今日もまぁまぁ悪くない、体育はないし気にすることがないのも頭痛がしない要因だけど。
英語の授業は先生が教科書を読むリズムがなめらか過ぎてちょっと眠くなる、出そうになるあくびを堪えてとりあえずちゃんと聞かなきゃって…思ったけど、何気なく窓の外を見たらキラッと光る金色の髪が見えたから。
ここは2階、そんでもってここから見える景色は中庭。
もちろん金髪の正体は九重先輩だ。
…何してんだ?
花壇に向かって座り込んで…あ、水やりしてるのか。ホースじゃなくてジョウロ使って、ジョウロで水やりすることもあるんだ。
「……。」
いや、授業受けろよ。めっちゃくちゃ授業中だからな。
本当自由にやってるんだな、なんて。
****
「なぁなぁ~!俺、部活対抗リレーに出ることになったんだ~!!」
授業が終わると柾哉がるんるんで話しかけて来た。見るからに嬉しそうでご機嫌だった。
「よかったじゃん」
「アンカーではねぇーけどな~」
「選ばれただけすごいじゃん」
各部活ごと代表者が走る部活対抗リレーは全種目が終わった一番最後に行われる競技で結構盛り上がる、って言ってた柾哉が。
自分の部活対抗だもんな、運動部とかは特に気合い入りそうだしまぁ盛り上がるんだろうな~とは思う。
「藍はどこ応援すんの?俺の陸上部?」
「…どこもしない、応援するとこないし」
そう、気合い入る理由がないから俺には。
「お気楽帰宅部は走らねぇーのか」
「悪かったなお気楽で、しかもそれ俺しかいないからな!」
入ってないから、部活に。帰宅部は部活じゃないし。
「うちの学校は部活必須なのに免除されてんの藍ぐらいじゃねぇの?」
「…たぶんね」
「運動部は無理でも文化部とか入りゃよかったのに」
「……。」
ドカッと前の席に座る、そこは柾哉の席じゃないけど柾哉はそんなこと気にしない。
「文化部ならできたんじゃね?」
…出来る、かどうか自分でもよくわからなくて入らなかった。
中学の頃、結局途中で部活をやめることになったから。高校生になって先生に話したら特別対応で入らなくてもいいって言われたし、だったらもういいかなって…みんなに迷惑かけるのも嫌だし。
「あ、そうだ!」
部活で思い出した、ちょっと気になることがあって。
「うちって書道部ってあったっけ?」
九重先輩のこと。
緑化委員なのはわかったけど、部活は何してるのかなって…あんな自由にしてる人が部活やってるとは思えないけど、一応部活必須だし。
「え、そんなんあったっけ?なくね?」
「やっぱりないよな、俺の記憶にもなくて」
どうしても気になった。
「なんで?藍、入りたいわけ?」
「別にそうゆうわけじゃないけど…」
“緑化委員募集中”の文字が、ずっと頭から離れない。ずっと見ていたいような、そんな文字だった。
「でも向いてんじゃね?」
「え?」
「まぁ書道部は書く方がメインとは思うが」
「?」
きょとっとする俺の方を見て、頬杖をついて首を傾げる。
「だって藍、人の字見るの好きじゃん」
柾哉がじっと見るからなんて言おうかなぜか迷って息を飲み込んでしまった。
「え、違う?」
「あ、いや…」
そんな話、柾哉にしたことなかったと思うけど…
そんなこと、誰にも言ったことないのに。というか、そんな風に思われてたのか。
「自分はうまくもねぇのに」
「柾哉に言われたくねぇよ!」
****
“緑化委員募集中”って…
他に人欲しいとは思ってるんだな。
ついついここを通ると立ち止まってしまって、ポスターを見入ってしまう。
お昼休み、トイレから戻って来る廊下の途中で足を止めた。何の変哲もない真っ白な紙にサラッと筆で書かれた文字はシンプルなのによく目立って。
…緑化委員感はないけど、ここはもっと緑を使うとか花とか植物の写真やイラストを使った方がそれっぽくない?これじゃ何委員わかりづらいだろ、めっちゃ緑化委員って書いてあるけど。
「……。」
何度見てもキレイな字だな、達筆って言葉だけじゃもったいないくらい整ってて。
これを書いたのがまさかあの九重先輩だったとは…
「おい」
「うわっ!」
見入ってしまって、背後にいた九重先輩に気付かなかった。
「入るのか?」
「はっ、入りません…!」
そんなつもりで見てたわけじゃないけど、全然足音も気配も感じなかったからびっくりした。
全然やましいことなんかしてないのに見付かって面食らったみたいにすごい動揺して…ズキンッて頭が揺れた。
あ、やばい。衝撃が頭に伝わって、ぎゅーって押し潰されそうになる。
「…っ」
そのまま頭を抱えてしゃがみ込んだ。うぅ~って微かに唸りながら。
「どんだけ虚弱なんだよ」
「そうゆう体質なんですよ!」
しゃがみ込んだ九重先輩が気だるそうに言い放つから、痛みのことより言いたいことのが勝っちゃって間髪入れず答えてしまった。
またズキズキと痛みが増していくのはわかってたんだけど、言い返したい時もあるんだよ俺にだって。
「別に好きでこんな体質なわけじゃ…っ」
俺だって、こんな毎日好きで繰り返してるわけじゃないんだよ。
「緑化委員入るか?」
「だから入りませんって!」
マジで会話する気ないし、俺の話全然聞いてないじゃん。いいけど、話聞いてほしいとか思ってるわけじゃないし。
はぁ~っと少しでも痛みが軽くならないかなと思いつつ壁を支えにしてのっそり立ち上がった。
そしたらまた目に入っちゃって、この字が。
「…習字とかやってたんですか?」
「は?」
眉間にしわを寄せながら九重先輩も立ち上がった。
髪もピアスもそうだけど、普通に背が高いことも要因で結構な威圧感がある。たぶん柾哉よりちょっと低いぐらい、だから見上げるだけでも頭に響くよなって。
「字、すごくキレイですよね」
「……。」
「…。」
「……。」
顎に手を当ててう~んと顔をしかめた、やたら何か悩んでるみたいな素振りで。
え、俺そんな変なこと言った?なんなら褒めたつもりだったんだけど…
「…字で興奮する系?」
「そんなんじゃないですよ!どんな思考回路してるんですか!?」
あ、やばい。また大声出しちゃった。
この人といるとなんか叫んじゃってよくない。
「言い方が気持ち悪りぃ」
「そうですかっ!それはすみませんでしたね!?」
語尾にイラッと感が含まれた、抑えきれなかったイラッとが出てしまった。不快そうな顔に思わず抑えきれなくて。
「じゃあ失礼しました!」
フンッと鼻を鳴らして九重先輩に背を向けた、もう教室に戻ろう授業も始まるし。
九重先輩みたく授業サボるとかありえないから。
「おい」
呼ばれても知らないし、そんな低い声で言われても…
「緑化委員は募集中だ」
「だから入らないって言ってますよね!?」
つい振り返ってしまった自分が憎い。
****
「はぁ~~~…」
息を吐けば吐くほど重くなる、これから午後の授業だっていうのに。
「藍、どーした?」
「柾哉…」
教室に戻ると柾哉がもう次の授業の準備をしていた。
確か次は音楽で音楽室に移動しなきゃ…今から音楽か、響くな頭に。
げんなりした俺を見て、柾哉が人差し指を自分のこめかみにこつんっと当てた。
「いつもの?」
この言わなくてもわかるこの何の得もしない以心伝心が凹むけど、言わなくて済むのはちょっと助かったりもする。なるべく喋りたくないし、少しでも振動を少なくしたいから。
