言香の花嫁は、鍵穴の先を覗く


第1話 夕暮れの橋で、縁は匂う


 夕暮れどきの雨鏡京は、きれいすぎて少し意地が悪い。

 西へ傾いた陽が水路に細く砕け、橋の欄干や蔵の白壁を飴みたいな色に照らしている。風は昼より冷えているのに、通りには祝言帰りの人々の声がまだ残っていた。赤い鼻緒を鳴らしながら笑う娘たち。酒に頬を染めて肩を組む若い男たち。婚礼の余韻は、人の数だけ形を変えて路地へこぼれていく。

 藤代ゆかりは、両腕で空になった香箱を抱え直し、ため息をひとつ飲み込んだ。

 今日は西ノ辻の呉服商の祝言だった。白檀を薄く焚きしめた香袋を三十組。花嫁の打掛に忍ばせるぶん、親族席に置くぶん、引き出物に添えるぶん。藤代香舗の娘としては上出来な仕事だったはずだ。店先で礼も言われた。品も褒められた。帰り際には、

「やっぱり藤代さんの香りは、晴れの日に映えますわ」

 と花嫁の叔母にまで言われた。

 なのに、その言葉の底には、焦がした砂糖みたいに苦い匂いが沈んでいた。

 ――うちの娘が先ならよかったのに。

 声には出ない本音は、ゆかりの鼻先にだけ残る。

 祝言の席に出るたび、こうだ。祝いの言葉に混じる嫉妬。優しげな笑い声の裏にある値踏み。新郎新婦の将来を思っているふりをしながら、実のところ両家の格や持参金を数えている匂い。

 誰も嘘はついていないのかもしれない。人の心なんて、たいてい、きれいなものと濁ったものが一緒くたに入っている。けれど、混ざったまま嗅いでしまう側はたまらない。

 ゆかりは鼻の奥に残るにおいを振り払うように、橋へ足を向けた。

 雨鏡京の南を流れる水路には、石橋がいくつも架かっている。中でも朱鷺見橋は、都の真ん中に近いぶん、人の往来も多い。橋の中央まで来ると、水面を渡る風が香箱の隙間を抜けて、乾いた木の匂いを運んできた。

 そのはずだった。

 ふと、違う匂いがした。

 甘い。だが、花の甘さではない。口に入れた途端に舌へまとわりつく、古びた蜜の匂い。その奥に、濡れた絹と、冷えた鉄と、泣き疲れた子どもの喉みたいな、ひりついた塩気が重なっている。

 ゆかりは立ち止まった。

 橋の上には、人がちらほらいる。行商帰りの男。桶を下げた女。走り去る子ども。誰も気づいていない顔で通り過ぎる。

 でも、匂いは確かにあった。

 胸の奥を細い指でつつくように、嫌な感じで。

「……どこ」

 呟くと、風向きが変わった。

 匂いは橋の欄干の脇からした。石の影、誰かが忘れ物でもしたみたいに、ひっそり置かれているものがある。

 小さな鍵だ。

 指の長さほどの古びた鍵で、飾り部分には桔梗に似た花が透かし彫りされている。銀に見えるが、表面はくすみ、黒ずみ、細かな傷が無数に走っていた。縁鍵だとわかったのは、その形だけではなく、柄の根元に紅い糸が切れたまま絡んでいたからだ。

 婚姻、養子、主従。人と人が何かを誓うとき、雨鏡京では小さな縁鍵を交わす。最初の本音を宿す鍵。だからこそ、捨てたり、粗末にしたりするものではない。

 それが橋の上に、雨ざらしの忘れ物みたいに置かれている。

 ゆかりはごくりと唾を飲んだ。

 見なかったことにして通りすぎるのが正しい。そういうものに関わって、ろくな目に遭ったためしがない。昔から、変な匂いのするものへ近寄るなと、伯母にも店の者にも何度も言われてきた。

 それなのに。

 その鍵から漏れる匂いは、ただ嫌なだけではなかった。

 置いていかれた子の泣き声に似ていた。

 寒いところで、いつまで待っても迎えが来ないと知った、あの息の詰まるような泣き方。

「……やだなあ」

 自分で自分に言い聞かせるように呟き、ゆかりは香箱を欄干の上へ置いた。

 そっと手を伸ばす。

 指先が縁鍵に触れる寸前、ぞわりと空気が粟立った。

 橋の真ん中で、風が止む。

 次の瞬間、石の欄干に穿たれた小さな飾り穴が、じわりと黒く濡れた。

 いや、濡れたのではない。開いたのだ。

 鍵穴の形に。

 細長い黒が音もなく裂け、向こう側から白い花びらがふわりと吹き出した。花びらだと思ったものは、近くで見ると紙片だった。誰かの文。破れた婚礼目録。朱書きされた名。黒い穴の奥から、そういうものが風に巻かれて現れ、橋の上に渦を作っていく。

