言香の花嫁は、鍵穴の先を覗く

第3話 鍵穴から覗いた世界


 鍵守寮の朝は、役所にしては妙に埃っぽい。

 土間を抜けた先の記録部屋には、婚礼の控え帳、封印記録、持ち主不明の縁鍵の写し、廃棄された錠前の目録まで、ありとあらゆる紙が積み上がっていた。障子を開けているのに、風より先に古い墨の匂いが喉へ触れる。

「見つけましたよ、見つけましたって!」

 その紙の山の向こうで、世凪が半ば立ち上がりながら叫んだ。叫んだ拍子に脇の巻物が崩れ、本人の頭へ降ってくる。央和が無言でそれを押さえなければ、たぶん今ごろ下敷きになっていた。

「騒ぐ前にまとめろ」
「まとめた結果、騒ぐべき内容だったんです!」

 世凪は髪へ絡んだ紙紐もそのままに、控え帳をぱたぱた振ってみせた。

「三年前に閉じた北水門の婚礼蔵、あそこに礼縁局から特別立入の記録が残っています。普通なら古びた婚礼道具を移しただけで終わるはずなのに、その日だけ封印済み縁鍵の持ち出し数が一つ多いんです」
「多いのに、返納印は二つ分押されているの」

 麻里佳が別の帳面を差し出した。几帳面な筆跡で、数字の横へ小さく朱点がついている。

「印影が重ね押しされていて、ぱっと見ではわからないようになっていました。誰かが数を合わせたかったんだと思います」
「礼縁局が自分で?」
 ゆかりが身を乗り出すと、麻里佳は眉尻を下げた。
「そこまでは、まだ。でも局の倉札は使われています」

 机の端で帳面を見ていた圭介が、指先で紙を二度たたいた。

「場所は」
「北水門の外れ、今は使われていない婚礼蔵です。川沿いの土蔵で、式具や古い輿をしまっていた場所ですね」
「行く」

 短い。

 ゆかりは思わず口を挟んだ。
「行く、って私もですよね」
「匂いを追えるのはあなただけだ」
「確認です。確認しただけです」

 圭介は帳面を閉じた。
「世凪、婚礼蔵の見取り図を」
「もちろん用意してあります。わたくしを誰だと」
「誤読の多い書記見習い」
「そこだけ拾わないでください!」

 土間に笑いが落ちる。央和は真顔のままなのに、世凪の襟を引いて机へ座らせた。麻里佳は吹き出しそうになりながら、補足の札を手早く束ねていく。

 ゆかりはそんな空気の中で、そっと圭介を見た。

 橋の上で出会ったときより、鍵守寮で見る彼のほうが人らしく見える。無愛想なのは相変わらずだし、言葉は足りない。けれど、誰がどの帳面に強いか、誰が現場向きか、ちゃんとわかったうえで動かしている。冷たいというより、抜けがないのだ。

「藤代」

 呼ばれて肩が跳ねる。

「聞いているか」
「聞いてます。ぼんやりしてません」
「ならいい」

 絶対、半分くらいは気づいていた顔だ。腹立たしい。

 北水門の婚礼蔵は、都の賑わいから外れた水路沿いにあった。

 昼を少し過ぎた空は白く、川面だけが鈍く光っている。土蔵は二棟続きで、白壁の下半分が水気でうっすら黒ずんでいた。表の木戸には封縄が渡してあるが、長く人の出入りがないせいで、しめ縄にも埃が積もっている。

 麻里佳は入口で帳面と鍵を照らし合わせ、央和は周囲の見回りへ回った。世凪は見取り図を広げたまま、「婚礼蔵ってもっと浮かれた匂いのする場所かと思っていたんですが、意外と暗いですねえ」と余計な感想を言っている。

