかる。

 圭介は本気で意味がわからない顔をしたまま、少しだけ首をかしげた。
「怒っているのか」
「半分は」
「残り半分は」
「言いません」
「そうか」

 納得したのかしていないのかわからない返事だった。

 夕方の風が、二人の間を抜ける。

 榊の家で見た鏡の曇りと、英美子の苦い匂いと、礼縁局の札の冷たさが、まだ頭の端に残っている。追うべきものは確かにあった。けれど、それと同じくらい厄介なのは、隣を歩くこの男が、見せかけの婚約者役をあまりにそれらしくこなしてしまうことだ。

 ゆかりは前を向いたまま、袖の内で拳を握った。

 こんなの、ありえない。

 ありえないのに、胸だけは少しもそう思ってくれなかった。

【終】