「まぁいんじゃね?次音楽だし、その次の物理はなんか映像見るって言ってたし」
「……。」
よくはないけど、あっけらかんとする柾哉は普段授業を休むことがないから言えることで。
「そんで、明日の朝イチは体育だしな~!」
朝からの体育だって何とも思ってない、きっと。
毎週金曜の朝は体育から始まる時間割りで、朝の目覚めによって決まるイチかバチかな日だったりする。
だから今日は早く寝て、体調どうにかするかな…今ならそこまでひどくなってないし、まだ薬はあるから病院行かなくてもいいし。
「明日の体育は出れるようにするよ」
それまでには、どうにか。
「え、なんで?」
「なんでって…体育祭の種目決めなんじゃないの?」
こないだ延期になったって言ってた、タイム計って早い順に出る種目決めるってやつ。
それには参加しとかないと、当日出る種目ないし…
「どうせやんなくても変わらなくね?」
ズキンッ、と痛む。
頭じゃなくて、心がズキンッって言った気がした。
柾哉の目は曇りなく、なんの疑いもなく透き通った目で見ていた。
「体育祭出ないんだろ」
まるで俺が間違えたみたいに。
ドクンドンクンと脈を打つ音が聞こえる、いつもは頭の中で聞こえてる音が今は体中めぐってるみたいで。
あ、なんだコレ?これは、どんな状態って言うんだろう…
胸が苦しい、締め付けられて苦しい。頭痛がした時よりも苦しい。
「そ、そうだな…」
でも脳からすぐに支持が出されたから、笑わなきゃって。
たぶんここは笑っておかなきゃいかないところだって…だっておかしいのは俺の方だから、みんなみたいに出来ない俺の方だから。
「今日はもう帰んの?」
「………うん」
出ないって決めてるわけでもなくて、出たくないって思ってるわけでもない。
でも俺は最初からそこにさえいない。
****
教科書をスクールバッグに詰め込んでみんなが授業をしているのを横目に少し俯きながら廊下を歩いて、そのまま階段を下りたら下駄箱でスニーカーに履き替える。
そしたら迎えに来てくれるのを待つ…んだけど、どうしてか帰りたくなくて。ぎゅーっと締め付けられる重い頭はどんどん沈んでいきそうになるのに、迎えに来てって言いたくなかった。
「……。」
でも、教室にいるのも嫌で。
保健室はもっと嫌で。
俺に行くとこなんかないのに。
…だから人生初めて普通にサボった。これは俺的に快挙だ。
風が吹けば涼しい日陰、校舎の壁にもたれながら息をひそめるように1人物思いに吹けながら…
誰もいないと思っていた裏庭で。
「…。」
「……。」
「…。」
「…何してるんですか?」
しびれを切らして俺の方から話しかけちゃったじゃないか、なんでも黙々と作業続けられるんだよ人が体育座りして丸くなってる隣で!
「…字フェチ」
「その言い方やめてもらっていいですか!」
あーっ、なんでこう強く言っちゃうかな~!?やめときゃいいのに止められなくて…
「草取り」
「草取り…?」
「緑化委員の仕事だ」
「…授業中ですよ?」
なんでそこは真面目なんだよ、金髪ヤンキーのくせに肩にタオルかけて草取りって似合わな過ぎるだろ。
花の周りに生える細かい草を丁寧に取って、花を傷付けないように手で土を触って、汚れることも気にしないで。
汚れてもキレイな顔した人だなとは思うけど、一般的に。
でもこの変わり者じゃ誰も寄り付かなそうだし。
「虚弱体質」
「…ほっといてください」
「頭痛」
「そんな簡単には治らないんです」
「神経質」
「というか単語だけで喋るのやめてもらえますか!?」
ダメだ、余計頭痛がひどくなる気しかしない。
やっぱ帰るかな、こんなとこいたってしょうがない…
「授業は?」
少しだけ顔を上げた、本当はもう帰ろうと思って顔を上げたんだけど。
「真面目に授業受けるんだろ」
「……。」
俺のことなんか見てもないのに、俺のことを聞いてくるから。ひたすら草だけを抜いて、たまにふぅっと息をついて。
「…受けたくても受けられない時もあるんです」
こんな話、九重先輩にする話じゃないのに。
でも九重先輩からふわっと香る花の香りは優しくて。
「お前めんどくさいな」
イラッとはするけど、ものすごく…!
それは絶対あんたに言われたくないやつ!!
「わからないと思いますよ、こんな悩みないでしょうからね!」
自由にやってる九重先輩には、到底わからないよ。
勝手に委員会作って、受けたくないから授業サボって、こうやって草取りしてる人にさ…どうしたって伝わらない話だ。
「話せよ」
「…はい?」
「話せ」
「あの、何を…?」
「お前のことだよ!」
……。
キリッと眉を上げて鋭い眼光は新手のカツアゲかと思った。
人の話聞く態度じゃなさ過ぎる、しかも俺のこんな話を…でも聞いてくれるのも九重先輩しかいなくて。聞いてくれるんだって、散々聞いてなかったくせに。
めちゃくちゃだけど本当何言ってるんだって思うけど、意外と悪くなくて今の俺にはちょうどよかった。
「…子供の頃からそうなんです」
だから静かに深呼吸をして、少しだけ前を向いた。
「天気によってもそうなんですけど、あとはたぶんストレスとかもあるっぽくてちょっとでも痛くなるとどうしようって思ってさらにひどくなるとかもあって…」
九重先輩は特に相槌をするわけでもなく、俺の方を見るわけでもなく、ただ手を動かしていた。
「小学校の3年生ぐらいまではまだよかったんですけど、そこから頭痛が増えて中学ん時が1番大変で全然学校行けないとかもあって…」
だから中学の行事の思い出はほとんどない、体育祭はあたり前に遠足とか修学旅行とか行っても結局先生のところにいる方が多くて。
「最近は薬のタイミングとか自分でもわかってきたんでまだどうにかなってる方なんですけど…」
やっとみんなに近付けたかなって思ってた、でも実際は全然遠くて少しも普通にはなれない。
どんなにちゃんとしてても、どんなにがんばってても…どれだけ真面目にしてても叶わないことが多過ぎる。
「だから…っ」
泣きたくないんだけど、ここで泣いたら惨めなだけなのに。そんなことで泣くんだって、呆れられるだけなのに。
九重先輩の前でなんか、泣きたくない。
そう思って顔を伏せた、立てた膝の上に埋めるように。
「お休み連絡カードを見るのが唯一の楽しみだったんです」
学校を休んだ人に今日の出来事や明日の連絡を書く“お休み連絡カード”はクラスメイトからのメッセージの欄があった。日替わりで毎日3人ぐらいのメッセージが書かれてて、それをいつも幼馴染の柾哉が届けてくれた。
「…たぶん、めんどくさいって思われてたかなって思うんですけど」
早く元気になってねとか、明日の給食はプリンだよとか、当たり障りないこともたくさんあったけど白紙の日はなくて。
殴り書きの文字や何度も書き直した文字、はらいまで丁寧な文字を探すように眺めてた。
楽しかった、これを書いたこの人はどんな人なんだろうって想像するのが。
「みんなの書いた字を見るのが楽しかったんです」
俺のために書いてくれたんだと思うと嬉しかったから。俺にとっての1番の思い出だから。
「それぐらいしか友達と繋がれる場所がなかったんで」
だから、あの字を見た時思わず立ち止まってしまったんだ。