「浮かれているのはおまえだけだ」
「央和殿、今、いませんよ!」

 ゆかりは木戸の前で足を止めた。

 蔵の内側から、ひどく薄い匂いがする。

 白粉。古い絹。乾いた木箱。そこへ、錆びた鉄の匂いが絡んでいる。さらに奥に、甘さとも塩気ともつかない、言い損ねた言葉の匂い。

「ここ、何かいます」
「綻びか」
「まだ小さいです。でも、眠ってるというより、息を潜めてる感じ」

 圭介が封縄を解く。鍵を差し込んで木戸を押し開けると、冷えた空気がふわりと流れ出た。

 中は薄暗かった。壁際に婚礼道具の箱が積まれ、天井近くには使われなくなった提灯が吊るされている。金箔の剥げた屏風、白無垢を運ぶための長持、房の色が褪せた飾り紐。人に使われなくなった祝いの品は、どれも静かだが、静かすぎて少し怖い。

「うわあ……」

 世凪が小声を漏らす。
「これは良いですね。良いと言っていいのか迷いますけど、記録でしか見たことのない式具が」
「触るな」
「まだ何もしてません!」

 圭介は蔵の中央へ進み、床の軋み方と棚の配置を目で追った。ゆかりもあとに続く。蔵の奥、いちばん湿気の強い壁際に、他より小さな箱が一つ置かれていた。婚礼の目印に使う赤い布が巻かれているが、その布だけが異様に新しい。

「これ」
 ゆかりが指した瞬間、鼻の奥がつんと痛んだ。
「変です。匂いが、ここで回ってる」

「回る?」
「同じところを何度も。前へ行けないみたいに」

 圭介は箱の前へしゃがみ込んだ。錠前は古いが、つい最近まで誰かが触っていたらしく、鍵穴の縁だけ埃が薄い。

「世凪」
「はい」
「礼縁局の札だけ写して下がれ。麻里佳と外へ」
「えっ、ここからが本番では」
「下がれ」
「はい」

 返事だけは早い。世凪はしぶしぶ札を写し取り、麻里佳と一緒に蔵の入口へ退いた。央和はすでに外の気配を見張っている。

 蔵の奥に残ったのは、ゆかりと圭介だけだった。

「開ける」

 圭介が告げる。

「綻びが深かった場合、鍵穴の向こうへ踏み込む」
「その言い方だと、深いこと、もうわかってますよね」
「可能性が高い」

「先に言ってくださいよ」
「言っている」

 会話が半歩ずつ遅い。わざとなのか本気なのか、まだ判別がつかない。

 圭介は袖の内から細い紐を出した。白銀の糸を幾重かに撚ったもので、片方を自分の手首へ巻きつけ、もう片方をゆかりへ差し出す。

「何ですか、これ」
「戻り紐だ。異界の中で道を失わないようにする」
「つまり」
「手首を出せ」

 言い方。

 ゆかりがじろりと睨むと、圭介は一瞬だけ目を伏せた。
「……実用上の話だ」
「そうでしょうね。そういう顔してますもんね」

 差し出した手首に、ひやりとした指が触れる。ほんの一瞬だけなのに、妙に意識してしまって腹が立つ。しかも本人は結び目の強さばかり気にしていて、こっちの胸の内などこれっぽっちも気づいていない顔だ。

