第2話 朝焼けの路地と仮の婚約
藤代香舗の店先は、その夜だけ、祝言の相談より面倒なことになった。
圭介が「婚約者役を頼みたい」と言ったあと、最初に声を失ったのは父で、次に女中頭が怒鳴り、最後に帳場の奥で香木を量っていた丁稚が、手から枡を落とした。白檀の小片が畳へ散らばり、香りだけがやけに落ち着いているのが腹立たしい。
「待ってください、順番に言わせてください」
ゆかりは香箱を台へ置き、両手でこめかみを押さえた。
「まず、何をどうしたら、橋で会ったばかりの相手から婚約の話になるんですか」
「婚約そのものではない」
圭介はきっぱり言った。
「婚約者役だ」
「言い換えても妙ですけど」
「妙でも、いちばん角が立たない」
「十分立ってます」
店先の灯に照らされた圭介の顔は、橋の上で綻びを封じていたときと変わらず静かだった。ふざけている気配はない。本気で、これがいちばん穏当な手だと思っている顔だ。
父がようやく咳払いをして前へ出た。
「雨宮殿、と申されましたな」
「はい」
「鍵守寮の役目が重いのは承知しております。しかし、うちの娘は役所勤めでもなければ、怪異退治の心得があるわけでもない。橋で何かがあったのも、本人から詳しく聞く前に、婚約などと言われましても」
「だからこそです」
圭介の返答に、父の眉がぴくりと動く。
「今夜の綻びは、最近続いている婚礼破談に関わる縁鍵と同種の濁りを持っていた。藤代ゆかり殿は、その匂いを正確に読んだ。あの力は、記録と人目の届かないところで動いている者を追ううえで、必要になります」
「必要だからって、うちの娘を夜道へ連れ回す気ですか」
「一人で歩かせるほうが危険です」
その一言で、店先の空気が変わった。
女中頭が「でしょうとも」とすぐさま頷きかけ、ゆかりはそちらを振り向いた。
「そこで納得しないで」
「だって実際、危なかったんでしょう、橋で」
「それはそうだけど……」
言葉に詰まる。あの裂け目の黒さを思い出すと、喉の奥がまだ少し冷えた。
圭介はその沈黙を待っていたみたいに、声を落とした。
「礼縁局も同じ鍵を探しています。だが、役所の通達が出るより先に、橋へ置かれていた。つまり、探す側に知られる前に動いている者がいる。表立って藤代殿を同行させれば、相手に警戒される」
「だから婚約者のふり、ですか」
「はい」
「もっとほかにないんですか。親類とか、助手とか、香具店の納品係とか」
「親類にしては近すぎる。助手では公的な記録が残る。納品係は、俺が毎度付き添う理由にならない」
妙に理屈が細かい。
ゆかりはむっとして腕を組んだ。
「つまり、あなたが私のそばにいたいだけでしょう」
「危険だからです」
「そこ、即答するんですね」
「曖昧にすると、話がずれる」
「十分ずれてますけど」
女中頭が、ふいに口元を押さえて笑いをこらえた。父はまだ難しい顔をしていたが、完全に怒っているというより、目の前の男がどこまで本気で言っているのか測りかねている顔だった。
「雨宮殿」
父はゆっくりと訊ねた。
「娘を守れると、約束できますか」
一拍の間があった。
ゆかりは、そこで少しだけ息を止めた。こういうときの男は、たいてい立派なことを言う。任せてくださいとか、命に代えてもとか、香袋の売り場で聞く芝居がかった求婚みたいな台詞を並べる。
けれど圭介は違った。
「傷ひとつ負わせない、とは言えません」
父の目が険しくなる。
それでも圭介は視線を逸らさなかった。
「綻びに関わる以上、怖い思いもするでしょう。俺一人の力で防ぎきれない事態もある。ですが、俺が現場にいるかぎり、見捨てません。必要なら、俺が前に立ちます」
飾り気のない声音だった。
立派に聞こえないかわりに、ごまかしがない。
ゆかりは胸の奥で何かが引っかかるのを感じた。うまい言葉ではない。だからこそ、変に残る。
父は長く黙ったあと、娘のほうを見た。
「おまえはどうしたい」
その問いに、すぐ答えは出なかった。
店の中には香木の匂いがある。毎日嗅いでいる、落ち着く匂いだ。ここにいれば安全だ。今までどおり婚礼用の香袋を作り、誰かの門出に笑って頭を下げ、裏の匂いを嗅いでも聞こえないふりをして生きていける。
それで済むなら、どれだけ楽だろう。
けれど、橋の上に置かれていた縁鍵は、見なかったことにできなかった。泣けなかった花嫁の匂い。あれと同じものが、もういくつも都に転がっているのだとしたら、知らないふりで帰るのは、自分で自分の鼻を塞ぐみたいで息苦しい。
ゆかりは、しばらく唇を噛んでから言った。
「……役に立つなら、行きます」
女中頭が目をむく。父は眉間に皺を寄せたままだ。
「ただし、条件があります」
圭介がわずかに顎を引く。聞く姿勢を取っただけなのに、妙に素直で腹が立つ。
「本気になんてならないから」
店先が静まり返った。
自分で言ってから、何を言っているんだろうと思う。なのに、引っ込める気にはなれなかった。婚約だの婚約者役だのという言葉だけが先に歩いて、周りが勝手に都合のいい夢を見るのが嫌だったのだ。
圭介は瞬きもせず答えた。
「こちらもそのつもりだ」
ゆかりはすぐさま顔をしかめた。
「……なんですか、その、ちょっとも迷わない感じ」
「迷う必要がありますか」
「ありますよ、普通!」
「普通が必要なら、最初から別の者に頼みます」
理屈としては通っている。通っているのがなおさら癪だ。
女中頭がとうとう吹き出し、父が「お栄」とたしなめる。笑われているのが自分なのか圭介なのかもうわからない。
その夜、話は細かい条件まで詰められた。