ひと目惚れだった、字を見てひと目惚れなんてあるのかって思うけど。
あの字を書いた人はどんな人なんだろうって。
「字フェチ」
ずっと黙ったままだった九重先輩が口を開いた、花たちもびっくりするような低音で。
「…あの」
「字フェチ」
「……。」
顔を上げちゃったじゃないか。
話聞いてました?だからそれには理由があるって…っ
「穴が開くかと思ったわ、ポスターに」
「…はい?」
額から流れる汗をタオルで拭いて、ふぅっと息を吐いた。
「見過ぎなんだよ」
「え…、気付いたんですか!?」
「お前くらいしかいねぇし、あれ見てんの」
「…。」
眉間にしわを寄せて厄介そうに、俺の方見てくる。
「やべぇ奴だなって焦った」
「…。」
本当この人にだけは言われたくないけど。どう考えてもやばいのは俺じゃなくてそっちでしょ。
「でもまぁ、あれ見てる奴もいるんだなぁーって思ったわ」
はぁ~っと息を吐きながら空を見た。
しゃがみ込んだまま、ヤンキー座りが似合い過ぎてこれが花壇の草取り終わりとは思えない。
「…どうゆう意味ですか、それ」
「別に」
パンパンッと手を払って立ち上がった、だからつられて九重先輩を追うように見上げちゃって。
眩しかった、太陽の光で反射する金色の髪が。
―キーンコーンカーンコーン…
あ、5限目の授業が終わった。
まるっと1時間サボってしまった、ずっとここで話を聞いてもらってたら…
「…ってどこ行くんですか!?」
やばっ、勢いよく立ち上がったら頭が…っ
「終わった」
「……。」
今のは授業が、じゃなくて草取りだ。
フラついて壁に手をついてぜぇはぁしてる俺なんて見えてないみたいに草でいっぱいになったゴミ袋を結んでる。
いや、いいけど手を貸してほしいとか思ってるわけじゃないからいいけど…ちゃんとゴミも片付けるんだなって関心しただけで。
「お前は?」
「はい?」
「…。」
「あ、俺は…帰ります」
もういい加減帰るかって思えてきた、なんかスッキリした気もするし頭は重いけど気持ちが。
「不真じっ」
「明日朝イチ体育なんです!」
ケッと吐き捨てる九重先輩に被せた、これはサボりじゃなくて明日に備えるための準備だから。
「…体育祭の種目決めテスト出たいんで、…体調整えたいんで」
ふぅーっと長めに息を吐いて、自分に大丈夫だって言い聞かせながら地べたに置いてあったスクールバッグを手に取った。
出来ないかかもしれないし、出られないかもしれないけど、明日のことは明日にならないとわからないし。
「真面目」
「普通ですよっ!」
やっぱり諦めたくないじゃん、自分のこと。
****
「藍、おっはよ~!」
「おはよう、柾哉テンション高くない?」
下駄箱で会った柾哉と話しながら教室へ向かう階段を上る、柾哉の足は軽くてポンポンと進んでいった。
「朝から体育だしな!」
そっか、柾哉からしたら朝から体育は嬉しいことなんだ。朝から体育はさすがに憂鬱かと思ってた。
「体育祭種目決めだし!」
「…そうだね」
たぶんこっちがテンション上がってる理由だな、柾哉は小学校の頃から学校行事は張り切るタイプだったし。
「どーせならクラスリレーも出たいんだよな~!」
そのテンションのまま盛り上げるし、俺はそれを遠くから見てることしか出来なかったけど。
「藍は?体育どーすんの?」
「…出るよ」
出る、じゃないと始まらない。
そのために昨日早退したんだ、今日のために。
「いいんだ?朝から走っても」
「あぁ、朝から走っちゃダメなんてことはないから」
朝から頭痛が始まったら1日中頭痛って弊害があるだけで、朝から運動がダメなわけじゃない。
だから朝から体育は警戒してただけで、それがよくないってわけじゃ…
「なんでそんな出たいの?」
前を上っていた柾哉が振り返った、ぱちくりした目で俺を見て。
「なんでって…」
「なんかやたらやる気じゃね?そこまでして出たいのかと思って」
それは…
柾哉だってやる気じゃん、部活対抗リレーに出ることも嬉しそうに報告してきたしクラスリレーだって出たいって。
どうして俺は違うみたいな、そんなの…
言われるたびすり減っていくように思ってた気持ちを声にして、そんな俺でもやってみたいことがあるんだよ。
「高校入って初めての行事だから」
ぐいっと顔を上げた、下は見ないようにグッと力を入れて。
「ずっと諦めてきたから」
それはきっとささやかで、みんなにとったらあたりまえの日常で。
「高校入ったら見てるだけじゃなくてやりたい、俺も」
それが全然手の届かないところにあるみたいに遠かった。
だから無理だと思って諦めてきた、どうせ出来ないからって。
でもみんなからもらったお休み連絡カードは楽しいことしか書いてなかったから。
いつか俺も、その中に入ってみたくてー…
「藍はやりたくないのかと思ってた」
パチッと目を丸くした柾哉が驚いたような表情をした。
え、なにその反応?わっかりやすく2回も瞬きしたんだけど。
「なんだよ、やりたいのかよ!」
「は?え?何…」
「なんだよ~~~!やりたいのかよ~~~~!」
「いや、だから…っ」
タタッと階段を下りてきた将哉ががしっと肩を組んできた。あまりの豪快さによろけるかと思った。
「よし、じゃあ優勝目指そうな!」
「え?」
ニカッと大きな口を開けて笑って。
「俺、藍はこーゆうの嫌いなんだって思ってた!」
「嫌いなわけじゃ…」
「実は好きだったのか~!」
「好きってわけでも…?」
「え、じゃーなんだ~??」
「なんだって…」
みんなの輪の中に入りたい、ってそれだけなんだけど。
なんかそれを言うのは恥ずかしくて。
「まぁいいか!なんでも!」
「よくないだろ!?」
ツッコんじゃったじゃないか、朝から運動もあれだけど大声もよくないんだからな。
「藍が体育祭楽しみ~♬って思ってんならよかったよ」
そんな俺より大きな声なんだけど、柾哉は。
今度はタタタッと階段を駆け上がって、1番上まで上って振り返る。
「藍には負けねぇ!」
俺を指さして。
「絶対負けるよ!俺が柾哉に勝てるわけないだろ!」
まぁなんか楽しそうで、すごく。
ふって声が漏れた、笑いたくなって俺も。
柾哉はそうゆう奴だからな、だから毎日文句も言わずお休み連絡カードを持ってきてくれたんだ。ピンポンよりでかい声でさ。
だからがんばろう、早くジャージに着替えてグラウンドに行かなくちゃ。
「……。」
…と、思ったんだけどさ。
き、緊張する~~~~…!
なんだこの緊張感は、走るだけなのになんでこんな心臓バクバクしてんだ意味がわからない…っ
ホームルームが終わってジャージに着替えた。
あとはグラウンドに行くだけなのに、急な不安がえぐい。
やばいな、頭痛はストレスも関係してるからこうやって気持ちが下がるだけでも…
「藍!早く行こうぜ!」
「あ、うん…!」
「…大丈夫か?なんかっ」
「大丈夫!全然大丈夫!!」
うんっと大きく頷いた、人から言われたら余計そんな感じになるからここはそうやって治めておくしか。
「だから先言ってて、トイレ寄ってから行くから!」
とりあえず深呼吸して、自分で自分を落ち着かせて、今更休む気なんかないんだから…
たぶん、ちょっと弱気になるけどたぶん。
頭痛とかしてないしてない、ちーっともしてないから…
「……。」
し、してないってことにしとく…!