「きついか」
「平気です」
「なら行く」

 圭介が封鍵具を抜き、錠前へ向けた。

 古びた鍵穴は、金具の影が差した途端にじわりと濡れた。黒が染みる。蔵の床板が低く鳴り、棚の上の提灯が一斉に揺れた。箱の赤布がほどけ、するすると床を這う。

 次の瞬間、鍵穴が縦に裂けた。

 風ではないものが吹き出す。花嫁衣裳の袖を打つときの絹の擦れ音。笛のような、遠い婚礼囃子。白い紙片が渦を巻き、蔵の暗さを裏返すような眩しい光が足もとへ広がった。

「藤代、目を逸らすな」
「わかってます!」

 戻り紐がぴんと張る。

 圭介に引かれる形で一歩踏み込むと、冷たさが背中を通り抜けた。

 眩しさが引いたあと、二人の前にあったのは、どこまでも続く婚礼道だった。

 白砂の上に紅い布が敷かれている。紙垂の下がる門。水面のように揺れる薄明かり。道の左右には無数の行灯が並び、そのどれにも火が入っているのに、熱はまったく感じない。

 そして、花嫁行列。

 白無垢の花嫁。紋付の花婿。仲人役らしい老夫婦。祝言箱を担ぐ男たち。盃を載せた盆を持つ女たち。

 けれど、全員の顔が曇っていた。

 目鼻がないのではない。あるはずの輪郭だけが、薄紙で撫でられたみたいにぼやけている。誰もが前を向き、同じ歩幅で、同じ場所をぐるりと回り続けていた。

 門をくぐり、橋を渡り、石段を下り、また門へ戻る。

 終わらない。

「……これ、ずっと」
「同じ道を回っている」

 圭介の声も、ここでは少し遠く聞こえた。

 ゆかりは息を浅くする。匂いが多すぎる。白粉、打掛の糊、濡れた檜、冷えた酒、紙の花。祝いの匂いのはずなのに、その全部の下に、同じ躓きが渦巻いていた。

 行きたい。行けない。言いたい。言えない。

 片方だけではない。花嫁の列の左側からも、花婿の列の右側からも、同じくらい強く、喉のつかえる匂いが立っている。

「捨てられた花嫁じゃない」

 ゆかりは思わず呟いた。

「え?」
「これ、片方だけの匂いじゃないです。両方ある。どっちも同じくらい嘘をついてる」

 花嫁行列の隙間を縫うように進む。足は白砂を踏んでいるのに音がしない。行列の者たちは、二人が割り込んでも視線ひとつ寄越さない。ただ何度でも、同じ門をくぐり、同じ橋を渡る。

 橋のたもとで、花嫁の袖が風もないのに揺れた。そこから強い塩気がした。泣きたいのを堪えすぎて、喉の裏がきしむときの匂いだ。

「待って」

 ゆかりは列の中の花嫁へ手を伸ばした。指先が袖に触れた途端、景色がぶれた。

 白無垢の襟元が滲み、別の光景が重なる。

 薄い障子の向こうで、若い女が笑っている。
 ――大丈夫です。家の決まりなら、私は気にしません。
 笑いながら、袖の中で爪を立てている。

 次に見えたのは、橋の下の暗がり。
 若い男が、誰かに背を向けたまま言う。
 ――必ず迎えに行く。だから待っていてくれ。
 声は真っ直ぐなのに、その背中からは怖じ気が噴き出していた。

 景色が戻る。

 ゆかりは息を飲んだ。
「うそだ」
「何が見えた」
「花嫁は、平気だって言った。本当は、平気なわけなかったのに。花婿は、迎えに行くって言った。でも、行けないってもう知ってた」