外では仮の婚約者として振る舞うこと。危険な場所へ行くときは必ず圭介か鍵守寮の者と同行すること。香具店の仕事に差し支える日は事前に知らせること。夜更けには必ず帰すこと。帰せない事情がある場合は使いを出すこと。
父の条件は多かったが、圭介は一つずつ淡々と頷いた。面倒そうな顔をしないのが逆に不気味なくらいだった。
話が終わるころには、都の灯もかなり落ちていた。
帰り際、圭介は懐から小さな紙包みを出して卓へ置いた。開くと、中には細い銀線で作られた簡素な環が入っている。指輪ではない。香袋の紐を通せるような小さな留め具だ。
「明朝、鍵守寮へ来てください。仮婚約の証を用意します」
「証って」
「口約束だけでは、寮の中で余計な詮索が入る」
「もう十分余計ですけど」
「それも明日わかります」
そう言い残して、彼は本当にそれだけで帰っていった。
見送りながら、ゆかりはため息をつく。
ありえないことだらけなのに、足元だけが妙に現実だった。店先の石畳の冷たさも、戸を閉める音も、女中頭が台所で「これはもう縁談じゃなくて騒動だねえ」と嬉しそうに囁く声も、みんなやけにはっきりしている。
眠れない夜になりそうだった。
翌朝の雨鏡京は、夜の騒ぎが嘘みたいに澄んでいた。
東から差す薄桃色の光が、水路の面をゆっくり起こしていく。焼きたての麩を運ぶ荷車が通り、豆を煎る匂いが軒先から流れ、遠くでは寺の鐘がひとつ鳴った。朝焼けの都は、夕暮れより人の本音が少し薄い。寝起きの顔をしているぶん、見栄が間に合わないのかもしれない。
ゆかりは店を出る前に、父から何度も念を押された。
「嫌になったらすぐ帰ってこい」
「変な薬は飲むな」
「人気のないところへ一人で行くな」
「婚約者のふりは外だけにしろ」
最後の一言に、ゆかりは思わず顔を上げた。
「こっちが言いたい」
「念のためだ」
父は真面目に頷いた。どうやら、あの無愛想な男にも少しは警戒しているらしい。
鍵守寮は、水路を二本渡った北側、役所町の端にある。武張った門ではなく、意外にも木地の色をそのまま残した落ち着いた建物だった。だが、中へ入ると空気は店や茶屋とはまるで違う。人の出入りが多いのに、無駄な声が少ない。紙の擦れる音、鍵金具の触れ合う音、誰かが短く指示を飛ばす声。閉じるものを扱う場所らしく、どの音も締まっている。
案内された部屋で待っていると、やがて圭介が現れた。今日は黒羽織の上に鍵守寮の紋入りの肩掛けをつけている。橋の上で見たときより役人らしい格好なのに、愛想のなさはまったく変わらない。
「来たか」
「来ましたけど、迎えの一言くらいありません?」
「もう来ている」
「そういう意味じゃなくて」
言い返したところで、横から勢いよく別の声が飛び込んだ。
「これが噂の!」
障子が開き、若い男が顔を突っ込んできた。細身で、寝癖を慌てて押さえつけたような髪をしている。目だけはやたらきらきらしていた。
「本当に連れてきたんですね、筆頭。朝から寮じゅうがざわついております。橋の綻びを嗅ぎ分けた香具店の娘さん、しかも仮婚約。いやあ、紙にすると字面が強い」
「世凪」
圭介が低く呼ぶ。
「読む前に息をしろ」
「してますよ。たぶん」
世凪と呼ばれた男は、まるで懲りずに部屋へ入ってきた。
「書記見習いの世凪です。古文書と噂話を同じ熱量で扱うなと毎日怒られております」
「自覚があるなら改めろ」
廊下のほうから別の声がした。背の高い男が、盆に湯呑みを三つ載せて入ってくる。声も足音も無駄がなく、立っているだけで柱みたいに落ち着いて見えた。
「央和だ」
それだけ名乗り、盆を卓へ置く。愛想はないが、圭介とは違って冷たい感じはしない。必要なことだけ置いていく人、という印象だった。
さらに後ろから、文箱を抱えた女が遠慮がちに頭を下げた。
「麻里佳です。婚礼の届けや儀礼の手配を見ています。あの、こういう場合の外向きの書類、まだ前例がなくて……でも、たぶん、なんとかします」
言いながらも、抱えた文箱にはすでに札が何枚も差し込まれている。なんとかする前に、もう八割は整えてきた顔だ。
ゆかりが挨拶を返す間にも、世凪の視線は遠慮なくこちらと圭介を往復していた。
「筆頭、ひとつ確認しても?」
「駄目だ」
「まだ聞いてませんけど」
「聞かなくていい」
「では想像で補いますが、藤代さんは本当に婚約者役だけで――」
最後まで言う前に、央和が世凪の襟首を後ろからつまんだ。
「仕事に戻れ」
「痛くはないですが情けないです、央和殿」
「それで十分だ」
世凪は引きずられながらも、「でも証は渡すんですよね」「香袋ですか、指輪ですか、鍵ですか」と喋り続けている。麻里佳が申し訳なさそうに会釈した。
「騒がしくてすみません。朝は特に、みんな眠気に勝ったり負けたりしているので」
「負けてるのは一人だけだ」
央和が言い切る。
ゆかりは思わず口元を押さえた。鍵守寮と聞いて、もっと張り詰めた場所を想像していたのに、意外と人間くさい。いや、一人だけ鳥みたいに騒がしいのがいるせいかもしれない。
部屋が少し落ち着いたところで、圭介が卓の上へ黒塗りの小箱を置いた。
「仮婚約の証だ」
箱の中には、二つのものが収まっていた。
一つは、ごく小さな香袋だった。藤代香舗で扱う婚礼用のものより簡素だが、薄紅の布に白糸で桔梗が一輪だけ縫い出されている。近づくと、沈香に柚子の皮をほんの少し混ぜたような、朝の空気によく合う香りがした。
もう一つは、細い金属の封鍵具だった。橋で圭介が使っていたものの縮小版みたいな形で、先端に小さな切り込みがある。飾りはないのに、不思議ときれいだ。