本当は少し締め付けられた額を、気付かないフリして下駄箱へ向かった。
もうすぐ授業のチャイムが鳴る、早く俺も行かないと…
「ん?なんだコレ」
下駄箱を覗いたら朝はなかったはずの…水筒?誰か間違えて入れたのか?結構使ってあるっぽい黒色の水筒だけど…
それと小さな紙切れが入っていた。
なんか書いてある、なんて…
“字フェチへ”
この字は紛れもなくあの字で、何度も立ち止まっては見ていたあの字だった。
「…だから字フェチじゃないし」
“頑張れ”
そう一言書いてあった。
それは背中を押してくれるような、九重先輩の思いが伝わる字で。
勝手に頬が緩んで胸が熱くなって、水筒の蓋を開ければふわーっと爽やかな香りが広がって。一口飲んだら、もうそれだけでふわっと頭も心も軽くなる気がする。
「…よし、がんばるか」
大丈夫、走れる。今の俺ならきっと、大丈夫。
「藍!」
「ギリだった!」
「ギリだからセーフじゃん、ちょうどチャイム鳴ったとこだし」
鳴り終わりそうなところでギリギリ滑り込んだ、テストの前から走っちゃったけど今はいつになく気分がよくてまだ走れそうな気がしてた。
授業開始のストレッチだっていつもより楽に感じてるし、ひゅーっと体を纏う春風は心地いいし。
スカイブルーの空に向かってんーっと手を伸ばした。
さっきの緊張がちょっと落ち着いて来たかも、ドキドキはしてるけどこれは…うん、悪くない。
走るの楽しみって思えてる。
テストは名簿順で2人ずつ、最後の俺はみんなが走り終えたからの出番だけど…
「柾哉早過ぎ」
すでに順番が来た柾哉は遠くの方でガッツポーズをしてた。記録よかったんだ、だいぶ差をつけてのゴールだったもんなあれはきっとリレーの選手に選ばれるな。
「……。」
俺もがんばらなくちゃ、柾哉ほど早く走れはしないけど柾哉に負けないぐらい早く走れるように。
いよいよ俺の番になる、最後だからみんなに見られてまた緊張は増してきたけど…深呼吸をして思い出して、あのハーブティーの香りを。
「位置についてっ!」
先生の声と共に息を整えて真っ直ぐ前を向く。
「よーい…ピーッ!」
勢いよく吹かれた笛の音を聞いて大きく一歩踏み込んだ。
そのまま力いっぱい足を動かして、ゴール一直線に思いっきり走り抜けるイメージで。
足だけじゃない、手も体全部をも使ってはぁはぁと必死に息をしてまだ遠いあの先まで絶対行くんだって気持ちで走った。
あと少し、まだ少し、はやる気持ちを止められないまままた一歩踏み込…っ
「…っ!」
んだつもりだった、グッと踏み込んだつもり…
「藍~!?大丈夫かぁーーーーーっ」
踏み込んだはずだった足がもつれて思うように踏み出せなくて、転んだ。思いっきり転んだ。
前に飛び出すみたいに体まるごと…
は、恥ずかし過ぎる…!
なんだこの子供みたいな転び方は、柾哉の呼ぶ声がグラウンド中に響き渡ってるのも恥ずかしい…っ
で、でも走らなきゃ!とりあえず走り切らないと、このまま転んだままなのも耐え切れない…っ!!
****
「…失礼しました」
はぁっと肩まで落ちる息を吐いて保健室から出て来た。
しょっちゅう来てる保健室だけど、転んだ手当てをしてもらうのに来たのは初めてで南野先生もびっくりしてた。
いや、俺もびっくりしてるからこんな派手にいくと思ってなくて下はハーパンだったせいでズルッといってるし、結局体育途中で抜け出すことになるとか。
「…ダサ過ぎだろ」
あたりまえだけど記録はなし、最後まで走ったとこであの記録じゃ何にも引っかかるものがないし。
マジで最悪、みんなに心配されてゴールすんの恥ずかし過ぎた。
「はぁ~~~…」
歩く気力をなくしてその場にしゃがみ込んだ。ズキズキ痛む足を抱えるように顔を伏せて。
これなら休んだ方がよかったかもしれない。
だってこんなの体育祭に出たとこで何の役にも立たないし、邪魔なだけだし、迷惑かけるだけだし…
何が体育祭に出たいからだよ、最初から出る意味なんてないじゃないか。何にも出来ない俺なんて。
「……。」
ふと感じた、誰もいないはずの廊下に誰かいる。
誰かが俺の前に立っている、でも顔を上げないでもなんとなくわかってしまった…ほのかに香ったハーブの香りで。
「……。」
「…見てたんですか?」
「あぁ」
授業中だろ、授業受けろよなんでこんなとこにいるんだよ。
それともなんだ?何か言いに来たわけ?わざわざ俺に何か…
「笑っていいですよ、九重先輩」
しんっとする廊下に香るハーブは瞳をじわっと刺激する。
「…小学校の時はもっと走れたんですよ!結構早かったし、リレーだって出たことあるし、もっと走れたし…っ」
でも今日は違った、早く走らなきゃって思っても思うように足がついてこなくて気持ちばっかり先走って体が置いてかれてた。
それが何よりショックだった。
俺の記憶はあの頃のままなのに、現実は知らないうちに変わってた。
「…こんなに衰えてたとは思いませんでした」
ずっと休んでたから、走ることから遠ざかっていたから…
そっか、もう俺はあの頃みたいに走れないんだなってゴールが見えなかった。
だからもういっそうのこと笑ってください、こんな惨めな俺を思いっきり…
「笑わねぇよ、真面目にやったんだろーが」
いつもめちゃくちゃなのに、授業も受けないでこんなとこいるぐらいなのに。
目つきは怖いし声は低いし、強引だし人の話聞いてるのか聞いてないのかわかんないし、喋る気があるのかもわかんなくて…
でもどこかほっとする、そんな人なんだよ九重先輩は。
だってあの字は凛として温かいから。
あれはひと目惚れだった。
字に対してひと目惚れとかあるかわかんないけど、でもどんな人が書いたのか知りたかった。
ジャージの袖で顔を拭いてゆっくり立ち上がる、ハーパンのポケットから取り出した紙切れを九重先輩に見せながら。
「なんでそんな字上手いんですか」
「知らん」
「習字習って」
「ない」
「じゃあっ」
「上手くねぇよ!」
「いや、めちゃくちゃ上手いんですけど…!」
つい聞きたくなっちゃって顔を上げた、ずっと俯いてたから眩しくて。
金色の髪が微かに笑ってた。
「……。」
この人、笑うことあるんだ。
笑ったとこなんか初めて見たけど、しかもそんな顔で笑うのかー…
名前通り爽やかじゃんとか、思ったり。
「名前は?」
「え?」
「お前の?」
「俺の…?」
スッと指さした、俺が持ってた紙切れを。
「字フェチ」
「……。」
いやから字フェチじゃないけど!
そりゃ見るのは嫌いじゃないけど好きだけど、字フェチでは…!