 圭介の目が細くなる。
「互いに相手を庇ったつもりで、本音を伏せたか」
「たぶん。たぶんですけど」

 そのとき、列の先頭にいた花婿役の影が、ゆっくりとこちらを向いた。

 顔は曇ったままなのに、そこだけ黒が濃い。足もとから影があふれ、白砂の上を這う。祝言箱を担いでいた者たちの腕が伸び、紙の花が刃みたいに尖った。

「下がれ」

 圭介がゆかりを庇うように前へ出る。封鍵具を構えるが、異界の深部は橋の上の綻びよりずっと粘る。黒い影が金具へまとわりつき、鈍い音を立てた。

 花嫁の列も止まらない。止まれないまま、二人の脇を通り過ぎ、橋を渡ってはまた戻ってくる。行き場のない婚礼が、景色ごと同じところを擦り続けているみたいだった。

「藤代、核はどこだ」
「橋じゃない。もっと奥……たぶん、あの門の向こう」

 いちばん奥に、朱の剥げた小さな門が見えた。行列はそこをくぐるたび、ほんの一瞬だけ輪郭を失う。匂いもそこでいちばん濃く渦を巻いている。

「行くぞ」
「簡単に言いますね!」
「簡単ではない。急げ」

 戻り紐が引かれる。ゆかりは走った。白砂は柔らかいのに、足首へまとわりついて前へ進みにくい。背後で紙の花が裂ける音がする。次の瞬間、肩口を鋭いものがかすめた。

「っ」
「伏せろ」

 圭介が腕をつかみ、そのまま自分の胸元へ引き寄せる。頭の上を、紙の刃が何枚も飛び抜けた。白無垢の裾から伸びた黒い糸が、さっきまでゆかりのいた場所を穿つ。

 近い。

 羽織に残る冷えた布の匂い。ほとんど無いはずのその人の気配が、今だけ妙に近い。

「走れるか」
「走れます」
「なら離れるな」

 そう言うと、圭介はゆかりの前へ半身で立ったまま、門までの道をこじ開けるように封鍵具を振るった。音は大きくない。けれど、金具が触れたところから黒が静かに割れ、行列の足が半歩ずつ止まる。

 門をくぐる。

 向こう側は、小さな庭だった。

 祝言前の控えに使われたらしい白木の縁台。半分乾いた手水鉢。梅の木が一本あるが、花は咲いていない。庭の真ん中に、鍵のかかった文箱がぽつんと置かれている。

 その箱から、匂いがしていた。

 塩のような涙の匂いと、冷えた火鉢みたいな諦めの匂い。その奥に、何より強く、言わなかった言葉の匂い。

「これが核だ」

 圭介が箱の前へ膝をつく。

「でも、このまま閉じても駄目です」

 ゆかりは首を振った。
「ここまで深いなら、本人たちの言葉をほどかないと、また同じところへ戻る。あの二人、まだ互いに嘘のままです」

 門の外で、行列が止まった。

 花嫁と花婿だけが、庭へ入ってくる。二人の顔はやはり曇っている。だが、近づくほど匂いははっきりした。花嫁からは、怖くて縋れなかった匂い。花婿からは、守ると言いながら逃げた匂い。