「香袋はおまえが持て」
圭介が言う。
「封鍵具は俺が持つ。対になる形で作ってある。人前では、互いに相手から預かったものとして見せればいい」
ゆかりは香袋を持ち上げた。軽い。けれど布の温度が指に馴染む感じがする。
「……これ、寮で作ったんですか」
「正晶という職人に頼んだ。香りは、昨日おまえの店で感じたものに近づけたつもりだ」
「つもり、って」
「正確かはわからない。俺は匂いの違いが細かく取れない」
そう言ったあとで、圭介は少しだけ間を置いた。言いすぎたと思ったのかもしれない。橋の上では気づかなかったが、この人は必要なことしか言わないくせに、ときどき無防備に内側を出す。
ゆかりは香袋を握り直した。
「……近いです。少しだけ、柚子が勝ってるけど」
「そうか」
圭介はそれ以上得意にもならず、ただ頷いた。
麻里佳が文箱から一枚の紙を抜く。
「では、外向きにはこういうことにします。雨宮殿は、以前から藤代香舗の香りを婚礼封印の補助に使っていて、その縁で娘さんと親しくなった。近々正式に話を進める予定だけれど、まだ身内以外には伏せている。ここまではよろしいですか」
「伏せてるわりに寮の中では筒抜けですね」
「そこはもう、今さらです」
麻里佳がきっぱり言うので、ゆかりは笑うしかなかった。
世凪が戻ってこないうちに説明は進んだ。昨日の橋で回収した縁鍵は、婚礼記録には残っていない型だが、ここ数か月で起きた破談のいくつかと濁りの質が似ていること。礼縁局にも通達は出ているが、記録を追うだけでは足りないこと。噂や人の感情の揺れが先に綻びを生むなら、その匂いを読めるゆかりが必要なこと。
「要するに」
ゆかりは卓に肘をつかないよう気をつけながら言った。
「役所が帳面をめくるより早く、誰かの本音が漏れる場所へ行けってことですね」
圭介がこちらを見る。
「そうだ」
「だったら、最初からそう言えばいいのに」
「昨日も言った」
「婚約者役のほうが先に来たでしょうが」
「順序としては必要だ」
「そこだけ妙に頑固」
思わず出た言葉に、央和がわずかに口元を緩めた。麻里佳は帳面に何かを書き込みながら、肩を震わせている。圭介本人だけが、本気で何がおかしいのかわかっていない顔をしていた。
そのとき、廊下の向こうでどたばたと足音がした。
「筆頭!」
世凪である。やっぱり戻ってきた。
「朝焼け小路で綻びです! 規模は小、ですが、かなり近い匂いの文が出たと下番の者が!」
部屋の空気が一瞬で引き締まる。
圭介は立ち上がった。
「場所は」
「東の乾物問屋裏、恋文屋が並ぶ通りです。代筆の紙切れが飛んで、人の袖に絡んでるとか」
恋文屋。
ゆかりはその言葉だけで、なんとなく嫌な予感がした。朝の路地に恋文。うまく届けば人を浮き立たせ、こじれれば一日じゅう頭を占領する、厄介なくせに甘い代物だ。
「行くぞ」
圭介が短く言う。
「もうですか」
「もうだ」
「仮婚約、いきなり実地なんですね」
「実地でなければ意味がない」
言いながら、彼はゆかりのすぐ前まで来て、ふと手を止めた。羽織の紐が肩でずれているのを直そうとしたらしい。けれど、指先が触れる寸前でぴたりと止まり、代わりに言葉だけが落ちる。
「……紐が曲がっている」
「え?」
「自分で直せるか」
そこでようやく、昨日からの違和感の正体がひとつ見えた。圭介は人との距離が近くなるところで、必ず一度止まる。避けているというより、触れていい線を測りかねているみたいに。
ゆかりは自分で紐を結び直しながら、横目で彼を見た。
「触れば早いのに」
「必要がないなら触らない」
「必要なら?」
「綻びの中では話が別だ」
それだけ言って、先に部屋を出る。
不器用なのか、徹底しているのか、その両方なのか。まだわからない。
ただ、今のでひとつだけ確かなことがある。昨夜、父の前で平然と「見捨てません」と言った男は、人の袖の紐ひとつを直すのにすら妙な間を置く。
それが少し可笑しくて、少しだけ気になった。
朝焼け小路は、その名のとおり朝の色がよく映る細い通りだった。紙問屋、筆屋、代筆屋、恋文の文例を扱う小さな店が並び、軒先には薄い色紙が吊られている。朝の光を透かした紙はきれいだが、今日はその何枚かがびりびりに裂け、通りじゅうを舞っていた。
「いやああ、袖に絡む!」
「勝手に読まないで!」
「読んでない、紙のほうが読ませようとしてくるんだってば!」
騒ぎの中心では、若い娘が泣きそうな顔で袖を振っている。袖口に、細長い紙片が蛇みたいに巻きついていた。別の男の肩にも、女物の料紙がぺたりと貼りついている。そこへ書かれた文字が、勝手に滲み、増え、路地の石畳へこぼれていた。
ゆかりは鼻を押さえた。
「甘い……」
花の匂いではない。砂糖水の甘さでもない。もっと切羽詰まった、返事を待つあいだだけ濃くなる甘さだ。胸がじりじりする。好きです、会いたいです、どうして返してくれないんです、という言葉が、墨の匂いに混じって肌へまとわりつく。
「代筆文から生まれた綻びか」
圭介が低く言う。
央和はすでに路地の両端に人払いをかけていた。麻里佳は店主から事情を聞き取っている。世凪は飛び散る紙を一枚ずつ拾いながら、「これはひどい、語尾だけでも三人ぶん混ざってます」と変なところで感心していた。
「藤代」
圭介が振り向く。
「核になる匂いを探せるか」
「やります」
答えながら、ゆかりは通りの中央へ進んだ。