あと相変わらず単語しか言わないし。
「由木藍士、です」
九重先輩の目を見て答えた、いつもはビクビクしてるけど今はそんなことなくて。くすって笑う声が聞こえたから。
「藍士」
…いや、名前の呼び捨てかよ。
いきなり名前の呼び捨てって…いいけど、別になんでも。
「ハーブティー、飲みに来いよ」
英語の授業は先生が教科書を読むリズムがなめらか過ぎてちょっと眠くなる、出そうになるあくびを堪えてとりあえずちゃんと聞かなきゃって…思ったけど、何気なく窓の外を見たらキラッと光る金色の髪が見えたから。
ここは2階、そんでもってここから見える景色は中庭。
もちろん金髪の正体は九重先輩だ。
…何してんだ?
花壇に向かって座り込んで…あ、水やりしてるのか。ホースじゃなくてジョウロ使って、ジョウロで水やりすることもあるんだ。
「……。」
いや、授業受けろよ。めっちゃくちゃ授業中だからな。
本当自由にやってるんだな、なんて。
****
「なぁなぁ~!俺、部活対抗リレーに出ることになったんだ~!!」
授業が終わると柾哉がるんるんで話しかけて来た。見るからに嬉しそうでご機嫌だった。
「よかったじゃん」
「アンカーではねぇーけどな~」
「選ばれただけすごいじゃん」
各部活ごと代表者が走る部活対抗リレーは全種目が終わった一番最後に行われる競技で結構盛り上がる、って言ってた柾哉が。
自分の部活対抗だもんな、運動部とかは特に気合い入りそうだしまぁ盛り上がるんだろうな~とは思う。
「藍はどこ応援すんの?俺の陸上部?」
「…どこもしない、応援するとこないし」
そう、気合い入る理由がないから俺には。
「お気楽帰宅部は走らねぇーのか」
「悪かったなお気楽で、しかもそれ俺しかいないからな!」
入ってないから、部活に。帰宅部は部活じゃないし。
「うちの学校は部活必須なのに免除されてんの藍ぐらいじゃねぇの?」
「…たぶんね」
「運動部は無理でも文化部とか入りゃよかったのに」
「……。」
ドカッと前の席に座る、そこは柾哉の席じゃないけど柾哉はそんなこと気にしない。
「文化部ならできたんじゃね?」
…出来る、かどうか自分でもよくわからなくて入らなかった。
中学の頃、結局途中で部活をやめることになったから。高校生になって先生に話したら特別対応で入らなくてもいいって言われたし、だったらもういいかなって…みんなに迷惑かけるのも嫌だし。
「あ、そうだ!」
部活で思い出した、ちょっと気になることがあって。
「うちって書道部ってあったっけ?」
九重先輩のこと。
緑化委員なのはわかったけど、部活は何してるのかなって…あんな自由にしてる人が部活やってるとは思えないけど、一応部活必須だし。
「え、そんなんあったっけ?なくね?」
「やっぱりないよな、俺の記憶にもなくて」
どうしても気になった。
「なんで?藍、入りたいわけ?」
「別にそうゆうわけじゃないけど…」
“緑化委員募集中”の文字が、ずっと頭から離れない。ずっと見ていたいような、そんな文字だった。
「でも向いてんじゃね?」
「え?」
「まぁ書道部は書く方がメインとは思うが」
「?」
きょとっとする俺の方を見て、頬杖をついて首を傾げる。
「だって藍、人の字見るの好きじゃん」
柾哉がじっと見るからなんて言おうかなぜか迷って息を飲み込んでしまった。
「え、違う?」
「あ、いや…」
そんな話、柾哉にしたことなかったと思うけど…
そんなこと、誰にも言ったことないのに。というか、そんな風に思われてたのか。
「自分はうまくもねぇのに」
「柾哉に言われたくねぇよ!」
****
“緑化委員募集中”って…
他に人欲しいとは思ってるんだな。
ついついここを通ると立ち止まってしまって、ポスターを見入ってしまう。
お昼休み、トイレから戻って来る廊下の途中で足を止めた。何の変哲もない真っ白な紙にサラッと筆で書かれた文字はシンプルなのによく目立って。
…緑化委員感はないけど、ここはもっと緑を使うとか花とか植物の写真やイラストを使った方がそれっぽくない?これじゃ何委員わかりづらいだろ、めっちゃ緑化委員って書いてあるけど。
「……。」
何度見てもキレイな字だな、達筆って言葉だけじゃもったいないくらい整ってて。
これを書いたのがまさかあの九重先輩だったとは…
「おい」
「うわっ!」
見入ってしまって、背後にいた九重先輩に気付かなかった。
「入るのか?」
「はっ、入りません…!」
そんなつもりで見てたわけじゃないけど、全然足音も気配も感じなかったからびっくりした。
全然やましいことなんかしてないのに見付かって面食らったみたいにすごい動揺して…ズキンッて頭が揺れた。
あ、やばい。衝撃が頭に伝わって、ぎゅーって押し潰されそうになる。
「…っ」
そのまま頭を抱えてしゃがみ込んだ。うぅ~って微かに唸りながら。
「どんだけ虚弱なんだよ」
「そうゆう体質なんですよ!」
しゃがみ込んだ九重先輩が気だるそうに言い放つから、痛みのことより言いたいことのが勝っちゃって間髪入れず答えてしまった。
またズキズキと痛みが増していくのはわかってたんだけど、言い返したい時もあるんだよ俺にだって。
「別に好きでこんな体質なわけじゃ…っ」
俺だって、こんな毎日好きで繰り返してるわけじゃないんだよ。
「緑化委員入るか?」
「だから入りませんって!」
マジで会話する気ないし、俺の話全然聞いてないじゃん。いいけど、話聞いてほしいとか思ってるわけじゃないし。
はぁ~っと少しでも痛みが軽くならないかなと思いつつ壁を支えにしてのっそり立ち上がった。
そしたらまた目に入っちゃって、この字が。
「…習字とかやってたんですか?」
「は?」
眉間にしわを寄せながら九重先輩も立ち上がった。
髪もピアスもそうだけど、普通に背が高いことも要因で結構な威圧感がある。たぶん柾哉よりちょっと低いぐらい、だから見上げるだけでも頭に響くよなって。
「字、すごくキレイですよね」
「……。」
「…。」
「……。」
顎に手を当ててう~んと顔をしかめた、やたら何か悩んでるみたいな素振りで。
え、俺そんな変なこと言った?なんなら褒めたつもりだったんだけど…
「…字で興奮する系?」
「そんなんじゃないですよ!どんな思考回路してるんですか!?」
あ、やばい。また大声出しちゃった。
この人といるとなんか叫んじゃってよくない。
「言い方が気持ち悪りぃ」
「そうですかっ!それはすみませんでしたね!?」
語尾にイラッと感が含まれた、抑えきれなかったイラッとが出てしまった。不快そうな顔に思わず抑えきれなくて。
「じゃあ失礼しました!」
フンッと鼻を鳴らして九重先輩に背を向けた、もう教室に戻ろう授業も始まるし。
九重先輩みたく授業サボるとかありえないから。
「おい」
呼ばれても知らないし、そんな低い声で言われても…
「緑化委員は募集中だ」
「だから入らないって言ってますよね!?」
つい振り返ってしまった自分が憎い。
****
「はぁ~~~…」
息を吐けば吐くほど重くなる、これから午後の授業だっていうのに。
「藍、どーした?」
「柾哉…」
教室に戻ると柾哉がもう次の授業の準備をしていた。
確か次は音楽で音楽室に移動しなきゃ…今から音楽か、響くな頭に。
げんなりした俺を見て、柾哉が人差し指を自分のこめかみにこつんっと当てた。
「いつもの?」