「っ、な……」

 足がすくんだ。

 通りがかった男が、ようやく異変に気づいて悲鳴を上げた。女が桶を落とし、水が石畳へ飛び散る。子どもが泣き、橋のたもとへ逃げていく。

 黒い裂け目は欄干の飾り穴だけに収まらなかった。橋板の継ぎ目、吊り灯籠の金具、荷車の錠前。橋の上にある「閉じるためのもの」すべてが、同じ形の黒を滲ませる。

 ゆかりは息を吸い込んだ。

 強烈な匂いが押し寄せる。

 見捨てないで。
 どうしてわたしじゃないの。
 あの人はちゃんと好きだと言ったのに。
 家のためだから仕方がないって、誰のため。

 言葉にならない思いが、湿った花の匂いになって鼻を焼いた。頭がくらつく。視界の端で、黒い裂け目が橋の上へ半円の口を開ける。向こうには、夕暮れより暗い空と、誰もいない婚礼道が見えた。白無垢の裾だけが風に揺れ、どこへも行けず立ち尽くしている。

 綻びだ。

 話には聞いていた。誓いが濁ったとき、縁鍵は壊れきる前に怪異を生む。家の錠前や婚礼道具の金具から広がる裂け目。鍵穴の向こうへ、誰かの未練が景色になる異界。

 けれど、こんなふうに目の前で開くところを見るのは初めてだった。

 橋の端にいた娘が、足をもつれさせて裂け目のほうへ倒れた。

「危ない!」

 考えるより先に、ゆかりは駆けた。

 娘の腕をつかみ、こちらへ引く。だが、裂け目の向こうから吹く風が強すぎる。紙片が頬を切り、指先に冷たい痛みが走る。縁鍵はいつの間にか、ゆかりの足もとまで転がってきていた。黒ずんだ銀が、助けを求めるみたいに震えている。

 そのときだった。

 橋のたもとから、黒い影が一つ、真っすぐこちらへ走ってきた。

 羽織の裾が翻る。夕陽を背にした男は、迷いなく裂け目の前へ踏み込み、ゆかりと娘の間へ腕を差し入れた。片手で娘を引き寄せ、もう片方の手で懐から細い金具を抜く。

 鍵に似ているが、もっと無骨で、光を吸うような鈍い色をしていた。

「下がれ」

 低い声だった。

 命令口調なのに、妙に静かで、怒鳴られた感じがしない。

 男は裂け目の縁へその金具を差し込んだ。瞬間、黒が激しくうねる。橋全体がきしみ、欄干の飾り穴から細い腕のような影が何本も伸びた。ゆかりは娘を抱えたまま後ずさる。

 匂いがさらに濃くなる。

 いやだ。
 帰りたい。
 捨てないで。

 喉の奥が焼ける。

 男は片膝をつき、裂け目の中心を見据えた。整った横顔だった。冷ややかというより、余計なものを徹底して削ぎ落とした顔。長い睫毛の下で、目だけが刃物みたいに冴えている。