紙片が頬をかすめる。墨の匂い。紅の匂い。練香の匂い。恋文らしく繕われた言葉の匂いは多いのに、肝心の本音が薄い。どれもこれも誰かの文例を借りていて、似たような甘さだけが重なっている。
でも、一枚だけ違った。
店先の朱塗りの文箱の下、踏まれた紙片から、苦い香りがする。返事を待つ甘さに混じる、焦げたような苦み。会いたいではない。認めてほしい、だ。
「これだ」
ゆかりは紙片を拾い上げた。にじんだ文字の間から、かすかに違う匂いが立つ。
「好きだって言ってほしかったんじゃない。ちゃんと、自分で書いたって認めてほしかったんだ」
代筆屋の前にいた若い男が、びくりと顔を上げた。墨で汚れた指先。眠れていない目。彼の袖口から、同じ苦い匂いがする。
「お、おれは……」
「誰かの文を借りたんでしょう」
ゆかりはまっすぐ言った。
「きれいな言い回しを。返事をもらえるように。でも、ほんとは、その文を褒められるたび、自分が空っぽみたいで嫌だった」
男の肩が震える。
「だって、あの人、こういうの好きだって」
「好きなのは文じゃなくて、あんたのはずだったんじゃないの」
男が言い返せないうちに、袖へ絡みついていた紙片がいっせいにざわめいた。文字が浮き、空中でひとつの文になろうと集まる。会いたい。好きです。どうか返事を。どれも借りものの形をしているくせに、最後だけ、黒く濁った一文が滲んだ。
――おれの言葉じゃ駄目なのか。
圭介がその瞬間を逃さなかった。封鍵具を抜き、路地の石畳に浮かんだ小さな鍵穴へ差し込む。
「借りものの言葉で結ぶな」
低い声が響く。
「閉じる」
紙片がばさりと地へ落ちた。渦がほどけ、甘ったるい匂いが薄れていく。
男はへなへなと座り込んだ。代筆屋の主人が青い顔で駆け寄る。どうやら、返事が来ない焦りから客の文を何本も継ぎ足し、一番きれいに見えるところだけ抜いて渡していたらしい。気持ちを届けるはずの恋文が、誰のものでもない言葉の寄せ集めになり、綻びを生んだのだ。
騒ぎが収まると、通りに残ったのは朝の光と、散らかった紙だけだった。
麻里佳が記録を書きつけながら、ほっと息をつく。
「大事にならなくてよかった……」
「最初に紙が袖へ絡んだ娘さん、怪我はありません」
央和が淡々と報告する。
「路地の両端も片づいた」
「さすがです、央和殿。あと筆頭も」
世凪は紙片を束ねながら、にやりと笑った。
「でも今回は、いちばん効いたの、藤代さんの一言でしたね。本人が一番隠していたところを、ずばっと」
「隠していたわけじゃ」
若い男が反論しかけ、すぐにしぼんだ。
「……いや、隠してたか」
その顔を見て、ゆかりは息を吐いた。言い当てた達成感より、ようやく通った、という安堵のほうが大きい。匂いはいつだって気持ちの悪いものばかり連れてくるわけではない。こうして、絡まった言葉をほどくこともある。
「藤代」
振り向くと、圭介がすぐ近くに立っていた。
「助かった」
昨日も似たようなことを言われた気がする。でも今日は、朝の光の中で聞いたせいか、少しだけ違って響いた。
「……どういたしまして、って言えばいいんですか、こういうとき」
「好きにしろ」
「それ、返しとして雑すぎません?」
「雑ではない。裁量を渡した」
「言い方が堅い」
思わず笑うと、圭介がほんのわずかに目を細めた。笑ったのではない。ただ、緊張が一段だけほどけた顔だった。
その変化を見たのが世凪である。
「おやおや」
嫌な声を出した次の瞬間、央和がまた襟首をつまんだ。
「記録へ戻れ」
「本日二度目です、扱いが雑!」
「ちょうどいい」
朝焼け小路に残っていた人々から、小さな笑いがもれた。さっきまで泣きそうだった娘まで口元を緩めている。騒ぎのあとの空気が、ようやく人のものへ戻った感じがした。
そのとき、ゆかりの鼻先を、ひどく薄い匂いがかすめた。
雨上がりではない。檜でも茶でもない。もっと淡い、乾いた布に朝の風が通ったみたいな匂い。
隣に立つ圭介からだと気づく前に、もう消えていた。
ゆかりは目を瞬く。
「……今」
「どうした」
「いえ」
言って、自分でも迷う。気のせいだったのかもしれない。けれど、昨日からほとんど匂いのしなかった人から、今の一瞬だけ何かがこぼれた。
圭介は不思議そうにこちらを見るが、その視線の意味までは読めない。やっぱり薄い。人の感情の輪郭が、彼だけ少し遠い。
だからだろうか。
匂いで測れないのに、言葉の端や立ち位置ばかりが気になる。
面倒な相手だ、とゆかりは思った。
朝焼けの路地では、代筆屋が散らばった紙を拾い集め、麻里佳が被害を書き留め、央和が通りの端をもう一度確かめていた。世凪はこっそり「仮婚約初仕事」と書こうとして麻里佳に止められている。
都はまだ朝の途中だ。
鍵穴の向こうの大きな綻びに比べれば、今の騒ぎは小さい。けれど、小さいからこそ、誰かの言葉のつまずきがそのまま怪異になる。雨鏡京という都は、そういう場所なのだと、ゆかりは改めて思った。
そして、その都のあちこちへ、これからこの男と並んで行くのだ。
ありえないと思っていたはずなのに、朝の光の中では、もう少し別の形に見え始めていた。
仮の婚約。仮の相棒。仮の関係。
どれも本物ではない。なのに、橋の上で始まってしまった歯車は、確かに次の場所へ回り出している。
圭介が歩き出し、ゆかりもその隣へ並んだ。
人前では婚約者の距離を取らなければならないくせに、本人は肘ひとつぶんの間をきっちり空けて歩く。その不自然さに笑いそうになりながら、ゆかりは香袋を袖の内でそっと握った。
朝焼けの路地を抜ける風は、まだ少し冷たかった。