この言わなくてもわかるこの何の得もしない以心伝心が凹むけど、言わなくて済むのはちょっと助かったりもする。なるべく喋りたくないし、少しでも振動を少なくしたいから。
「まぁいんじゃね?次音楽だし、その次の物理はなんか映像見るって言ってたし」
「……。」
よくはないけど、あっけらかんとする柾哉は普段授業を休むことがないから言えることで。
「そんで、明日の朝イチは体育だしな~!」
朝からの体育だって何とも思ってない、きっと。
毎週金曜の朝は体育から始まる時間割りで、朝の目覚めによって決まるイチかバチかな日だったりする。
だから今日は早く寝て、体調どうにかするかな…今ならそこまでひどくなってないし、まだ薬はあるから病院行かなくてもいいし。
「明日の体育は出れるようにするよ」
それまでには、どうにか。
「え、なんで?」
「なんでって…体育祭の種目決めなんじゃないの?」
こないだ延期になったって言ってた、タイム計って早い順に出る種目決めるってやつ。
それには参加しとかないと、当日出る種目ないし…
「どうせやんなくても変わらなくね?」
ズキンッ、と痛む。
頭じゃなくて、心がズキンッって言った気がした。
柾哉の目は曇りなく、なんの疑いもなく透き通った目で見ていた。
「体育祭出ないんだろ」
まるで俺が間違えたみたいに。
ドクンドンクンと脈を打つ音が聞こえる、いつもは頭の中で聞こえてる音が今は体中めぐってるみたいで。
あ、なんだコレ?これは、どんな状態って言うんだろう…
胸が苦しい、締め付けられて苦しい。頭痛がした時よりも苦しい。
「そ、そうだな…」
でも脳からすぐに支持が出されたから、笑わなきゃって。
たぶんここは笑っておかなきゃいかないところだって…だっておかしいのは俺の方だから、みんなみたいに出来ない俺の方だから。
「今日はもう帰んの?」
「………うん」
出ないって決めてるわけでもなくて、出たくないって思ってるわけでもない。
でも俺は最初からそこにさえいない。
****
教科書をスクールバッグに詰め込んでみんなが授業をしているのを横目に少し俯きながら廊下を歩いて、そのまま階段を下りたら下駄箱でスニーカーに履き替える。
そしたら迎えに来てくれるのを待つ…んだけど、どうしてか帰りたくなくて。ぎゅーっと締め付けられる重い頭はどんどん沈んでいきそうになるのに、迎えに来てって言いたくなかった。
「……。」
でも、教室にいるのも嫌で。
保健室はもっと嫌で。
俺に行くとこなんかないのに。
…だから人生初めて普通にサボった。これは俺的に快挙だ。
風が吹けば涼しい日陰、校舎の壁にもたれながら息をひそめるように1人物思いに吹けながら…
誰もいないと思っていた裏庭で。
「…。」
「……。」
「…。」
「…何してるんですか?」
しびれを切らして俺の方から話しかけちゃったじゃないか、なんでも黙々と作業続けられるんだよ人が体育座りして丸くなってる隣で!
「…字フェチ」
「その言い方やめてもらっていいですか!」
あーっ、なんでこう強く言っちゃうかな~!?やめときゃいいのに止められなくて…
「草取り」
「草取り…?」
「緑化委員の仕事だ」
「…授業中ですよ?」
なんでそこは真面目なんだよ、金髪ヤンキーのくせに肩にタオルかけて草取りって似合わな過ぎるだろ。
花の周りに生える細かい草を丁寧に取って、花を傷付けないように手で土を触って、汚れることも気にしないで。
汚れてもキレイな顔した人だなとは思うけど、一般的に。
でもこの変わり者じゃ誰も寄り付かなそうだし。
「虚弱体質」
「…ほっといてください」
「頭痛」
「そんな簡単には治らないんです」
「神経質」
「というか単語だけで喋るのやめてもらえますか!?」
ダメだ、余計頭痛がひどくなる気しかしない。
やっぱ帰るかな、こんなとこいたってしょうがない…
「授業は?」
少しだけ顔を上げた、本当はもう帰ろうと思って顔を上げたんだけど。
「真面目に授業受けるんだろ」
「……。」
俺のことなんか見てもないのに、俺のことを聞いてくるから。ひたすら草だけを抜いて、たまにふぅっと息をついて。
「…受けたくても受けられない時もあるんです」
こんな話、九重先輩にする話じゃないのに。
でも九重先輩からふわっと香る花の香りは優しくて。
「お前めんどくさいな」
イラッとはするけど、ものすごく…!
それは絶対あんたに言われたくないやつ!!
「わからないと思いますよ、こんな悩みないでしょうからね!」
自由にやってる九重先輩には、到底わからないよ。
勝手に委員会作って、受けたくないから授業サボって、こうやって草取りしてる人にさ…どうしたって伝わらない話だ。
「話せよ」
「…はい?」
「話せ」
「あの、何を…?」
「お前のことだよ!」
……。
キリッと眉を上げて鋭い眼光は新手のカツアゲかと思った。
人の話聞く態度じゃなさ過ぎる、しかも俺のこんな話を…でも聞いてくれるのも九重先輩しかいなくて。聞いてくれるんだって、散々聞いてなかったくせに。
めちゃくちゃだけど本当何言ってるんだって思うけど、意外と悪くなくて今の俺にはちょうどよかった。
「…子供の頃からそうなんです」
だから静かに深呼吸をして、少しだけ前を向いた。
「天気によってもそうなんですけど、あとはたぶんストレスとかもあるっぽくてちょっとでも痛くなるとどうしようって思ってさらにひどくなるとかもあって…」
九重先輩は特に相槌をするわけでもなく、俺の方を見るわけでもなく、ただ手を動かしていた。
「小学校の3年生ぐらいまではまだよかったんですけど、そこから頭痛が増えて中学ん時が1番大変で全然学校行けないとかもあって…」
だから中学の行事の思い出はほとんどない、体育祭はあたり前に遠足とか修学旅行とか行っても結局先生のところにいる方が多くて。
「最近は薬のタイミングとか自分でもわかってきたんでまだどうにかなってる方なんですけど…」
やっとみんなに近付けたかなって思ってた、でも実際は全然遠くて少しも普通にはなれない。
どんなにちゃんとしてても、どんなにがんばってても…どれだけ真面目にしてても叶わないことが多過ぎる。
「だから…っ」
泣きたくないんだけど、ここで泣いたら惨めなだけなのに。そんなことで泣くんだって、呆れられるだけなのに。
九重先輩の前でなんか、泣きたくない。
そう思って顔を伏せた、立てた膝の上に埋めるように。
「お休み連絡カードを見るのが唯一の楽しみだったんです」
学校を休んだ人に今日の出来事や明日の連絡を書く“お休み連絡カード”はクラスメイトからのメッセージの欄があった。日替わりで毎日3人ぐらいのメッセージが書かれてて、それをいつも幼馴染の柾哉が届けてくれた。
「…たぶん、めんどくさいって思われてたかなって思うんですけど」
早く元気になってねとか、明日の給食はプリンだよとか、当たり障りないこともたくさんあったけど白紙の日はなくて。
殴り書きの文字や何度も書き直した文字、はらいまで丁寧な文字を探すように眺めてた。
楽しかった、これを書いたこの人はどんな人なんだろうって想像するのが。
「みんなの書いた字を見るのが楽しかったんです」
俺のために書いてくれたんだと思うと嬉しかったから。俺にとっての1番の思い出だから。
「それぐらいしか友達と繋がれる場所がなかったんで」