「縁鍵の主は、花嫁側か」

 誰にともなく呟いた声が、風にかき消されそうになる。

 けれど、ゆかりの鼻は、裂け目の向こうから来る匂いの正体をすでに掴みかけていた。

 恋しさではない。未練でもない。

 もっとつらい。

 誰かに選ばれたかったのに、最後の最後で、置いていかれた者の匂い。

 泣きはらした目で笑わなければならなかった、花嫁の匂いだ。

「違う」

 ゆかりは思わず声を上げた。

 男が一瞬だけ振り返る。

「その鍵、捨てられた花嫁の匂いがする」

 言った途端、裂け目の向こうで白い裾が大きく揺れた。

 男の目が鋭く細まる。

「……なるほど」

 彼は鍵穴へ差し込んだ金具をひねった。金具の先端に小さく刻まれた紋が、夕暮れ色に光る。

「名前は」

「は?」

「その匂いを読んだ娘、おまえの名だ」

 こんなときに何を、と言い返す余裕もなく、ゆかりは口を開いた。

「藤代、ゆかり」

「藤代ゆかり。そこを動くな」

 男は再び裂け目へ向き直ると、今度は縁鍵そのものを拾い上げた。素手ではない。袖の内から白布を滑らせ、鍵を包む。慎重だが、手つきにためらいはなかった。

「最初の言葉を言え」

「え?」

「捨てられた花嫁。そう感じたなら、そのまま言え」

 ゆかりは息を詰めた。

 綻びは、人の本音を宿したものから生まれる。なら、その本音に届く言葉が要るのかもしれない。

 喉が乾く。けれど、このままでは橋ごと飲み込まれそうだった。

 ゆかりは裂け目を見た。向こうの婚礼道には、顔のない花嫁が立っている。白無垢は美しいのに、襟元だけが泥で汚れていた。

「……待ってたのに」

 口からこぼれたのは、自分でも思っていなかった言葉だった。

「ちゃんと、来るって言ったのに」

 裂け目の奥で風が止まる。

「それでも笑えって言われたんだ。家のためだからって。だから、置いていかれたのに、置いていかれてないふりをした」

 白い裾の先から、どろりと黒が落ちた。

 ゆかりの鼻へ、苦い蜜の匂いが爆ぜる。

「泣いていいのに、泣けなかった花嫁だ」

 その瞬間、男が金具を深く差し込んだ。

「閉じろ」

 短い声とともに、鈍い光が走る。

 裂け目が悲鳴みたいな音を立てた。花びらに見えた紙片が一斉に燃え尽きるように白く散り、黒は細く細く削られていく。婚礼道も白無垢も、夕闇の水へ溶けるように消えた。

 橋の上へ静けさが戻ったとき、残っていたのは、白布に包まれた縁鍵と、膝をついた男の背中だけだった。

 ゆかりはしばらく動けなかった。

 助けた娘が震え声で礼を言い、橋のたもとへ走っていく。逃げていた人々が、おそるおそる戻ってくる。誰も彼も、何が起きたのかわからない顔をしている。

 男は立ち上がった。

 黒羽織の胸元には、見慣れない銀の留め具がある。鍵の意匠だ。役人のものかとも思ったが、礼縁局の札とは違う。

「怪我は」

 向けられた声に、ゆかりは我に返った。

「え、あ、平気。たぶん」

 頬がひりつく。紙片で切れたらしい。だがそれより、目の前の男のほうが気になった。

「今の、何ですか」

「綻びだ」

「それは知ってます。知ってますけど、橋の穴が開いて、花嫁みたいなのが立ってて、あなたがそれを鍵で閉じて、それで」

「説明すると長い」

「じゃあ短く」

 男はほんのわずか、眉を寄せた。面倒くさそうな顔に見えたのに、目だけはゆかりから逸れない。

「壊れた契りが怪異になる。その入り口を閉じた。俺はその役目だ」

「その役目って、何」

「鍵守寮」

 聞いたことのある名だった。朝廷直属で、綻びを封じる役人たち。滅多に表へ姿を見せないせいで、噂ばかりが先に立つ。あやかし相手に剣を振るうだの、鍵穴の向こうへ入って戻ってこない者がいるだの。

 目の前の男は、その噂の一部みたいに淡々としていた。

「……あなた、誰なんです」

「雨宮圭介」

 名乗り方まで無駄がない。

 ゆかりは数度まばたきしてから、ようやく言い返した。

「さっき、わたしの名前は聞いたのに、自分は後なんですね」

「必要だったから先に聞いた」

「失礼だなあ」

「そうか」

「そうです」

 言い切ってから、ゆかりは少しだけ気が楽になった。相手がやたら整った顔の男でも、命の恩人でも、むかつくものはむかつく。

 圭介はそんなこちらの機嫌などどうでもよさそうに、白布に包んだ縁鍵を見下ろした。

「おまえ、いつからああいうものがわかる」

「“ああいうもの”」

「言葉に混ざる感情だ。匂いとして読むんだろう」

 ゆかりの背筋が強ばった。

 橋の上を渡る風が、一度だけ冷たくなる。

 この力を面白がる人もいれば、気味悪がる人もいる。役に立つと言う者ほど、あとで勝手な期待を押しつけてくる。だから普段はなるべく口にしない。祝言の席でも、求婚の場でも、当たり障りなく笑ってやりすごしてきた。