【終】
藤代香舗の店先は、その夜だけ、祝言の相談より面倒なことになった。
圭介が「婚約者役を頼みたい」と言ったあと、最初に声を失ったのは父で、次に女中頭が怒鳴り、最後に帳場の奥で香木を量っていた丁稚が、手から枡を落とした。白檀の小片が畳へ散らばり、香りだけがやけに落ち着いているのが腹立たしい。
「待ってください、順番に言わせてください」
ゆかりは香箱を台へ置き、両手でこめかみを押さえた。
「まず、何をどうしたら、橋で会ったばかりの相手から婚約の話になるんですか」
「婚約そのものではない」
圭介はきっぱり言った。
「婚約者役だ」
「言い換えても妙ですけど」
「妙でも、いちばん角が立たない」
「十分立ってます」
店先の灯に照らされた圭介の顔は、橋の上で綻びを封じていたときと変わらず静かだった。ふざけている気配はない。本気で、これがいちばん穏当な手だと思っている顔だ。
父がようやく咳払いをして前へ出た。
「雨宮殿、と申されましたな」
「はい」
「鍵守寮の役目が重いのは承知しております。しかし、うちの娘は役所勤めでもなければ、怪異退治の心得があるわけでもない。橋で何かがあったのも、本人から詳しく聞く前に、婚約などと言われましても」
「だからこそです」
圭介の返答に、父の眉がぴくりと動く。
「今夜の綻びは、最近続いている婚礼破談に関わる縁鍵と同種の濁りを持っていた。藤代ゆかり殿は、その匂いを正確に読んだ。あの力は、記録と人目の届かないところで動いている者を追ううえで、必要になります」
「必要だからって、うちの娘を夜道へ連れ回す気ですか」
「一人で歩かせるほうが危険です」
その一言で、店先の空気が変わった。
女中頭が「でしょうとも」とすぐさま頷きかけ、ゆかりはそちらを振り向いた。
「そこで納得しないで」
「だって実際、危なかったんでしょう、橋で」
「それはそうだけど……」
言葉に詰まる。あの裂け目の黒さを思い出すと、喉の奥がまだ少し冷えた。
圭介はその沈黙を待っていたみたいに、声を落とした。
「礼縁局も同じ鍵を探しています。だが、役所の通達が出るより先に、橋へ置かれていた。つまり、探す側に知られる前に動いている者がいる。表立って藤代殿を同行させれば、相手に警戒される」
「だから婚約者のふり、ですか」
「はい」
「もっとほかにないんですか。親類とか、助手とか、香具店の納品係とか」
「親類にしては近すぎる。助手では公的な記録が残る。納品係は、俺が毎度付き添う理由にならない」
妙に理屈が細かい。
ゆかりはむっとして腕を組んだ。
「つまり、あなたが私のそばにいたいだけでしょう」
「危険だからです」
「そこ、即答するんですね」
「曖昧にすると、話がずれる」
「十分ずれてますけど」
女中頭が、ふいに口元を押さえて笑いをこらえた。父はまだ難しい顔をしていたが、完全に怒っているというより、目の前の男がどこまで本気で言っているのか測りかねている顔だった。
「雨宮殿」
父はゆっくりと訊ねた。
「娘を守れると、約束できますか」
一拍の間があった。
ゆかりは、そこで少しだけ息を止めた。こういうときの男は、たいてい立派なことを言う。任せてくださいとか、命に代えてもとか、香袋の売り場で聞く芝居がかった求婚みたいな台詞を並べる。
けれど圭介は違った。
「傷ひとつ負わせない、とは言えません」
父の目が険しくなる。
それでも圭介は視線を逸らさなかった。
「綻びに関わる以上、怖い思いもするでしょう。俺一人の力で防ぎきれない事態もある。ですが、俺が現場にいるかぎり、見捨てません。必要なら、俺が前に立ちます」
飾り気のない声音だった。
立派に聞こえないかわりに、ごまかしがない。
ゆかりは胸の奥で何かが引っかかるのを感じた。うまい言葉ではない。だからこそ、変に残る。
父は長く黙ったあと、娘のほうを見た。
「おまえはどうしたい」
その問いに、すぐ答えは出なかった。
店の中には香木の匂いがある。毎日嗅いでいる、落ち着く匂いだ。ここにいれば安全だ。今までどおり婚礼用の香袋を作り、誰かの門出に笑って頭を下げ、裏の匂いを嗅いでも聞こえないふりをして生きていける。
それで済むなら、どれだけ楽だろう。
けれど、橋の上に置かれていた縁鍵は、見なかったことにできなかった。泣けなかった花嫁の匂い。あれと同じものが、もういくつも都に転がっているのだとしたら、知らないふりで帰るのは、自分で自分の鼻を塞ぐみたいで息苦しい。
ゆかりは、しばらく唇を噛んでから言った。
「……役に立つなら、行きます」
女中頭が目をむく。父は眉間に皺を寄せたままだ。
「ただし、条件があります」
圭介がわずかに顎を引く。聞く姿勢を取っただけなのに、妙に素直で腹が立つ。
「本気になんてならないから」
店先が静まり返った。
自分で言ってから、何を言っているんだろうと思う。なのに、引っ込める気にはなれなかった。婚約だの婚約者役だのという言葉だけが先に歩いて、周りが勝手に都合のいい夢を見るのが嫌だったのだ。
圭介は瞬きもせず答えた。
「こちらもそのつもりだ」
ゆかりはすぐさま顔をしかめた。
「……なんですか、その、ちょっとも迷わない感じ」
「迷う必要がありますか」
「ありますよ、普通!」
「普通が必要なら、最初から別の者に頼みます」
理屈としては通っている。通っているのがなおさら癪だ。
女中頭がとうとう吹き出し、父が「お栄」とたしなめる。笑われているのが自分なのか圭介なのかもうわからない。
その夜、話は細かい条件まで詰められた。