 ゆかりは喉を鳴らす。
「聞こえますか」

 返事はない。

「あなたたち、捨てられたんじゃないでしょう」

 白無垢の袖が揺れた。

「置いていかれたんじゃなくて、置いていくしかないって、自分で決めたんでしょう。家のためとか、相手のためとか、きれいな言い方をして」

 花婿の肩が小さくぶれる。

「ほんとは、怖かったんだ。連れて行けないのに迎えに行くって言った。待てないのに、待てるって笑った。そうやって互いに嘘を渡したから、この道、終われなくなったんだ」

 庭の空気がびり、と震えた。

 曇っていた顔の奥で、ようやく目だけが現れる。花嫁の目には涙が溜まり、花婿の口元は苦く歪んでいた。

「……言え」

 圭介が低く告げた。

 花婿へ向ける声なのか、花嫁へ向ける声なのか、そのどちらでもある響きだった。

「最初の本音を」

 花婿の影が揺れる。

 やがて、絞り出すような声がした。

 ――おまえを連れて逃げる勇気がなかった。

 庭の端の梅が、ぱらりと黒い花びらを落とす。

 続いて、花嫁が唇を震わせた。

 ――待てるなんて、言いたくなかった。行かないでって、言いたかった。

 それだけだった。

 たったそれだけの言葉が、今まで何度も門の前で詰まっていたのだと、匂いが教える。

 文箱の鍵穴が、きい、と泣いた。

 圭介がそこへ封鍵具を差し入れる。今度は力任せではない。箱の向こうの声を聞き終えたと知っている手つきだった。

「互いを思ったつもりで、本音を閉じ込めた」

 静かな声が庭へ落ちる。

「それでは、誓いは結べない」

 ひねる。

 黒が裂けるのではなく、ほどけた。

 文箱の蓋がひとりでに開き、中から白い紙片が一枚、空へ舞い上がる。何も書かれていないはずの紙に、淡い水の跡みたいな文字が浮かんだ。

 行かないで。
 連れて行けない。

 二つの文はやがて重なり、白く消えた。

 同時に、庭の外の行列が崩れはじめる。白無垢も紋付も、紙の花も橋も門も、夕陽に透かした薄氷みたいに光りながら、静かに空気へ溶けていく。

「戻るぞ」

 圭介がゆかりの手首を引いた。

 景色が崩れる速度は、開くときより閉じるときのほうが速い。白砂が抜け、門が傾き、足もとが空になる。戻り紐が強く張る。最後の一歩で、さっきまで庭の奥にいた花婿の影が黒く跳ねた。

 まだ残滓がある。

 ゆかりが気づいたより早く、影は腕の形で伸び、彼女の足首へ絡みつこうとした。

 次の瞬間、圭介が抱き寄せるようにしてその前へ滑り込む。

 黒が羽織の袖を裂いた。

「圭介!」

 初めて、名前がそのまま口から出た。

 圭介は眉ひとつ動かさず、裂けた袖ごと封鍵具を影へ叩き込んだ。
「閉じろ」

 短い声。

 異界の最後の黒が、小さな鍵穴へ吸い込まれる。

 ――ぱたり。

 音がして、二人は元の蔵の中へ戻っていた。

 湿った土の匂い。古い木箱。午後の薄い光。床へ散った赤布。さっきまで裂けていたはずの箱の錠前は、何事もなかったように閉じている。ただし、鍵穴の奥だけがきれいに澄んでいた。

「今の、怪我……!」

 ゆかりは圭介の袖をつかんだ。黒羽織の腕のところがざっくり切れて、下の白い単衣がのぞいている。血は出ていないが、布ごと深く裂かれていた。

「浅い」
「浅く見えませんけど」
「布だ」
「布でも裂けてるでしょう」

 言いながら袖を確かめると、本当に皮膚までは届いていなかった。けれど、もし半歩ずれていたらと思うと、今さら足が震える。

 蔵の入口から世凪の声が飛んでくる。
「筆頭! 藤代さん! 無事ですか!」
「無事だ」
「無事じゃない声の低さなんですが!」

 やかましい。妙に安心する声でもある。

 麻里佳と世凪が駆け寄り、央和はまず蔵の周りに異常がないかを確かめてから入ってきた。世凪は裂けた袖を見るなり目を丸くし、「やはり本番でしたか」と場違いに感心し、麻里佳に小突かれる。

「箱の中は」
 央和が問う。
 圭介は箱を持ち上げ、裏返した。内側の底板に、小さな紙札が貼りついている。礼縁局の保管札だ。ただし日付が削られ、その上から別の札が重ねて貼られていた。
「持ち出しの偽装に使われた箱だ。特別な縁鍵そのものは残っていない」
「でも、ここを通ったのは確かなんですね」
 麻里佳が帳面へ記す。
「ええ。しかも隠す気が雑ではない。見つける人間が出る前提で、少しだけ遅らせる貼り方です」
「嫌ですねえ、その感じ」

 世凪が顔をしかめる。

 ゆかりはまだ、胸の奥の変な音を収めきれずにいた。

 異界の中で庇われた瞬間、鼻先をかすめた匂いがある。ほとんど無いはずの人から、ほんの一度だけこぼれた、ごく淡い匂い。乾いた檜に朝の水が落ちたときみたいな、静かな匂いだった。