「……ただの勘です」

「違う」

「違わないです」

「さっきの綻びは、主の感情に触れなければ閉じにくかった。おまえは匂いでそこへ届いた」

 言い逃れできる隙もなく断じられて、ゆかりは唇を噛んだ。

「だから何ですか」

「最近、都で婚礼絡みの綻びが続いている」

「それとわたしに何の関係が」

「同じ匂いだった」

 圭介は橋の欄干を指先で示した。黒は消えたが、石にはまだうっすらと煤みたいな跡が残っている。

「今日のものと、ここ数日の破談の跡にあったものが同じ系統だ」

「系統って、漬物じゃないんですから」

「言い方が悪かった」

「自覚はあるんだ」

「少し」

 本当に少しだけ、という顔だった。

 ゆかりは思わず肩の力を抜く。笑っていいのか呆れていいのかわからない相手だ。

 そのとき、橋のたもとから足音が近づいてきた。役人らしい二人組が、人垣をかき分けながら上がってくる。薄い青の狩衣。胸元に礼縁局の札。

「雨宮殿!」

 一人が息を弾ませて声を上げた。

「通達の鍵、見つかったのですか」

 ゆかりは反射的に圭介を見た。

 圭介の表情は変わらない。ただ、白布で包んだ縁鍵を袖の内へ収める動作だけが一拍早い。

「通達?」

 ゆかりが聞き返すと、礼縁局の男はしまったという顔をした。だがもう遅い。

「本件は礼縁局からも探索命が出ております」

 もう一人の男が、どこかよそよそしく言った。

「婚礼記録に関わる品ゆえ、回収後は局へ引き渡しを」

「それは後で判断する」

 圭介の声は、橋に吹く夕風より冷えていた。

「綻びを生んだ品だ。先に鍵守寮で調べる」

「しかし――」

「異議があるなら、判官へ直接言え」

 礼縁局の二人は口をつぐんだ。苛立ちと気まずさと、別の何かを混ぜた匂いがした。恐れに近い。ゆかりはそのにおいを鼻の奥で受け止めながら、胸の内に小さな棘を感じた。

 ただの忘れ物ではなかったのだ。

 礼縁局が探していて、鍵守寮も追っていて、橋の真ん中で綻びを生むほど濁った鍵。

 圭介は礼縁局の役人たちをそれ以上見もせず、ゆかりへ向き直った。

「家は」

「え?」

「送る」

「結構です」

「また綻びが出る可能性がある」

「それは」

「ある」

 断言されると弱い。しかもついさっき、橋の上に穴が開いたのだ。強がって一人で帰って、路地の錠前からまた黒い裂け目が出たら目も当てられない。

 ゆかりは香箱を抱え直し、渋々うなずいた。

「……じゃあ、橋を下りるまで」

「家までだ」

「なんで勝手に増えるんですか」

「橋を下りた先にも鍵はある」

「うわ、やめてください急に都じゅう怖くなるようなこと言うの」

 人垣の向こうで、誰かがくすりと笑った。

 けれど、圭介は本気らしい。そういう冗談の通じなさが、かえって変だった。

 二人で橋を歩き出すと、さっきまで見えていた夕暮れが、少し違って見えた。欄干の飾り穴も、荷車の錠前も、蔵の戸口も、みんな何かの入口になり得るのだと思うと、都そのものが大きな仕掛けの中にあるみたいだ。

「ねえ」

 ゆかりは前を向いたまま口を開いた。

「さっきの花嫁、あれは本当にいた人なんですか」

「いた」

「助けられなかったんですか」

「過去そのものは救えない」

 答えはあっさりしていた。

「だが、濁りが今を壊すなら、閉じることはできる」

 それだけ言って、圭介は足を止めない。

 ゆかりは胸の奥で、その言葉を転がした。

 過去そのものは救えない。でも今を壊すものは閉じられる。

 それは慰めにはならないくせに、嘘でもなかった。

「あなた、そういう言い方ばっかりなんですか」

「どういう」

「やさしくない言い方」

「甘い言葉のほうがいいか」

「そういう意味じゃなくて」

 言いかけて、ゆかりは口を閉じた。

 甘い言葉ほど信じられないくせに、と、自分で自分へつっこみたくなる。

 圭介からは匂いがほとんどしなかった。人が発する感情の気配が、なぜか薄い。怒っているのか、呆れているのか、内心で笑っているのか、その輪郭がうまく掴めない。こんなことは珍しい。初めて会った相手なのに、匂いだけで測れない。