外では仮の婚約者として振る舞うこと。危険な場所へ行くときは必ず圭介か鍵守寮の者と同行すること。香具店の仕事に差し支える日は事前に知らせること。夜更けには必ず帰すこと。帰せない事情がある場合は使いを出すこと。
父の条件は多かったが、圭介は一つずつ淡々と頷いた。面倒そうな顔をしないのが逆に不気味なくらいだった。
話が終わるころには、都の灯もかなり落ちていた。
帰り際、圭介は懐から小さな紙包みを出して卓へ置いた。開くと、中には細い銀線で作られた簡素な環が入っている。指輪ではない。香袋の紐を通せるような小さな留め具だ。
「明朝、鍵守寮へ来てください。仮婚約の証を用意します」
「証って」
「口約束だけでは、寮の中で余計な詮索が入る」
「もう十分余計ですけど」
「それも明日わかります」
そう言い残して、彼は本当にそれだけで帰っていった。
見送りながら、ゆかりはため息をつく。
ありえないことだらけなのに、足元だけが妙に現実だった。店先の石畳の冷たさも、戸を閉める音も、女中頭が台所で「これはもう縁談じゃなくて騒動だねえ」と嬉しそうに囁く声も、みんなやけにはっきりしている。
眠れない夜になりそうだった。
翌朝の雨鏡京は、夜の騒ぎが嘘みたいに澄んでいた。
東から差す薄桃色の光が、水路の面をゆっくり起こしていく。焼きたての麩を運ぶ荷車が通り、豆を煎る匂いが軒先から流れ、遠くでは寺の鐘がひとつ鳴った。朝焼けの都は、夕暮れより人の本音が少し薄い。寝起きの顔をしているぶん、見栄が間に合わないのかもしれない。
ゆかりは店を出る前に、父から何度も念を押された。
「嫌になったらすぐ帰ってこい」
「変な薬は飲むな」
「人気のないところへ一人で行くな」
「婚約者のふりは外だけにしろ」
最後の一言に、ゆかりは思わず顔を上げた。
「こっちが言いたい」
「念のためだ」
父は真面目に頷いた。どうやら、あの無愛想な男にも少しは警戒しているらしい。
鍵守寮は、水路を二本渡った北側、役所町の端にある。武張った門ではなく、意外にも木地の色をそのまま残した落ち着いた建物だった。だが、中へ入ると空気は店や茶屋とはまるで違う。人の出入りが多いのに、無駄な声が少ない。紙の擦れる音、鍵金具の触れ合う音、誰かが短く指示を飛ばす声。閉じるものを扱う場所らしく、どの音も締まっている。
案内された部屋で待っていると、やがて圭介が現れた。今日は黒羽織の上に鍵守寮の紋入りの肩掛けをつけている。橋の上で見たときより役人らしい格好なのに、愛想のなさはまったく変わらない。
「来たか」
「来ましたけど、迎えの一言くらいありません?」
「もう来ている」
「そういう意味じゃなくて」
言い返したところで、横から勢いよく別の声が飛び込んだ。
「これが噂の!」
障子が開き、若い男が顔を突っ込んできた。細身で、寝癖を慌てて押さえつけたような髪をしている。目だけはやたらきらきらしていた。
「本当に連れてきたんですね、筆頭。朝から寮じゅうがざわついております。橋の綻びを嗅ぎ分けた香具店の娘さん、しかも仮婚約。いやあ、紙にすると字面が強い」
「世凪」
圭介が低く呼ぶ。
「読む前に息をしろ」
「してますよ。たぶん」
世凪と呼ばれた男は、まるで懲りずに部屋へ入ってきた。
「書記見習いの世凪です。古文書と噂話を同じ熱量で扱うなと毎日怒られております」
「自覚があるなら改めろ」
廊下のほうから別の声がした。背の高い男が、盆に湯呑みを三つ載せて入ってくる。声も足音も無駄がなく、立っているだけで柱みたいに落ち着いて見えた。
「央和だ」
それだけ名乗り、盆を卓へ置く。愛想はないが、圭介とは違って冷たい感じはしない。必要なことだけ置いていく人、という印象だった。
さらに後ろから、文箱を抱えた女が遠慮がちに頭を下げた。
「麻里佳です。婚礼の届けや儀礼の手配を見ています。あの、こういう場合の外向きの書類、まだ前例がなくて……でも、たぶん、なんとかします」
言いながらも、抱えた文箱にはすでに札が何枚も差し込まれている。なんとかする前に、もう八割は整えてきた顔だ。
ゆかりが挨拶を返す間にも、世凪の視線は遠慮なくこちらと圭介を往復していた。
「筆頭、ひとつ確認しても?」
「駄目だ」
「まだ聞いてませんけど」
「聞かなくていい」
「では想像で補いますが、藤代さんは本当に婚約者役だけで――」
最後まで言う前に、央和が世凪の襟首を後ろからつまんだ。
「仕事に戻れ」
「痛くはないですが情けないです、央和殿」
「それで十分だ」
世凪は引きずられながらも、「でも証は渡すんですよね」「香袋ですか、指輪ですか、鍵ですか」と喋り続けている。麻里佳が申し訳なさそうに会釈した。
「騒がしくてすみません。朝は特に、みんな眠気に勝ったり負けたりしているので」
「負けてるのは一人だけだ」
央和が言い切る。
ゆかりは思わず口元を押さえた。鍵守寮と聞いて、もっと張り詰めた場所を想像していたのに、意外と人間くさい。いや、一人だけ鳥みたいに騒がしいのがいるせいかもしれない。
部屋が少し落ち着いたところで、圭介が卓の上へ黒塗りの小箱を置いた。
「仮婚約の証だ」
箱の中には、二つのものが収まっていた。
一つは、ごく小さな香袋だった。藤代香舗で扱う婚礼用のものより簡素だが、薄紅の布に白糸で桔梗が一輪だけ縫い出されている。近づくと、沈香に柚子の皮をほんの少し混ぜたような、朝の空気によく合う香りがした。
もう一つは、細い金属の封鍵具だった。橋で圭介が使っていたものの縮小版みたいな形で、先端に小さな切り込みがある。飾りはないのに、不思議ときれいだ。