だから、あの字を見た時思わず立ち止まってしまったんだ。
ひと目惚れだった、字を見てひと目惚れなんてあるのかって思うけど。
あの字を書いた人はどんな人なんだろうって。
「字フェチ」
ずっと黙ったままだった九重先輩が口を開いた、花たちもびっくりするような低音で。
「…あの」
「字フェチ」
「……。」
顔を上げちゃったじゃないか。
話聞いてました?だからそれには理由があるって…っ
「穴が開くかと思ったわ、ポスターに」
「…はい?」
額から流れる汗をタオルで拭いて、ふぅっと息を吐いた。
「見過ぎなんだよ」
「え…、気付いたんですか!?」
「お前くらいしかいねぇし、あれ見てんの」
「…。」
眉間にしわを寄せて厄介そうに、俺の方見てくる。
「やべぇ奴だなって焦った」
「…。」
本当この人にだけは言われたくないけど。どう考えてもやばいのは俺じゃなくてそっちでしょ。
「でもまぁ、あれ見てる奴もいるんだなぁーって思ったわ」
はぁ~っと息を吐きながら空を見た。
しゃがみ込んだまま、ヤンキー座りが似合い過ぎてこれが花壇の草取り終わりとは思えない。
「…どうゆう意味ですか、それ」
「別に」
パンパンッと手を払って立ち上がった、だからつられて九重先輩を追うように見上げちゃって。
眩しかった、太陽の光で反射する金色の髪が。
―キーンコーンカーンコーン…
あ、5限目の授業が終わった。
まるっと1時間サボってしまった、ずっとここで話を聞いてもらってたら…
「…ってどこ行くんですか!?」
やばっ、勢いよく立ち上がったら頭が…っ
「終わった」
「……。」
今のは授業が、じゃなくて草取りだ。
フラついて壁に手をついてぜぇはぁしてる俺なんて見えてないみたいに草でいっぱいになったゴミ袋を結んでる。
いや、いいけど手を貸してほしいとか思ってるわけじゃないからいいけど…ちゃんとゴミも片付けるんだなって関心しただけで。
「お前は?」
「はい?」
「…。」
「あ、俺は…帰ります」
もういい加減帰るかって思えてきた、なんかスッキリした気もするし頭は重いけど気持ちが。
「不真じっ」
「明日朝イチ体育なんです!」
ケッと吐き捨てる九重先輩に被せた、これはサボりじゃなくて明日に備えるための準備だから。
「…体育祭の種目決めテスト出たいんで、…体調整えたいんで」
ふぅーっと長めに息を吐いて、自分に大丈夫だって言い聞かせながら地べたに置いてあったスクールバッグを手に取った。
出来ないかかもしれないし、出られないかもしれないけど、明日のことは明日にならないとわからないし。
「真面目」
「普通ですよっ!」
やっぱり諦めたくないじゃん、自分のこと。
****
「藍、おっはよ~!」
「おはよう、柾哉テンション高くない?」
下駄箱で会った柾哉と話しながら教室へ向かう階段を上る、柾哉の足は軽くてポンポンと進んでいった。
「朝から体育だしな!」
そっか、柾哉からしたら朝から体育は嬉しいことなんだ。朝から体育はさすがに憂鬱かと思ってた。
「体育祭種目決めだし!」
「…そうだね」
たぶんこっちがテンション上がってる理由だな、柾哉は小学校の頃から学校行事は張り切るタイプだったし。
「どーせならクラスリレーも出たいんだよな~!」
そのテンションのまま盛り上げるし、俺はそれを遠くから見てることしか出来なかったけど。
「藍は?体育どーすんの?」
「…出るよ」
出る、じゃないと始まらない。
そのために昨日早退したんだ、今日のために。
「いいんだ?朝から走っても」
「あぁ、朝から走っちゃダメなんてことはないから」
朝から頭痛が始まったら1日中頭痛って弊害があるだけで、朝から運動がダメなわけじゃない。
だから朝から体育は警戒してただけで、それがよくないってわけじゃ…
「なんでそんな出たいの?」
前を上っていた柾哉が振り返った、ぱちくりした目で俺を見て。
「なんでって…」
「なんかやたらやる気じゃね?そこまでして出たいのかと思って」
それは…
柾哉だってやる気じゃん、部活対抗リレーに出ることも嬉しそうに報告してきたしクラスリレーだって出たいって。
どうして俺は違うみたいな、そんなの…
言われるたびすり減っていくように思ってた気持ちを声にして、そんな俺でもやってみたいことがあるんだよ。
「高校入って初めての行事だから」
ぐいっと顔を上げた、下は見ないようにグッと力を入れて。
「ずっと諦めてきたから」
それはきっとささやかで、みんなにとったらあたりまえの日常で。
「高校入ったら見てるだけじゃなくてやりたい、俺も」
それが全然手の届かないところにあるみたいに遠かった。
だから無理だと思って諦めてきた、どうせ出来ないからって。
でもみんなからもらったお休み連絡カードは楽しいことしか書いてなかったから。
いつか俺も、その中に入ってみたくてー…
「藍はやりたくないのかと思ってた」
パチッと目を丸くした柾哉が驚いたような表情をした。
え、なにその反応?わっかりやすく2回も瞬きしたんだけど。
「なんだよ、やりたいのかよ!」
「は?え?何…」
「なんだよ~~~!やりたいのかよ~~~~!」
「いや、だから…っ」
タタッと階段を下りてきた将哉ががしっと肩を組んできた。あまりの豪快さによろけるかと思った。
「よし、じゃあ優勝目指そうな!」
「え?」
ニカッと大きな口を開けて笑って。
「俺、藍はこーゆうの嫌いなんだって思ってた!」
「嫌いなわけじゃ…」
「実は好きだったのか~!」
「好きってわけでも…?」
「え、じゃーなんだ~??」
「なんだって…」
みんなの輪の中に入りたい、ってそれだけなんだけど。
なんかそれを言うのは恥ずかしくて。
「まぁいいか!なんでも!」
「よくないだろ!?」
ツッコんじゃったじゃないか、朝から運動もあれだけど大声もよくないんだからな。
「藍が体育祭楽しみ~♬って思ってんならよかったよ」
そんな俺より大きな声なんだけど、柾哉は。
今度はタタタッと階段を駆け上がって、1番上まで上って振り返る。
「藍には負けねぇ!」
俺を指さして。
「絶対負けるよ!俺が柾哉に勝てるわけないだろ!」
まぁなんか楽しそうで、すごく。
ふって声が漏れた、笑いたくなって俺も。
柾哉はそうゆう奴だからな、だから毎日文句も言わずお休み連絡カードを持ってきてくれたんだ。ピンポンよりでかい声でさ。
だからがんばろう、早くジャージに着替えてグラウンドに行かなくちゃ。
「……。」
…と、思ったんだけどさ。
き、緊張する~~~~…!
なんだこの緊張感は、走るだけなのになんでこんな心臓バクバクしてんだ意味がわからない…っ
ホームルームが終わってジャージに着替えた。
あとはグラウンドに行くだけなのに、急な不安がえぐい。
やばいな、頭痛はストレスも関係してるからこうやって気持ちが下がるだけでも…
「藍!早く行こうぜ!」
「あ、うん…!」
「…大丈夫か?なんかっ」
「大丈夫!全然大丈夫!!」
うんっと大きく頷いた、人から言われたら余計そんな感じになるからここはそうやって治めておくしか。
「だから先言ってて、トイレ寄ってから行くから!」
とりあえず深呼吸して、自分で自分を落ち着かせて、今更休む気なんかないんだから…
たぶん、ちょっと弱気になるけどたぶん。
頭痛とかしてないしてない、ちーっともしてないから…
「……。」
し、してないってことにしとく…!