 その記憶が、今になって胸の内側で甘く変わっていく。

 花の香ほど華やかではない。飴ほどはっきりもしない。けれど、確かに甘い。自分の中でだけ立ちのぼる、小さな匂い。

 なんなの、これ。

「藤代」

 呼ばれて、はっとする。

 圭介がいつもの顔でこちらを見ていた。袖は裂けたままだし、こちらは心臓がうるさいのに、本人は何ひとつ変わらない調子だ。

「あなたは、思っていたより使える」
「……はい?」

 世凪が「うわあ」とでも言いたげに口を押さえた。麻里佳が目を伏せる。央和だけが、ああまたか、みたいな無表情で立っている。

 ゆかりはゆっくり瞬きをした。

「今のを、人を褒めているつもりで言いました?」
「事実を述べた」
「言い方というものがあるでしょう」
「役に立った、のほうがよかったか」
「そこだけじゃないんです!」
「ではどこだ」
「そこから説明しないとわからないんですか」

 腹が立つ。腹が立つのに、さっき庇われたことまで一緒に思い出してしまうせいで、怒りきれない自分にも腹が立つ。

 世凪が耐えきれず、横を向いて肩を震わせた。
「笑うな!」
「笑ってません、感心しているだけです!」
「声に出てます!」
「藤代さん、顔が赤いです」
「それは蔵が蒸すからです!」
「冬の終わりにですか?」
「世凪」
 圭介が低く呼ぶ。
「はい」
「記録に戻れ」
「はい!」

 即答して、世凪は麻里佳の後ろへ逃げた。央和は箱と札を受け取り、外で封緘の支度に向かう。

 蔵を出るころには、空が少しだけ傾いていた。

 北水門の川風は冷たい。長く閉ざされていた蔵の匂いを洗うみたいに、ゆっくりと通り抜けていく。川面の照り返しが白壁へ揺れ、裂けたままの圭介の袖を鈍く照らした。

「ほんとに平気なんですか」

 歩きながら、ゆかりは小さく聞いた。

「何がだ」
「袖。あと……さっきの」
「袖は繕えば済む。さっきのは、封じた」
「そういうことを言ってるんじゃ」

 言いかけて、飲み込む。

 何をどう言えばいいのかわからなかった。庇ってくれてありがとう、で済む気もする。なのに、それだけでは足りない気がするのは、異界の中で自分の胸に立った匂いのせいだ。

 圭介はしばらく黙っていたが、やがて前を向いたまま口を開いた。

「あなたが核を見つけなければ、あれはもっと長引いた」
「……また急に、まともな言い方」
「さっきのでは不足だったらしいからな」
「不足でしたよ。だいぶ」
「覚えておく」

 不器用な男だ、とゆかりは思った。

 橋の上で出会ったときからずっとそうだ。言葉は足りないし、顔にもあまり出ない。けれど、足りないなりに直そうとする気はあるらしい。その事実が、妙に胸へ残る。

 川沿いの道を、二人で並んで歩く。

 戻り紐はもう外してあるのに、手首のあたりだけ、まだ細い重みが残っている気がした。

 北水門の先で、夕方の鐘がひとつ鳴る。

 都のどこかで、また別の鍵穴がきしんでいるのかもしれない。礼縁局の札が通った婚礼蔵。消えた特別な縁鍵。誰かが意図してずらした記録。追うべきものは、まだ山ほどある。

 それでも今日は、橋の向こうに見える夕焼けが少し違って見えた。

 鍵穴の先には、怖いものばかりがあるわけではない。

 ほどけなかった本音があって、閉じられなかった別れがあって、そこへ踏み込んでしまう自分たちがいる。

 隣を歩く男は相変わらず肘ひとつぶんの距離を守っている。婚約者役のくせに変なところだけ律儀だ。けれど、さっき異界で腕を引いた力は、それよりずっと近かった。

 ゆかりは袖の内で、自分の指先をそっと握った。

 胸の奥にはまだ、甘い匂いが残っている。

 誰にも気づかれたくないのに、自分だけはもう、気づいてしまっていた。

【終】