「香袋はおまえが持て」
圭介が言う。
「封鍵具は俺が持つ。対になる形で作ってある。人前では、互いに相手から預かったものとして見せればいい」
ゆかりは香袋を持ち上げた。軽い。けれど布の温度が指に馴染む感じがする。
「……これ、寮で作ったんですか」
「正晶という職人に頼んだ。香りは、昨日おまえの店で感じたものに近づけたつもりだ」
「つもり、って」
「正確かはわからない。俺は匂いの違いが細かく取れない」
そう言ったあとで、圭介は少しだけ間を置いた。言いすぎたと思ったのかもしれない。橋の上では気づかなかったが、この人は必要なことしか言わないくせに、ときどき無防備に内側を出す。
ゆかりは香袋を握り直した。
「……近いです。少しだけ、柚子が勝ってるけど」
「そうか」
圭介はそれ以上得意にもならず、ただ頷いた。
麻里佳が文箱から一枚の紙を抜く。
「では、外向きにはこういうことにします。雨宮殿は、以前から藤代香舗の香りを婚礼封印の補助に使っていて、その縁で娘さんと親しくなった。近々正式に話を進める予定だけれど、まだ身内以外には伏せている。ここまではよろしいですか」
「伏せてるわりに寮の中では筒抜けですね」
「そこはもう、今さらです」
麻里佳がきっぱり言うので、ゆかりは笑うしかなかった。
世凪が戻ってこないうちに説明は進んだ。昨日の橋で回収した縁鍵は、婚礼記録には残っていない型だが、ここ数か月で起きた破談のいくつかと濁りの質が似ていること。礼縁局にも通達は出ているが、記録を追うだけでは足りないこと。噂や人の感情の揺れが先に綻びを生むなら、その匂いを読めるゆかりが必要なこと。
「要するに」
ゆかりは卓に肘をつかないよう気をつけながら言った。
「役所が帳面をめくるより早く、誰かの本音が漏れる場所へ行けってことですね」
圭介がこちらを見る。
「そうだ」
「だったら、最初からそう言えばいいのに」
「昨日も言った」
「婚約者役のほうが先に来たでしょうが」
「順序としては必要だ」
「そこだけ妙に頑固」
思わず出た言葉に、央和がわずかに口元を緩めた。麻里佳は帳面に何かを書き込みながら、肩を震わせている。圭介本人だけが、本気で何がおかしいのかわかっていない顔をしていた。
そのとき、廊下の向こうでどたばたと足音がした。
「筆頭!」
世凪である。やっぱり戻ってきた。
「朝焼け小路で綻びです! 規模は小、ですが、かなり近い匂いの文が出たと下番の者が!」
部屋の空気が一瞬で引き締まる。
圭介は立ち上がった。
「場所は」
「東の乾物問屋裏、恋文屋が並ぶ通りです。代筆の紙切れが飛んで、人の袖に絡んでるとか」
恋文屋。
ゆかりはその言葉だけで、なんとなく嫌な予感がした。朝の路地に恋文。うまく届けば人を浮き立たせ、こじれれば一日じゅう頭を占領する、厄介なくせに甘い代物だ。
「行くぞ」
圭介が短く言う。
「もうですか」
「もうだ」
「仮婚約、いきなり実地なんですね」
「実地でなければ意味がない」
言いながら、彼はゆかりのすぐ前まで来て、ふと手を止めた。羽織の紐が肩でずれているのを直そうとしたらしい。けれど、指先が触れる寸前でぴたりと止まり、代わりに言葉だけが落ちる。
「……紐が曲がっている」
「え?」
「自分で直せるか」
そこでようやく、昨日からの違和感の正体がひとつ見えた。圭介は人との距離が近くなるところで、必ず一度止まる。避けているというより、触れていい線を測りかねているみたいに。
ゆかりは自分で紐を結び直しながら、横目で彼を見た。
「触れば早いのに」
「必要がないなら触らない」
「必要なら?」
「綻びの中では話が別だ」
それだけ言って、先に部屋を出る。
不器用なのか、徹底しているのか、その両方なのか。まだわからない。
ただ、今のでひとつだけ確かなことがある。昨夜、父の前で平然と「見捨てません」と言った男は、人の袖の紐ひとつを直すのにすら妙な間を置く。
それが少し可笑しくて、少しだけ気になった。
朝焼け小路は、その名のとおり朝の色がよく映る細い通りだった。紙問屋、筆屋、代筆屋、恋文の文例を扱う小さな店が並び、軒先には薄い色紙が吊られている。朝の光を透かした紙はきれいだが、今日はその何枚かがびりびりに裂け、通りじゅうを舞っていた。
「いやああ、袖に絡む!」
「勝手に読まないで!」
「読んでない、紙のほうが読ませようとしてくるんだってば!」
騒ぎの中心では、若い娘が泣きそうな顔で袖を振っている。袖口に、細長い紙片が蛇みたいに巻きついていた。別の男の肩にも、女物の料紙がぺたりと貼りついている。そこへ書かれた文字が、勝手に滲み、増え、路地の石畳へこぼれていた。
ゆかりは鼻を押さえた。
「甘い……」
花の匂いではない。砂糖水の甘さでもない。もっと切羽詰まった、返事を待つあいだだけ濃くなる甘さだ。胸がじりじりする。好きです、会いたいです、どうして返してくれないんです、という言葉が、墨の匂いに混じって肌へまとわりつく。
「代筆文から生まれた綻びか」
圭介が低く言う。
央和はすでに路地の両端に人払いをかけていた。麻里佳は店主から事情を聞き取っている。世凪は飛び散る紙を一枚ずつ拾いながら、「これはひどい、語尾だけでも三人ぶん混ざってます」と変なところで感心していた。
「藤代」
圭介が振り向く。
「核になる匂いを探せるか」
「やります」
答えながら、ゆかりは通りの中央へ進んだ。