本当は少し締め付けられた額を、気付かないフリして下駄箱へ向かった。
もうすぐ授業のチャイムが鳴る、早く俺も行かないと…
「ん?なんだコレ」
下駄箱を覗いたら朝はなかったはずの…水筒?誰か間違えて入れたのか?結構使ってあるっぽい黒色の水筒だけど…
それと小さな紙切れが入っていた。
なんか書いてある、なんて…
“字フェチへ”
この字は紛れもなくあの字で、何度も立ち止まっては見ていたあの字だった。
「…だから字フェチじゃないし」
“頑張れ”
そう一言書いてあった。
それは背中を押してくれるような、九重先輩の思いが伝わる字で。
勝手に頬が緩んで胸が熱くなって、水筒の蓋を開ければふわーっと爽やかな香りが広がって。一口飲んだら、もうそれだけでふわっと頭も心も軽くなる気がする。
「…よし、がんばるか」
大丈夫、走れる。今の俺ならきっと、大丈夫。
「藍!」
「ギリだった!」
「ギリだからセーフじゃん、ちょうどチャイム鳴ったとこだし」
鳴り終わりそうなところでギリギリ滑り込んだ、テストの前から走っちゃったけど今はいつになく気分がよくてまだ走れそうな気がしてた。
授業開始のストレッチだっていつもより楽に感じてるし、ひゅーっと体を纏う春風は心地いいし。
スカイブルーの空に向かってんーっと手を伸ばした。
さっきの緊張がちょっと落ち着いて来たかも、ドキドキはしてるけどこれは…うん、悪くない。
走るの楽しみって思えてる。
テストは名簿順で2人ずつ、最後の俺はみんなが走り終えたからの出番だけど…
「柾哉早過ぎ」
すでに順番が来た柾哉は遠くの方でガッツポーズをしてた。記録よかったんだ、だいぶ差をつけてのゴールだったもんなあれはきっとリレーの選手に選ばれるな。
「……。」
俺もがんばらなくちゃ、柾哉ほど早く走れはしないけど柾哉に負けないぐらい早く走れるように。
いよいよ俺の番になる、最後だからみんなに見られてまた緊張は増してきたけど…深呼吸をして思い出して、あのハーブティーの香りを。
「位置についてっ!」
先生の声と共に息を整えて真っ直ぐ前を向く。
「よーい…ピーッ!」
勢いよく吹かれた笛の音を聞いて大きく一歩踏み込んだ。
そのまま力いっぱい足を動かして、ゴール一直線に思いっきり走り抜けるイメージで。
足だけじゃない、手も体全部をも使ってはぁはぁと必死に息をしてまだ遠いあの先まで絶対行くんだって気持ちで走った。
あと少し、まだ少し、はやる気持ちを止められないまままた一歩踏み込…っ
「…っ!」
んだつもりだった、グッと踏み込んだつもり…
「藍~!?大丈夫かぁーーーーーっ」
踏み込んだはずだった足がもつれて思うように踏み出せなくて、転んだ。思いっきり転んだ。
前に飛び出すみたいに体まるごと…
は、恥ずかし過ぎる…!
なんだこの子供みたいな転び方は、柾哉の呼ぶ声がグラウンド中に響き渡ってるのも恥ずかしい…っ
で、でも走らなきゃ!とりあえず走り切らないと、このまま転んだままなのも耐え切れない…っ!!
****
「…失礼しました」
はぁっと肩まで落ちる息を吐いて保健室から出て来た。
しょっちゅう来てる保健室だけど、転んだ手当てをしてもらうのに来たのは初めてで南野先生もびっくりしてた。
いや、俺もびっくりしてるからこんな派手にいくと思ってなくて下はハーパンだったせいでズルッといってるし、結局体育途中で抜け出すことになるとか。
「…ダサ過ぎだろ」
あたりまえだけど記録はなし、最後まで走ったとこであの記録じゃ何にも引っかかるものがないし。
マジで最悪、みんなに心配されてゴールすんの恥ずかし過ぎた。
「はぁ~~~…」
歩く気力をなくしてその場にしゃがみ込んだ。ズキズキ痛む足を抱えるように顔を伏せて。
これなら休んだ方がよかったかもしれない。
だってこんなの体育祭に出たとこで何の役にも立たないし、邪魔なだけだし、迷惑かけるだけだし…
何が体育祭に出たいからだよ、最初から出る意味なんてないじゃないか。何にも出来ない俺なんて。
「……。」
ふと感じた、誰もいないはずの廊下に誰かいる。
誰かが俺の前に立っている、でも顔を上げないでもなんとなくわかってしまった…ほのかに香ったハーブの香りで。
「……。」
「…見てたんですか?」
「あぁ」
授業中だろ、授業受けろよなんでこんなとこにいるんだよ。
それともなんだ?何か言いに来たわけ?わざわざ俺に何か…
「笑っていいですよ、九重先輩」
しんっとする廊下に香るハーブは瞳をじわっと刺激する。
「…小学校の時はもっと走れたんですよ!結構早かったし、リレーだって出たことあるし、もっと走れたし…っ」
でも今日は違った、早く走らなきゃって思っても思うように足がついてこなくて気持ちばっかり先走って体が置いてかれてた。
それが何よりショックだった。
俺の記憶はあの頃のままなのに、現実は知らないうちに変わってた。
「…こんなに衰えてたとは思いませんでした」
ずっと休んでたから、走ることから遠ざかっていたから…
そっか、もう俺はあの頃みたいに走れないんだなってゴールが見えなかった。
だからもういっそうのこと笑ってください、こんな惨めな俺を思いっきり…
「笑わねぇよ、真面目にやったんだろーが」
いつもめちゃくちゃなのに、授業も受けないでこんなとこいるぐらいなのに。
目つきは怖いし声は低いし、強引だし人の話聞いてるのか聞いてないのかわかんないし、喋る気があるのかもわかんなくて…
でもどこかほっとする、そんな人なんだよ九重先輩は。
だってあの字は凛として温かいから。
あれはひと目惚れだった。
字に対してひと目惚れとかあるかわかんないけど、でもどんな人が書いたのか知りたかった。
ジャージの袖で顔を拭いてゆっくり立ち上がる、ハーパンのポケットから取り出した紙切れを九重先輩に見せながら。
「なんでそんな字上手いんですか」
「知らん」
「習字習って」
「ない」
「じゃあっ」
「上手くねぇよ!」
「いや、めちゃくちゃ上手いんですけど…!」
つい聞きたくなっちゃって顔を上げた、ずっと俯いてたから眩しくて。
金色の髪が微かに笑ってた。
「……。」
この人、笑うことあるんだ。
笑ったとこなんか初めて見たけど、しかもそんな顔で笑うのかー…
名前通り爽やかじゃんとか、思ったり。
「名前は?」
「え?」
「お前の?」
「俺の…?」
スッと指さした、俺が持ってた紙切れを。
「字フェチ」
「……。」
いやから字フェチじゃないけど!
そりゃ見るのは嫌いじゃないけど好きだけど、字フェチでは…!
あと相変わらず単語しか言わないし。
「由木藍士、です」
九重先輩の目を見て答えた、いつもはビクビクしてるけど今はそんなことなくて。くすって笑う声が聞こえたから。
「藍士」
…いや、名前の呼び捨てかよ。
いきなり名前の呼び捨てって…いいけど、別になんでも。
「ハーブティー、飲みに来いよ」