 そのことが少しだけ不気味で、少しだけ気になった。

 橋を下り、水路沿いの路地へ入る。夕飯どきの匂いがあちこちの家から漂ってくる。焼いた魚、出汁、炊きたての米。人の暮らしの匂いに混じると、さっきの綻びの残り香もようやく薄れてきた。

 藤代香舗は、路地を二つ曲がった先にある。格子戸の上から、干した香草が束になって下がっているのが目印だ。店先の灯が見えてくると、ゆかりはようやく肩の力を抜いた。

「ここです」

 言ってから、礼だけはきちんと言っておくべきだと思い直す。

「……あの、さっきは助けてくれてありがとうございました」

「礼は要らない。巻き込まれたのは職務の範囲だ」

「そこで一言、どういたしまして、くらい言えないんですか」

「どういたしまして」

「言わされてる感じがすごい」

 圭介は首をかしげた。本気で何が悪いかわかっていない顔だ。

 ゆかりは半分呆れ、半分だけ笑いそうになる。

 そのとき、店の格子戸が内側から勢いよく開いた。

「ゆかり? 遅いと思ったら――」

 顔を出したのは、店の手伝いをしている母代わりの女中頭だった。ゆかりの後ろに立つ黒羽織の男を見るなり、目を丸くする。

「……どちらさま?」

 問われるより早く、圭介が一歩前へ出た。

「鍵守寮の雨宮圭介です」

 名乗りのあと、彼は一切ためらわず続けた。

「藤代ゆかり殿に、頼みたいことがある」

 店の奥で何かが落ちる音がした。たぶん、帳場で算盤を弾いていた父だ。

 ゆかりは嫌な予感に背筋を硬くする。

「何を」

 自分で訊ねたくせに、答えを聞きたくなかった。

 圭介は夕暮れの名残を背に受けたまま、淡々と言った。

「あなたに、婚約者役を頼みたい」

 一瞬、路地の音が全部消えた気がした。

 店の中から父の咳き込みが響き、女中頭が「はあ!?」と裏返った声を上げる。隣家の犬まで一拍遅れて吠えた。

 当の本人だけが、茶を頼むみたいな口調で立っている。

「……は?」

 やっとのことで絞り出したゆかりの声は、自分でも驚くくらい低かった。

「こんなの、ありえないんですけど」

「そうか」

「そうか、じゃないでしょうが!」

 香箱を抱えたまま叫ぶと、店の奥で今度は本当に誰かが転んだ。

 圭介は微動だにしない。ただ、その目だけが真っ直ぐこちらを見ていた。橋の上で綻びを閉じたときと同じ、無駄のない目。

「詳しい話をしたい」

 彼は言った。

「今日、橋で見つかった縁鍵は、おそらく最近の婚礼破談と同じ流れにつながっている。礼縁局も探している。だが、あれを追うには、おまえの力が必要だ」

 礼縁局、という言葉に、ゆかりの鼻先へまた細い棘みたいな匂いが戻る。橋の上で嗅いだ、あのよそよそしい役人たちの気配。

「公務として娘を同行させれば、外聞が悪い」

 圭介は続ける。

「婚約者としてなら、そばに置ける」

 あまりにも理屈だけで組み立てられた物言いに、ゆかりは頭痛を覚えた。

 橋の上で穴が開いて、見知らぬ男に助けられて、その数刻後には婚約者役を頼まれている。夕暮れの匂いも、店先の香草も、急に現実味を失っていく。

 ありえない。

 ありえないのに。

 橋の欄干に置かれていたあの縁鍵の匂いだけは、まだ鼻の奥に残っていた。泣けなかった花嫁の匂い。置いていかれたまま、今もどこかで誰かを絡め取ろうとしている濁り。

 逃げたほうがいい。

 そんなことに関われば、面倒しかない。

 わかっているのに、胸の奥のどこかが、橋の上で聞いた泣き声をもう一度思い出していた。

 圭介は返事を急かさなかった。ただ、格子戸の前で静かに立っている。

 夕暮れはもう終わりかけていた。水路の向こうで灯が一つ、また一つとともる。都じゅうの家の戸口に鍵があり、婚礼の品に鍵があり、誓いにも鍵がある。そのどこかに、今日の綻びと同じものがまだ潜んでいる。

 ゆかりは香箱を抱く腕に力を込めた。

 こんなの、どう考えたってろくでもない。

 なのに、胸のどこかで、歯車がひとつ動いてしまった気がした。

【終】