紙片が頬をかすめる。墨の匂い。紅の匂い。練香の匂い。恋文らしく繕われた言葉の匂いは多いのに、肝心の本音が薄い。どれもこれも誰かの文例を借りていて、似たような甘さだけが重なっている。
でも、一枚だけ違った。
店先の朱塗りの文箱の下、踏まれた紙片から、苦い香りがする。返事を待つ甘さに混じる、焦げたような苦み。会いたいではない。認めてほしい、だ。
「これだ」
ゆかりは紙片を拾い上げた。にじんだ文字の間から、かすかに違う匂いが立つ。
「好きだって言ってほしかったんじゃない。ちゃんと、自分で書いたって認めてほしかったんだ」
代筆屋の前にいた若い男が、びくりと顔を上げた。墨で汚れた指先。眠れていない目。彼の袖口から、同じ苦い匂いがする。
「お、おれは……」
「誰かの文を借りたんでしょう」
ゆかりはまっすぐ言った。
「きれいな言い回しを。返事をもらえるように。でも、ほんとは、その文を褒められるたび、自分が空っぽみたいで嫌だった」
男の肩が震える。
「だって、あの人、こういうの好きだって」
「好きなのは文じゃなくて、あんたのはずだったんじゃないの」
男が言い返せないうちに、袖へ絡みついていた紙片がいっせいにざわめいた。文字が浮き、空中でひとつの文になろうと集まる。会いたい。好きです。どうか返事を。どれも借りものの形をしているくせに、最後だけ、黒く濁った一文が滲んだ。
――おれの言葉じゃ駄目なのか。
圭介がその瞬間を逃さなかった。封鍵具を抜き、路地の石畳に浮かんだ小さな鍵穴へ差し込む。
「借りものの言葉で結ぶな」
低い声が響く。
「閉じる」
紙片がばさりと地へ落ちた。渦がほどけ、甘ったるい匂いが薄れていく。
男はへなへなと座り込んだ。代筆屋の主人が青い顔で駆け寄る。どうやら、返事が来ない焦りから客の文を何本も継ぎ足し、一番きれいに見えるところだけ抜いて渡していたらしい。気持ちを届けるはずの恋文が、誰のものでもない言葉の寄せ集めになり、綻びを生んだのだ。
騒ぎが収まると、通りに残ったのは朝の光と、散らかった紙だけだった。
麻里佳が記録を書きつけながら、ほっと息をつく。
「大事にならなくてよかった……」
「最初に紙が袖へ絡んだ娘さん、怪我はありません」
央和が淡々と報告する。
「路地の両端も片づいた」
「さすがです、央和殿。あと筆頭も」
世凪は紙片を束ねながら、にやりと笑った。
「でも今回は、いちばん効いたの、藤代さんの一言でしたね。本人が一番隠していたところを、ずばっと」
「隠していたわけじゃ」
若い男が反論しかけ、すぐにしぼんだ。
「……いや、隠してたか」
その顔を見て、ゆかりは息を吐いた。言い当てた達成感より、ようやく通った、という安堵のほうが大きい。匂いはいつだって気持ちの悪いものばかり連れてくるわけではない。こうして、絡まった言葉をほどくこともある。
「藤代」
振り向くと、圭介がすぐ近くに立っていた。
「助かった」
昨日も似たようなことを言われた気がする。でも今日は、朝の光の中で聞いたせいか、少しだけ違って響いた。
「……どういたしまして、って言えばいいんですか、こういうとき」
「好きにしろ」
「それ、返しとして雑すぎません?」
「雑ではない。裁量を渡した」
「言い方が堅い」
思わず笑うと、圭介がほんのわずかに目を細めた。笑ったのではない。ただ、緊張が一段だけほどけた顔だった。
その変化を見たのが世凪である。
「おやおや」
嫌な声を出した次の瞬間、央和がまた襟首をつまんだ。
「記録へ戻れ」
「本日二度目です、扱いが雑!」
「ちょうどいい」
朝焼け小路に残っていた人々から、小さな笑いがもれた。さっきまで泣きそうだった娘まで口元を緩めている。騒ぎのあとの空気が、ようやく人のものへ戻った感じがした。
そのとき、ゆかりの鼻先を、ひどく薄い匂いがかすめた。
雨上がりではない。檜でも茶でもない。もっと淡い、乾いた布に朝の風が通ったみたいな匂い。
隣に立つ圭介からだと気づく前に、もう消えていた。
ゆかりは目を瞬く。
「……今」
「どうした」
「いえ」
言って、自分でも迷う。気のせいだったのかもしれない。けれど、昨日からほとんど匂いのしなかった人から、今の一瞬だけ何かがこぼれた。
圭介は不思議そうにこちらを見るが、その視線の意味までは読めない。やっぱり薄い。人の感情の輪郭が、彼だけ少し遠い。
だからだろうか。
匂いで測れないのに、言葉の端や立ち位置ばかりが気になる。
面倒な相手だ、とゆかりは思った。
朝焼けの路地では、代筆屋が散らばった紙を拾い集め、麻里佳が被害を書き留め、央和が通りの端をもう一度確かめていた。世凪はこっそり「仮婚約初仕事」と書こうとして麻里佳に止められている。
都はまだ朝の途中だ。
鍵穴の向こうの大きな綻びに比べれば、今の騒ぎは小さい。けれど、小さいからこそ、誰かの言葉のつまずきがそのまま怪異になる。雨鏡京という都は、そういう場所なのだと、ゆかりは改めて思った。
そして、その都のあちこちへ、これからこの男と並んで行くのだ。
ありえないと思っていたはずなのに、朝の光の中では、もう少し別の形に見え始めていた。
仮の婚約。仮の相棒。仮の関係。
どれも本物ではない。なのに、橋の上で始まってしまった歯車は、確かに次の場所へ回り出している。
圭介が歩き出し、ゆかりもその隣へ並んだ。
人前では婚約者の距離を取らなければならないくせに、本人は肘ひとつぶんの間をきっちり空けて歩く。その不自然さに笑いそうになりながら、ゆかりは香袋を袖の内でそっと握った。
朝焼けの路地を抜ける風は、まだ少し冷たかった。
【終】


